「思い」 第三話



「…今日まで、皆様からは惜しみないご尽力を賜り、社長である私としては感謝の気持ちで一杯です。それに応えるべく、何とか再建の道を掴もうと、私としましても出来うる限りの努力をしたつもりでしたが、あまりにお粗末な私の不手際より……それも叶わず、ついには我が社は……手形決済が行えず、倒産という憂き目に………」

 その途端、それまで気丈だった社長は言葉を詰まらせた。
 それに呼応する様に、焼け跡に集まった従業員の多くは、沈痛な表情をさらに強めていった。
 年配や女子社員は涙を隠そうともせず、工場長に至っては焼け出された時と同様に号泣していた。
 多くの者が、その場で会社を惜しんでいた。

 街の一介の靴店主だった服部氏が社長となり、オリジナル靴製品などを手掛ける『ハトリシューズ』を誕生させてから僅か十年。その間、業績を着実に伸ばし、俺が入った頃の二十人から五倍の百人以上という社員を抱え、新規設備も充実させ、さあこれからという矢先の悲劇だった。
 当初、建物や新規購入の設備に掛けられていた火災保険と、隣接会社からの損害賠償請求など手順さえ間違えなければ会社再建は十分可能な筈だった。だが、こうした事に当然ながら不馴れな社長は、その過程で大きなミスを犯していた。
 保険があるとはいえ、機器設備等の再導入には新たに資金が必要となる。社長はその調達先をメインバンクに頼っていた。
 だが、不景気を理由に貸し渋られ交渉は難航。それを待ってはいられないと判断した社長は、新たな融資先を求めて奔走することになる。
 そんな疲れ切った状況の中、手形を入れれば直に資金を調達するという金融業者からの誘いがあった。普通なら疑って当然だが、渡りに船とばかりよく調べもせず、つい話に乗ってしまっていた。
 そして結果は、火を見るより明らかだった。
 気付いた時には、相手は音信不通。典型的な手形詐欺に引っ掛かり、根こそぎ持って行かれてしまったのだ。
 よく考えれば俺でも分かる手口だ。だが、切羽詰まった人間の心というのは脆いものだ。交渉の場には社長以下重役連中も居た筈だが、目先に心を奪われて誰一人として正常な判断を行えなかった。

 その情報は、またたく間に社員ネットワークによって広がった。誰もが大きな驚きと憤り、そして不安を抱いた。
 中には、社長宅に直接押し掛けた者も居たと聞く。
 しかし、多くの社員ははそれでも再建を信じつつ、自宅待機を眠れない日々の中で過していた。

 そして今日、社長の意思表明が焼け跡にて行なわれた。
 再建を希望し、期待していた多くは、それがたとえ困難な道であったとしても、社長自ら「何とか頑張って、皆さんと共に再建していきましょう」と言えば賛同する者は多かったに違いない。きっと俺も、その中の一人になっていた筈だ。
 だが、服部社長はそうはしなかった。

「皆さんの今後を考えると、本当に申し訳ない気持ちで一杯です。再就職先は、私の方で出来うる限り面倒を見させて頂きますが、それでも正直な所、全員が全員とはいかないかと思います。情けない……本当に、情けない社長で申し訳ありません。その代わりという訳ではありませんが、ごく些少ではありますが、今月の給与全額と、これまで積み立てた退職金へのプール全てから、規定により全員に退職金として計上した額を支給させて頂きます。これは必ずお約束します。どうか、どうかそれで勘弁してください……」

 言うと社長は地べたに手を付こうとした。

「社長!止めてください!」「社長!」「社長!」

 止めようとした従業員までが地面に膝を付き、社長と共に涙を流していた。まるで、懇意な人の葬儀に思えた。
 そしてこの瞬間、俺が数年勤めたハトリシューズは、その幕を下ろしたのだ。
 これは、その告別式だった。

 ああ、潰れたのか。やはりそうなのか……

 大勢の中、自分でも驚く程に、俺は冷静だった。すっかりと冷めていた。
 これからの事は何も考えられなかった。さらには、これまでの事も。
 そして、全てがもうどうでもよかった。
 自暴自棄とも違う、一瞬にして一切のこだわりを無くしたかの様な、そんな冷えた思いが続いている。
 まるで他人事の様に、そうした光景を俺は傍観していた。



◇      ◇      ◇



 押し付けた灰皿への残り煙をしばらく眺めていた由美子は、途切れると同時にそんな事を言った。

「ねえ、一緒に住まない?」

 その言葉はゆっくりと頭に広がり、ある感情が顔を覗かせていた。
 不思議と興味がその身を引き、暗い淵に沈み込む感覚。同時に陰鬱さが顔を見せ、なんとなく身を任せたくなる。
 あらゆる感情。驚き、抵抗、不安、そして戸惑い。
 そして俺は、次に来る感情を恐れていた。それは、あの時と同じ………

「ちょっと、聞いてる?!」

 その一言に我が返った。そしてゆっくりと顏を向ける。由美子は眉間にシワを寄せて怒っている。
 一瞬の出来事だったのだろう。だが、かなり長い時間に感じられていた。

「……あ、ああ、聞いてるよ」
「何よ、いきなり黙っちゃって。そんなにイヤなの?」
「い、いや、そういう訳では……」

 俺の返事に不機嫌な顔。そりゃ当然だろう。この誘いがどういう意味を持っているか、いくら疎い俺でも分かろうというものだ。失礼極まりない態度に違いない。
 軟弱な男だろうか?……ああ、実際その通りだ。そうでなければ、とてもこの感情は説明出来はしない。
 クソッ!何だってンだ。
 苛立ちを押さえつつ、俺は正面のグラスに目を落とした。そして気持ちを落ち着ける様、しばらくそれを眺め続ける。

 そんな俺に由美子は自分の手を重ねると、心持ち優しい口調で話し掛けてきた。

「深く考えなくていいわよ。実はさ、今住んでる所、一人じゃ広すぎるなって思ったんだ。だから薫が来てくれれば丁度いいスペースになるのよ。こうしてしょっちゅうデートしてるんだし、それなら毎日顔を合わせられるじゃない。きっと、その方が楽しいと思うのよね」
「……………」
「…あ、でも変な遠慮はしなくていいわよ。たまには本音をぶつけ合うのもいいし、自分の部屋同様にオナラの一つも出来る様じゃないと一緒に住む意味なんて無いし。あ、でもトイレは奇麗に使ってね。入って見たら、くっついてた〜なんてのじゃイヤでしょ?それでね…」
「オイ!」

 わざと顔をしかめて由美子を見る、
 あ!という表情が浮かび、次にはペロッと舌を出す。馴れっことは言え場が場だ。全く気がきではない。
 その容姿からは想像も出来ない事をたまにこうして口にする。大学生時代からこうだと聞いてるけど、これはもう性癖に違いない。
 カウンター越しに立つマスターは、いつも通りキュッキュとグラスを磨いている。しかし、含み笑いの横顔は隠し様が無い。
 ゆっくりと首を巡らし、由美子をにらむと、片手を上げて拝む様な仕草をしていた。本当に仕方無い奴だ。
 しかし、そのおかげだろうか。陰鬱さは消え失せ、ホッとした気分となっていた。
 俺は、いつもの調子で口を開いた。

「こんな無頼者にヒモになれってか?」
「無頼者ぉ?なによそれ。何か悪いことでもやってるの?」
「例えだよ例え。単なる失業者より格好いいだろ?」
「ばっかみたい。中身は一緒でしょ?それだったらプーでいいじゃない」
「分かった。議論するつもりは無いよ。で、由美子さんはそのプーである私に専属のヒモになれと、そうおっしゃる訳ですか?」
「茶化さないで!」

 目を大きくし、怒った顔を突き出してくる。どこまでも単純な奴。
 それでも、いつもの俺の調子と分かったんだろう。ニヤつくこっちにイーとやり返し、直にニッと緩めて笑顔を見せる。クルクルと本当に面白い。
 やがて、大人の表情に戻った由美子は少し身を崩すと、細長の奇麗な瞳を向けて再び話しはじめた。

「プーだからいいのよ。それに、ヒモもいいじゃない。そうそう経験出来る事じゃないわよ。会社勤めじゃ色々言う人居るけど、今なら全然困らないでしょ?あ、ウチのマンション、オバハン連中は気にしなくていいわよ。ゴミだけちゃんとしてれば別に何も言ってこないし」
「…だろうなぁ。そりゃあ、定職持ちなら単なる同棲だ。まだそっちの方がいいよ」
「何が違うの?」

 冗談で問うたのかと思ったが、その目は笑っていなかった。
 俺は、ため息混じりに答えた。

「男としての価値が全然違うよ。働ける身体を持ちながら、それを持て余すなんて事は俺には出来ないからな」
「それなら働きに出ればいいのよ。バイトでも正社員でも好きな事をすればいい。私はあんたを束縛しようなんて全然思ってないからね。だからその場合は家事と生活費は折半ね。でも、働きに出ないなら、生活費は私が全額出すから、薫には家事の一切をして欲しいの。一緒に住むんだし、それ位はいいでしょ?主婦と同じ事を薫がするの」
「主夫になれって言うのか?そりゃ得難い経験だね」
「でしょでしょ?じゃあ決まりね?」
「ちょっと待て。OKとは一言も言ってないだろ?」

 多少の皮肉を込めたつもりが、全く通じていない。都合のいい方にしか考えない性格は相変わらず健在だ。
 そして予想通り、由美子は明らかに不満気な顔をした。

「わっからないなあ。そりゃあ男だから定職に付いて社会的に保証のある身の方がいいとは私も言ったわよ?でもさ薫、さっきあんた、自分で色々試してみたいって言ったじゃない。それだったら同棲にしろヒモにしろ、何でも経験してみればいいじゃないのよ。別に危険な事やれって言ってる訳じゃないんだしさあ。住む所タダで、三食食べられて、小遣いもあって昼寝付きで、夜なんて肉布団の生活よ?一体何が不満なの?これ以上極楽で、美味しい生活なんて無いじゃない。私が男だったら絶対乗っちゃうけどなあ…」
「…それに答える前に聞きたいんだ。何故、俺と暮らそうなんて思ったんだ?そりゃあ互いに長い付き合いさ。けど、プライベートまで一緒というのは余程の事だろ?それに、そんなに慕ってくれる理由って何だ?自慢じゃないけど、ここまでモテた事って今まで一度も無いぜ。うぬぼれていいんなら、まさに由美子が初めてさ」
「……………………」

 馬鹿で間抜けな質問だ。この場で「こんな奴とは思わなかった。さよなら」と速攻で振られても不思議では無い。
 それは別に、嫌われたくて言ったのではない。ただ、どうしても聞きたかった。
 由美子からの、そうした思いのワケを。

「……何で…だろうね………。正直、私にもよくわからないわ………」

 両肘をカウンターに付き、指と指とを交差させた上に顔を乗せ、ボーッと呟く由美子の横顔に、俺はその先を促した。

「さっき、一緒に住んだ方が楽しいって自分で言っただろ。それが理由か?」
「…半分はね。でも、もう半分は違うと思う……。きっとさあ、その方が落ち着けるからよね………。いつまでも…一人で居るよりはさあ……」
「………………………」

 次は、こちらが答える番だった。
 俺は、グラスの残りを一気に呷っていた。



◇      ◇      ◇



 疲れた。コンビニのバイトだから楽勝かと思いきやとんでもない。
 年齢が上というだけでチーフ役をやらされ、年下連中の面倒まで見させられて、俺はすっかり辟易していた。
 随分昔に、TVで流れたコマーシャルに「馬鹿が多くて疲れません?」というのがあった。まさに、今の心境がそのものだ。
 どうしてこうもまあ、疲れる奴が世の中には多いんだろう。
 少しは自分で考えりゃいいのに、全てが人任せだ。この先、人生すら人任せにするつもりなのだろうか。
 だが、そうは言っても、ある程度は仕方ないのかもしれない。
 自分だって、当時は誉められたものでは無かった。それだけ歳を食って、細かい事が見えてきた証拠だろう。
 歩きながら、俺は夜空を見上げてみた。ぼんやりと、そんな雲で月が霞み、数少なくも星がまたたいている。
 冷えきっており、雪でも降るんじゃないかと思う路地を抜け、我が家であるアパートへと足早に急ぐ。

 俺は、相変わらずバイト生活を続けていた。
 短期間毎の不馴れな仕事。志の違う仕事仲間。年齢差故の疎外感。その何れもが、やたら疲れる原因だった。
 がむしゃらに頑張れた学生時代とは違い、妙な知恵が付いている分、立ち回りは誰よりも巧かった。
 だが、古参連中(と言っても俺より全然若いが)にすればそれが面白くないのだろう。一寸した失敗にも必要以上に文句を言われ、カチンときて口論になる事も少なくなかった。
 ある時、それが元で掴み合いの喧嘩になり、その後俺は一方的に解雇を言い渡された。
 どう考えても相手の非であり、いつもなら『そんな馬鹿な』と文句の一つも出た状況だった。
 だが、結局俺はおとなしく引き下がった。雇い主が単純に損得勘定だけで古参バイトを重んじた事が分かったからだ。そんな相手に理詰めをしても、何がどうなるものではない。
 こうした差別の世界はサラリーマン時代にも確かにあったが、バイト世界ではさらに露骨だった。イヤなら辞めろ、代りはいくらでもいる。それはどこでも似たようなものだ。
 嫌悪でしか無いそうした世界。それでも、最近は面白いと思えるから分からない。
 なら、こちらからも選んでやる。奴隷では無い。我慢して勤めてやる程、俺は出来た人間じゃあない。
 そんな、妙な余裕すら生まれていた。

「…落ち零れ……だな……」

 そうかもしれなかった。だが、この歳でこうした生活を送る俺にとっては、それもガス抜きの一つに違いない。
 忙しいのが分かっていながら、そう言って辞めた仕事も一つや二つではなかったから。当然、貰うものはキッチリ貰った上でだ。
 今では、定職に付かずに点々とする奴の気持ちがよく分かる。
 会社の為では無い、誰かの為でも無い、自分の為。自分が生活するに必要な糧を稼ぐ。
 そして、そこでの働きがイヤになったら辞めればいい。他の仕事はいくらでもある。そう、その気になればいくらでも………

 やがて、俺はその景色を見上げていた。自分の部屋に明かりが灯っている。いつもの事ながら、ホッとした気持ちになる。
 横の階段をカンカンと上り、一番奥のその部屋に向かう。
 あいつは今日も、俺に気付いているのだろうか?
 部屋の前まで来た時、それに応えるかの様にカチャリと扉が開いた。

玄関の向こう側に(鈴木雅久山賊版さん作) 「おかえりなさい。薫さん」

 暖色のクラシックなブラウスにセミタイトなスカート姿で、ユミコはいつもの様に出迎えてくれた。
 オレンジ色のサラサラとした長い髪。端正な顔立ちに浮かぶその無表情さは、他のセリオ型と変る所は殆ど無かったが、それでも何とも言えない温もりを俺はその中に感じていた。
 「ただいま」と短く応え、そんな彼女の横を抜けて部屋に入る。
 背後でカチャンと、扉を閉じる音が聞こえた。

「今日は冷えましたから先にお風呂にされたら如何でしょうか? 湯船の方、少し熱目にしておきましたので」
「ああ、そうさせて貰うよ」

 その場にバッグを放り置き、上着を脱ぐとユミコに渡す。それをハンガーに掛ける様子を横目で見ながら俺は風呂場へ向かう。
 そこから上がる頃には、いつも通り食卓に夕食が並べられている筈だ。
 それは、彼女がここに来てから何度も何度も繰り返されてきた行為の一つだった。
 飽きもせず、無論ユミコも文句を言わず、互いがそれを当然の様に受け入れている。

 風呂場に入った俺は、早速湯船に身を浸した。疲れと、冷え切った身体に何とも言えない心地良さが流れ込む。少し無理してでも2DKを借りて正解だったと思える一瞬だ。一人用だと、ゆったりと浸かれるこんな湯船は殆ど付いていない。

「ふう。極楽、極楽っと…」

 彼女が来てから、俺の生活は本当に楽になった。それまで食事は全て外食。風呂も面倒で入らない事が多かったのだ。
 だが、今はその全てが用意されている。部屋は明るく、そして暖かくして帰りを待っていてくれる。そうした全てが何にも増して嬉しかった。
 そして、それを感じる毎に、俺は由美子の事を思い出した。彼女と暮らしていたらどうだったろうか。
 多分、互いが望む様な形にはなっていなかったに違いない。だとしたら、どんな形になっていただろう……
 湯をすくって顔を洗う。それはもはや、考えても仕方の無い事だった。

 あの時、自分の気持ちを正直に伝えた。それで、その話題は終りだった。
 由美子は「そう、分かった」と一言漏らしただけだ。
 僅かな憂いとあっさりさ。それがやけに、余韻として頭に残っている。
 正直、由美子の事だからもっと執拗に食い下がってくると思っていた。結局彼女にしても、その程度でしか無かったのだろうか。
 そんな思いに捕われる自分が馬鹿馬鹿しい。気になるなら由美子本人に聞けばいいじゃないか。
 だが、やはりそれは出来なかった。
 悪いことをしたとは思っていない。むしろ言えて良かったとすら思っている。それに何よりも、今の関係が一番だと俺は思ったからだ。
 恋人とも、友達とも分からない不思議な関係。
 いずれ自然と離れる時が来たとしても、一瞬にして決定的な場面を迎えるよりは、その方がはるかにマシだろう。
 俺は、そう考えていた。

「薫さん。お湯加減の方は如何ですか?よろしければお背中流しますが」

 磨りガラス越しにユミコの立つ姿が見えた。

「丁度いいよ。ありがとう。背中は今日はいい。ゆっくり浸かっていたいからね」
「分かりました。あまり長湯されない様にしてください。それとお食事の方はいつでも召し上がれますから」
「ああ。それと出たらいつものが飲める様にしておいてくれ」
「かしこまりました」

 そんな姿が曇りガラスから消えた。改めてゆっくりと湯に浸かる。
 彼女だったら、こんなシチュエイションではどう対応してくれるだろう。
 本心から望まない形。でも、それはまた新たな形。
 頭を振って、俺はその考えを追い出した。



◇      ◇      ◇



「じっとしていてください。そうでないと崩れ落ちてしまいますから………はい、取れました。まだ残ってますので、そのままでいてください」
「ああ」

 見るともなしにテレビに目を向け、俺は生返事をした。
 そんな頭を寝間着姿の膝に乗せ、彼女は丹念に俺の耳を掃除してくれている。
 カサコソと、耳の中で響く音が心地良い。

「どうですか?気持ちはよろしいですか?」
「ああ、凄く気持ちがいい。こんなに上手だとは思わなかったよ。来須川で教えて貰ったのか?」

 意地悪な質問かなとも思ったが、ユミコの手が止まる事は無かった。

「いえ、そうではありません。情報として、上手な耳掃除は気持ちが良いものとありましたのでお聞きしたのです。練習した成果として、薫さんがそれを感じられれば良いと思いましたので」

 なるほど…と、真面目な返答を聞きながら俺は納得していた。
 ユミコはセリオ型の中でも最もエコノミーモデルであり、高額オプションとなるサテライトサービス機能は搭載されていない。知識ベースは高卒プラス社会の一般常識程度で、後は学習型としての経験や自己学習で情報を追加していく事になる。
 どんな練習をしたのかは知らないが、これも彼女なりの成果なのだろう。
 ククッと、思わず口から漏れた。だが同時に、何ともイヤな記憶が蘇る。

「耳掃除……嫌いだったなあ…」
「え?」

 その手がピタリと止まる。構わず、俺は続けた。

「子供の頃さ。お袋が好きでよくしてくれてな。けど、あれは拷問だった。竹の棒でゴリゴリされてる感じでね。痛い痛いと叫ぼうが『おとなしくしてな!鼓膜が破れるだろ!』って止めようとしなかった。自分は正しいとばかり、こっちの言葉には聞く耳すら持っていなかったなあ」
「お母さまから暴力を振るわれたのですか?」

 彼女にしては珍しく動揺している様に感じて、おれは思わず説明していた。

「いや、そうじゃない。不器用なだけさ。何をやってもね。そのくせ、それを指摘すると烈火の如く怒った。耳掃除だって、半分はヤケだったんだろう。当然俺はイヤでイヤでたまらなくて、ある日とうとう逃げ回った。そしたら、その日の夕食は出してくれなかった。昔の話さ」
「……………」
「どうした?続けてくれよ」
「あ、はい」

 珍しいなと思いつつ、まるで独り言の様に俺は話しを続けた。

「一時が万事、そんな調子だったなあ。俺にとってお袋は、えらく扱いの難しい存在でね。我が儘で、意地っ張りで気まぐれで、自慢話がやたら多くてプライドが高くて。そのクセ、指摘される事にはいつもビクビク脅えていて…」
「………………」
「俺は長男だったから、お袋の中で図式が出来上がっていたんだろうね。『お前はいずれ私とお父さんを養っていかなければならないのよ』ってね。ガキだったから、ああそうなのかと思っていた。けど、歳を経ると色々考える様になるし、次第にそうした考えに反発してきてね…」
「お母さまに反発されたのですか?」
「ああ、最後に思い切りね。それで結局は家を飛び出した。大学の時だ。つまらない話さ」
「………よろしければ、続きを聞かせて頂けますか?」

 自分から話しをする事はあっても、ユミコの方から聞いてくるのは珍しい。
 誰にも話した事は無かったが、俺は続けた。

「生まれてこのかた、俺はずっと実家に住んでいた。しかしその頃には、家族の団らんらしきものは殆ど無かった。誰もがえらく冷めていたっけな。オヤジは仕事一本の堅物で、普段から書斎に籠っていたから、同じ家でもたまに顔を合わせる程度だった。こんな話、聞いても面白く無いだろ?」
「いえ、お願いします」
「ふん。まあ、そんな状態だったんだが、ある日珍しく家族全員で食卓を囲む事があった。和気あいあいという雰囲気からは程遠くて、お袋は一人勝手に色々と喋っていたけど、俺は黙々とメシを食っていた。そんな時、卒業後の話しが持ち上がってね。ああ、またかと思ったよ。就職先、嫁さん、そして家を継ぐ事。全てが自分の思う通りになるという口ぶりだった。馬鹿馬鹿しくて、聞いちゃあいられなかった」
「…………」
「けど、その日は一寸違っていたんだな。いつのまにか家を購入した時の借金の話しになってて、月々の支払いが親父の定年退職後も数年続くという内容だった。そして両親……いや、お袋から、それを俺に継がせるつもりだとハッキリ言ってきた。長男だから当然だろうってね。いやはや、驚いたね。そこまで俺を縛りつけるつもりか?ってね」
「…それは、薫さんが御一緒に住まわれる事で、いずれは家も薫さんへと考えられての事ではないのですか?」

 俺は一寸驚いていた。こんなにも自分の意見を言うユミコは初めてだった。
 だが、とりあえずは全てを話したものかもしれない。
 構わず、俺は続けた。

「かもな。だが、俺からすれば迷惑な話しだ」
「ですが……」
「まあ聞け。俺はさ、その時までは借金は別にして、いずれは親を養っていく事になるなと自覚していたんだ。けど、それまでは一人で生活したかった。在学中は親を頼っても、社会人となったら独立するつもりだったのさ。親父の定年まではまだ間があったし、退職金だってあるだろう。そうしているうちに嫁さんを貰って、実家を二世帯にして住む分にはいいかな…ってね」
「………………」
「けど、そんな俺の考えはことごとく却下だ。妥協の一つも無しでな」
「その事をご両親に伝えられたのですか?」
「伝えたさ!」

 そんな口調にユミコはビクッと手を引いた。
 俺は身体を起こし、そんな彼女を正面から見据えていた。

「伝えたよ。そうしたいってね。したら何と言ったと思う?『家を出る事は許さない。就職後もここから通いなさい。その分は貯蓄に回しなさい。嫁さんもこちらで探してあげるから文句は無いでしょう。それに二世帯などとんでもない。今の建屋を変えるつもりは無い』ときた。そこに加えてさっきの借金話しだ。全く驚くやらあきれるやら…。当然、異を唱えたさ。そうしたら極めつけが来た。『なら、今直ぐここから出ておいき』ってね。学費は親持ちだし、そんな事俺には出来ないと思っての一言だったんだろうさ。けど、それで決意が固まった様なものだ。これまでの鬱憤を全てぶつけて、俺は家を飛び出していた」
「…………………」
「その足で、俺は富也の所へ転がり込んだんだ。当時はオヤジさんが社長で、奴は見習いだった。二人とも随分と驚いていたよ。けど、オヤジさんが理解してくれて、とりなしてもくれてた。そして俺は、卒業まで見習い工としてそこに雇ってもらえる事になった。しかも社宅付きでね。じゃなければ住居や学費に生活費はとても工面出来なかった。まさに大恩人さ。その間、両親との間を取り持ってもくれたんだが、結局互いに歩み寄る事は出来なかった」
「仲直りされなかったのですか?」
「ああ、俺の中には同じ血が流れているんだ。意地っ張りは互角だった。オヤジはお袋の言いなりだし、結局はそれっきりさ」

 いつのまにか、考えていた事以上の内容をオレは口にしていた。
 それでもユミコになら、その全てを話してもいいかもしれない。

「それでは、ご両親は今、どの様にされているのですか?」
「…俺には妹がいてね。それが最近結婚して、そのまま実家に住んでいる。旦那はマスオさん状態だそうだ。ったく、初めっからそうすりゃあ良かったんだよ。人には散々長男だ長男だと暗示をかけやがって。結局は自分たちの面倒を見てくれる奴なら誰でも良かったんだ。俺はその為の単なる道具さ」

 その時の事を、俺は話しながらしっかりと思いだしていた。
 電話口で聞いた母親のホッとした様な、それでいて責める様なとめどない言葉。
 だが、それだけなら大した事では無い。問題は、その後の…

「それでしたら、妹さんとの連絡は……」
「入れたさ。そうしたら言いやがった。『お兄ちゃんはいいわよね。私と彼はさ、これからずっと両方の親の面倒を見なければならないのよね』ってな。じゃあ、あの時お袋に素直に従えば良かったのかよ。俺の思いを投げ打ってまで、そうした方が円満だったって言うのかよ!」
「……………………」

 それっきり、俺は黙った。
 そして表情こそ変ってはいなかったが、彼女は明らかに俺の爆発に驚いた様子だった。
 俺は、今になって話した事を後悔していた。ユミコには何の関係も無い事だ。聞きたいからと話したが、この生活には余計な事でしかない。

「…………あの…」
「…何だ?」
「もう片方を掃除したいのですが、よろしいですか?」

 言われて何だか気が抜けた。そう、彼女にとって意味なんかありゃしない。一寸驚いただけ。そうに違いない
 「ああ、それじゃあ頼む」と返事をし、俺はそのまま寝返りを打った。

「それでは、続けさせて頂きます」

 …カサコソ、…カサコソ。
 そんな音が、再び耳を駆け巡る。本当にいい気持ちだ。先程の高ぶった気持ちが、まるで嘘の様に静まって行く。

「当然ですが、私には両親というものがありません。ですから、薫さんとそのご両親との関係というものが、上手く理解出来ていないかもしれませんが………」

 うん?と思い、そのままユミコの言葉に耳を傾けた。

「私を必要として頂ける方の為に、出来る限りの事をしてさしあげたい。そう思う気持ちが心の中にはあります。もし、薫さんがお困りでしたら、何でもおっしゃってください。お役に立てるかは分かりませんが、どんな事でも精一杯努力致しますので」
「ああ、ありがとう。その一言で気分が楽になったよ。怒鳴っちまってすまなかったな」
「いいえ、私の方こそ失礼致しました。お話しの方、ありがとうございました。薫さんの事がまた一つ分かった様に思います」

 分かった様に思う……か。
 そうだよな、一辺の話しを聞いた所で、分かるのは上辺だけだ。本心は自分ですらじっくりと掘り下げないと分からない。人の心はそれだけ複雑だ。
 だが、それはユミコにしても同じなのかもしれない。

「薫さん。一つ質問してもよろしいでしょうか?」
「ああ。何だ?」
「耳掃除の事です。嫌いだったと言われていましたが、私が初めてさせて頂いた時には、そうは感じませんでした。ですから、少し驚いたのですが……」
「………」

 由美子。…そう、思い出していた。それは彼女のせいだった。
 部屋へ遊びに行った時、嫌がる俺を無理矢理自分の膝に寝かせて「大丈夫大丈夫。恐くないから」とフザけながらも耳掃除を始めたアイツ。
 情けない事に、俺は次にくるゴリゴリした痛みに耐えるべく、身体を固くしていた。

『アンタさあ、耳掃除の良さって知らないでしょ? 今から教えてあ・げ・る』

 そう言って、クスクスと笑っていたのをよく覚えている。
 やがて、身体から力が抜けていくのが分かった。そして終わる頃には、俺はすっかりと彼女の膝枕にその身を預けていた。

『どう、気持ち良かったでしょ?私の得意技なのよね。家族の耳掃除、私が牛耳っていたんだから。それはもう、弟も妹も私が耳掃除っていうと先を争って膝に寄ってきてさあ、どっちが先かってジャンケンで決めてたりしてたんだよ。可愛かったなあ。でももう、二人とも結婚しちゃってさ。はは、私が一番最後になっちゃった……』

 何で……忘れていたんだろう? 結構、大切な事なのに。

 そんな間も、黙々と耳掃除は続いている。俺からの返事は無いものと思っているのだろうか。実際、その方がありがたい。
 由美子には、今の生活を伝えてはいなかった。隠している訳じゃ無いが、あえて言ったものでも無かったから。
 いずれは、ちゃんと話すべきだろうか。あいつと同じ名前を付けた、そんな訳も含めて……

「終わりました」

 催眠術から覚める様に、そんな声が頭に響いていた。
 俺はそこから起き上がる。

「ありがとう。よく聞こえる様になったよ。ついでだけど、マッサージの方も頼む。最近どうもコリが酷くてね」
「分かりました。それでは布団を出しますので、その上に俯せてください。薫さんが眠られるまで続けますから」
「ありがたいね。頼むよ」

 目の前でユミコは寝床を整え、俺は言われた通り俯せに身を横たえる。
 その横に膝を付き、首筋に優しく手を添えられてマッサージが始まった。リズムに乗って、細い手が強すぎず、弱すぎずの絶妙な力加減を与えてくる。耳掃除に負けず劣らずの心地よさに、早くも俺はウツラウツラとしていた。
 やがて、その手は肩へと移り、次には背筋から腰へと流れて、要所要所のツボが的確に押されていく。
 ウッと唸りながらも、その後にくるフワッとした夢見心地の中で、彼女の声だけが静かに頭に響いていた。

「薫さん。聞いて頂きたい事があるのですが、話してよろしいでしょうか?」

 簡単に、「ああ」とだけ俺は答えた。

「こちらにお世話になってから、不思議に思っていた事があるんです。それは、私がここに来た理由です。薫さんが、私を探してくださった事は以前教えて頂きました。ですから、それを私が考えるのは僭越かとも思ったのですが……」

 …何を言ってるのだろう?それ以外に理由など無い。
 しかし、俺は興味を持ってその言葉に聞き入っていた。

「そう思ったのは、私の奥深い所に残る潜在としての記憶からです。以前の記憶はこちらに来る前に全て消されている筈なのですが、それまでに受けた刺激とも言える情報があまりにも強烈であった場合、それが感覚という形で身体の各所に残留し、その後も潜在的な記憶として再構築されてしまう場合があるそうです。それが、最近になって私の中でも確認出来ています」

 それは富也からも聞いていた。新品のメイドロボットと違い、そうした過去とも言える記憶を持っている場合があると。
 そんな刺激を受けたメイドロボットの中には、過去のそうした記憶にとらわれて日常の業務に支障が出てしまう場合もあるらしい。
 それ故、ユミコの時も富也が随分と念入りに注意深くチェックをしてくれていた。
 だが、そうした情報の再構築は、稼働してしばらく経ってから分かる場合が多い。そしてその記憶は、あまり良くない思いとして残っている場合が多いのだ。
 メーカーが積極的に中古のメイドロボットを扱わない理由は、そうした所による。

「…真っ赤に燃え盛る炎の中と、目前の幼子を抱えた自分の腕。それが部屋の中を移動しているのですが、どこまで行っても炎が途切れない……そんな、抜け道の無い感覚です。薫さんが以前話してくださった、赤子さんを救出した時の記憶だと思います」

 やはり、記憶は戻っていた。
 あれだけの体験ともなれば、それも当然なのかもしれない。
 俺は、ユミコをここに連れて来た当初から、そうした現場の様子をつぶさに彼女に話していた。
 記憶が戻らなかった場合、それは無意味どころか不必要に恐がらせるだけなので迷ったが、結果としては正解だった様だ。事前にそれを知っていれば、感情のギャップに彼女が悩む事も無い。
 ホッとすると同時に、より深い睡魔に襲われる。
 ユミコの話しは、まだ続いていた。

「そして、もう一つの記憶………言葉ではありません。恐らく、赤子さんの心の声だと思います。母親が傍に居ない…熱い…息が苦しい……そして、本能的に死を感じ、そこから逃げだしたい……そんな、救いの気持ちとあらゆる感情が入り交じったものでした」
「…………………」
「こうした、言葉を使わないコミュニケーションというものは、私たちの間でもしばしば取り交わされる事があります。恐らく、火の中へ飛び込むまでの私と他のメイドロボットとのやりとりも、そうして行われた筈です。そして、人間の方とも……ごく小数ではありますが、取り交わす事の出来る方がいらっしゃいます」
「……………………」
「あの時、腕の中にいた幼い命からの言葉にならない言葉を、その思いを、確かに私は感じる事が出来たんです。そしてそれを確信した瞬間、私は炎の中から抜け出せた様に思います」
「……………………」

 言葉を使わずに、意思を取り交わす……感覚的な?……まるで、テレパシーだな。
 しかし、人間とそんな事が出来るなんて………しかも、子供となんだろ?……本当なのだろうか?
 俺は、何か返事をしたつもりだったが、自分の耳には届いていなかった。
 マッサージは続き、ユミコの話しも続いている。眠気がいよいよ強くなってくる。
 その話しは、もう明日にしてくれ……
 そう思った。

「先程、薫さんがお母さまの話しをされていた時、私の中にもう一つの意識が流れてくるのを感じました。はじめは微かに、それから徐々に強くなっていきました。そして、薫さんが大声を上げられた時、はっきりと分かったんです。…薫さんは、泣かれていました。誰も居ない所で、一人で寂しそうに……」

 …ユミコ? お前、何を言って……

「私がここへ来たのは、決して偶然では無いと思います。こうした言い方をお許し頂きたいのですが、来るべくして来たのだと思っています。そして、そう思ってくださったからこそ、私はこうして働けているのです。私はこれからも、薫さんのお力になりたいと考えています」

 深い意味など無かった。ただ、あの姿を見た時から、側に居て欲しいと願った。ただ、それだけだった。
 まさに、それは衝動だった。彼女が欲しい。そうした欲求そのものだった。
 けど、そうでは無いのだろうか? 俺が泣いていた? 来るべくして来ただって?
 欲したのでは無く、必要とされたかった。それが、今の全てだとしたら……
 …眠い。考えがまとまらない。だが、このまま眠ってしまっては……
 そんな意識とは裏腹に、俺は誘われるまま深い眠りへと落ち込んでいった。


第四話へ続く.....


 【挿し絵について】

  作中の挿し絵は鈴木雅久山賊版さんより特別に贈ってくださいました。鈴木雅久山賊版さん、どうもありがとうございます。
  元絵は「お宝の部屋」に置いてありますので、よろしければそちらもご覧ください。



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