「思い」 第四話



「じっとしていなさい。あんたはすぐ動くから危ないったらないんだから」
「………」
「それと、少しは素直になりなさい。何かっていうと直に私に逆らって。今からこんなんじゃ、本当先が先が思いやられるわ」
「………つっ!」
「大体普段からして落ち着きが無いんだから。それでいいと思ってる?本当、誰に似たんだか。直ぐに逆らう、文句を言う、イタズラはする、おまけに思いやりが全く無いときてる。ほんっっっっと、私の子供とはとても思えないわ」
「……いた!いたた!痛いよお母さん痛い痛い!」
「じっとしてな!痛い訳無いでしょう!まだ何もしてないじゃないの!」
「してるよぉ!それに本当に痛いんだよぉ!」
「アンタが力を入れてるからでしょ!普通にしてれば痛く無いのよ!」
「…痛!やっぱり痛い!お母さんもういいよ!もういい!もう耳かきいらない!」
「そんな訳にいかないでしょ!アンタ、そんな汚い耳のままでいいと思ってるの?みっともないったらありゃしない!」
「痛いよりはいいよ!もういい!」
「待ちなさい薫!戻って来なさい!そうしないと容赦しないよからね!薫、戻りなさい!薫!私の言う事がきけないの?薫!薫!かおる!」

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「…結局はさあ。兄妹ったって他人同士なんだよね。誰だって家族のやっかい事なんかに関りたくないでしょ?それは私も同じ。お兄ちゃんだってそう思ったから出ていったんだよね?」
「………里美。お前には申し訳ないと思ってる。けど、あのまま素直に従う訳にはいかなかったんだ」
「いいよそんなの。言い訳を聞きたくて来たんじゃないもの。私は単にお母さんからの伝言を伝えに来ただけだから」
「お袋の?」
「そ。簡単なものよ。じゃあ伝えるね。『あなたは好きに、自分の人生を歩きなさい』…以上」
「………な…」
「ね?簡単でしょ?」
「なんだよそれ。本当にそれだけかよ?」
「言ったでしょ?それだけよ」
「だから何なんだよ? たったそれだけかよ!そんな事言われるまでもねえよ!偉っそうに。何が言いたいんだよ一体!」
「少し落ち着いたら? それに、良かったじゃないの。結局、お母さんにしたら、お兄ちゃんなんて必要としていないって事でしょ? だったら好きにすればいいじゃない。いいわよねー、長男の義務から逃れられてさあ」
「さ、里美……お前、そんな言い方……」
「だってそうじゃない。それに、私はそんなにはお母さんの事、嫌いじゃないもの。むしろ好きかな。だからあそこから出るつもりも無いし。そうなれば当然、私の方にそうした話が来て当たり前でしょ? 別にいいわよ。私一人じゃ大変だけど、一緒に住んでもいいって人を見つけるから。実は候補が居ないでも無いのよねぇ。そういう意味ではこの時代っていいわよね。女の子はその気があれば旦那さん選びには困らないからさ」
「……それって、俺の代りを見つけたって事かよ?」
「さってと、私そろそろ帰るね。伝える事伝えたし、これ以上ここに居る必要も無いし」
「ま、待て。まだ話が……」
「あるっていうの?後はこっちの家族の問題でしょ? お兄ちゃんには関係無いじゃない。じゃあね」
「待てよ里美!」
「痛いなあ。離しなさいよ」
「あ…ご、ごめん。けど、もう少しだけ話を…」
「私さあ。正直言ってせーせーしてるんだぁ。お兄ちゃんが出てってくれて。お母さん気に入らないの分からなくも無いけど、家の中でずっーと暗〜くて険しい顏したままでさあ。本当、辛気臭くてたまんなかったわ。そうやってずっと自分の殻に閉じこもったきりでさあ。大体、こうして二人で話たのだって、もしかしたら初めてなんじゃない? 私たちって全然会話が無かったものね。お兄ちゃんの中には私なんて初めから存在して無かったんだよね」
「そ、それは違うぞ里美。俺はいつだってお前の事を……」
「よく言うわ。今更そーんな事言ったって遅いのよ」
「聞けよ!そりゃあ確かにお前との会話は殆ど無かったかもしれない。だがそれは……」
「私さあ、お兄ちゃんの事嫌いだったんだあ。それは今も同じ。昔は何でだろうって思ったし、それが悲しかった。理由も無かったしね。多分、そういう兄妹なんだよね私たちって。でも、それはそれでいいんじゃない? さっきも言ったけどさ、結局は他人なんだよね。たまたま一緒に住んでいた、血の繋がった赤の他人。お兄ちゃん見てると、それがすっごくよく分かる。じゃあね。これで本当にバイバイ。元気でね」
「待てよ!そんなつもりじゃ無い。俺はそんなつもりじゃ無いんだ」
「じゃあねー。好きにすればぁ〜? あははははは」
「里美。待てよ。里美。里美!さとみー!」

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……夢?…………夢を見ていたのか、俺は……
けど、何だってこんな夢を?

 起き上がった部屋の中は、まだすっかりと暗いままだった。
 折り返った、そんな掛け布団が目に入っていた。見つめているうちに、じわじわと冷気が身体を覆っていった。
 その寒さに思わず身震いをした。やけにリアルな夢だった。まるで、その頃に帰った様だった。
 そして、思い出したくも無い夢だった。

「薫さん、どうかなされましたか?」

 ユミコの声だ。優しい声だと思った。まだ。夢を見ている気がした。

「…ああ、何でも無い。夢を見てね。懐かしい夢だ」
「そうですか。突然起きられたので驚きました。ご気分は如何ですか?お水でもお持ちしましょうか?」
「……そうだな、じゃあ頼む」
「かしこまりました」

 隣に寝ていたユミコが起き上がると、寝間着姿が薄闇にフワッと浮かぶのが見えた。そんな姿に思わず目は引かれる。
 薄桃色の存在が現実のものでは無い気がして、俺は台所に消えるまで、彼女を眺め続けていた。
 そのまま、横に手を伸ばす。人肌の暖かさが手のひら一杯に広がっていく。紛れもない、彼女の暖かさだった。
 本来なら、充電中でも眠る必要は無い彼女だった。だが、俺は自分と同じ生活スタイルを要求していた。
 俺が眠る時は、同じ様に布団で寝て欲しい。
 ユミコは、快く承諾してくれた。

『その時間を利用して、体験や学習による蓄積したデータの整理を行いたいと思いますがよろしいでしょうか?』

 当然許可していた。そして、その内容については一切聞かなかった。
 俺はその時、彼女が一方的に情報を受け入れるだけではなく、彼女なりに考えて行動出来る事に改めて気付かされていた。

「寒いですから、少しぬるめの白湯にしてみました。どうぞお飲みください」

 いつしか戻っていたユミコを見やる。両手に支えられた湯呑みが差し出している。
 それを受け取った手に温かさが広がり、それだけでホッとした気分になった。しばらく楽しんだ後、俺はそれを一気に飲み干した。
 心地良さが、身体にゆっくりと広がっていった。煮沸した湯を少し冷まし、冷水で割ったものだと直に分かった。
 指示した訳では無い。それが一番いいだろうと、ユミコが考えて持ってきてくれたものだ。
 そうした心遣いが嬉しかった。

「気が利くな。どうもありがとう」
「喜んで頂けて嬉しく思います。私の方こそありがとうございます」

 微笑みがユミコに浮かんだ気がして、胸の中に疼きを覚えた。
 実際、その表情は殆ど変わっていないのだろう。だが、こうして一緒に暮らす様になってから、そうした変わらぬ中に豊かな感情が表われているのを俺は感じ取っていた。
 それは、彼女がそうしたものに多感である現われだと思った。そうでなければ主人が何に怒り、何に悲しみ、何に安堵し、何に喜びを感じるのか理解する事は出来ないだろう。
 そしてそれ以上に、彼女の俺に対する気配りは十分過ぎるものだった。

「お顔を失礼します」

 湯飲みを下げに台所に行っていたユミコは、戻って来ると同時に俺の側に膝を付き、額に手を当ててそう言った。
 ほっそりとした白い手。そしてひんやりとした感じが心地良く、俺は自然と目を閉じていた。

「平熱まで下がりましたね。お加減は如何ですか?」
「昨日に比べたらはるかにいいよ。今日は仕事に行かなきゃな。もう二日も休んじまってる。店長がいい人なんで甘えちまったけど、これ以上はさすがにね」
「………………」
「どうした?」
「……本当でしたら、今日も休んで頂きたいのですが…」
「なんだ、俺が居なくなるのが寂しいのか?」

 からかう気持ちで、彼女にそう言った。
 同時に、感謝の気持ちも込めていた。日曜など休日も含め、ここ数日床に臥していた俺の面倒を一所懸命看てくれたのはユミコだった。
 子供の頃、寝込もうものならタップリと小言付きだった事を考えれば、こちらが恐縮する程の献身ぶりだった。
 人とロボットによる主従の関係。当然なのかもしれないが、それだけではない不思議さを俺は感じていた。

「お熱の方は下がりましたが、薫さんの体力から考えると、まだ十分では無いと思ったものですから…」

 淡淡と話す姿に、人の様な恥らいは無かった。しかし、それはユミコなりに心配しての言葉だと俺は思った。
 同時に、一寸残念に感じていた。そうした俺の体力を、計算機による無機質な数字ではじかれたかの様で、やはりロボットなんだなと感じてしまう。
 だが、それは俺の期待が過ぎるというものだろう。
 彼女はさらに言葉を紡いだ。

「…私の立場からすれば、こうした返答はいけない事とは思いますが………正直な所、薫さんの言われる様に、やはり少し寂しいのかもしれません。ほんの数日でしたが、つきっきりで看病出来ましたし、それが大きな喜びであったのは事実です。額のタオルを取り替えたり、食事の介護をしたり、お身体を拭かせて頂いたりと、より身近でお世話出来た事を幸せに思います」
「……………」
「ですが、本日からはまた、バイトに出られるのですね。少し心配ですが、無茶と言える状態ではありませんので、朝にはまた、朝食とお弁当を用意します。そして、いつもの通りに留守を預からせて頂きます」
「…………………」
「申し訳ありません。勝手な事を言ってしまって。それでは、もうそろそろお休みください。明日はいつも通りにお起こしします。その少し前に一度、お熱を計らせていただきますね。朝食は消化の良いものを用意しますので……あ!」

 ユミコを引き寄せると、俺は思い切り抱き締めた。そのまま膝の上に抱ながら、強く唇を重ねる。
 いきなりで驚いた様子だったが、彼女は直ぐに力を抜き、両目を閉じて身体を俺にあずけてきた。
 しばらくして俺は顔を上げ、目を開いたそんな彼女の瞳をしっかり見つめると、再びその全てを包んでいった。
 サラサラと、まるで流れる様なその髪に顔をうずめる。柔らかな温もりと共に、リンスの良い香りがした。ロボットなのにどうして…と思った。

「か、薫さん……」
「お前が人間だったなら……俺は、このまま押し倒している所だ」

 彼女への何度目かの衝動を、俺はそのまま口にしていた。
 背中に、優しく手が回される。

「……申し訳ありません。私にはその様な……」
「言わなくていい。分かっている。それに、俺はそんなつもりでお前を側に置いているんじゃない」

 本心だった。心からの渇望としてユミコを求めた。
 今では、はっきりと自覚していた。

「……ありがとうございます。とても嬉しく思います。ですが、私はロボットです。ですから、人間の方と同じ位置に立つ事は出来ません。それでも、薫さんがそれ以上を望まれるのであれば、どんな事でも、私にに出来うる限りの事をさせて頂きます」
「ユミコ、お前ってやつは……」

 回した両腕にさらに力を込める。
 どうしてお前はこんなにも健気になれるんだ? 優しくなれるんだ?
 そう作られているからか? そう言えと教育されているからなのか?
 それとも、お前の心は、そうしたものを越えた所にあるのだろうか…

「……俺と同じ……人の心を持っているんだな、お前は…」

 そう告げていた。それまでに幾度も意識しながら、伝えそこねていた言葉だった。
 例えそれが作りものであっても、この癒される思いに嘘は無い。
 そして思った。今の自分は、ユミコにただ甘えているだけなのではないか。そうだとしたら、この先どうしていけばいいのか。
 その方法は分かっている。分かっていながら触れようとしない卑怯者がここに居る。
 何故、いつもこうなのだろう。不満を感じないならそれもいい。
 だが、結局はそうじゃない。だから、こんなにも辛く、そして苦しい。

「しばらくでいい。こうしていてくれないか?」

 抱き締める手をそのままに、耳元に囁く様にしてそう言った。

「……よろしければ、今夜はご一緒させてください。このまま薫さんと、一緒の床で眠りに付きたいと思います」
「…ありがとう、ユミコ」

 俺達は、そのまま布団に横たわった。片腕にユミコの重みを感じながら、もう片方の手で掛け布団を引き寄せる。
 彼女は俺の胸元に丸くなる。それをしっかりと抱き、その香りを一杯に感じ、再び自分を埋めていった。
 安らかな存在感。人間と変わらぬ、心から感じられる安堵感。それが、ユミコだった。
 俺は、ゆっくりと彼女の頭を撫でた。腕の中から伝わる規則正しい息づかいが心地良い。
 まるで子守歌に思えて、自然とまぶたが下がっていく。
 撫でる手をそのままに、彼女と同じ世界へと、次第にその身を委ねていった。



◇      ◇      ◇




「冗談じゃねえよ。どうしてこう、車をいたわろうとしないのかねえ。高級スポーツカーだってのに、これじゃあ形無しだな」
「まあ、最近はボンネットすら開けたことの無いユーザも多いからね。教習所で教えてくれる筈だけど、免許を貰ったとたん一切忘れて新車を購入。スロットルならぬアクセル全開。定期点検は一切やらない。まあ、メーカー保証の有無に関係無く、こちらとしてはいいメシの種だね」
「その度にこんな面倒な作業をさせられたんじゃたまらねえよ。よく大人しく引き受けてるよな富也は。俺だったらオーナーに文句たれてるぜ。最近のターボは丈夫といっても、慣らしもしないでいきなり高回転で長時間ブン回せばイカれて当然だ……と、取れた取れた。…あー見ろよこれ。完全にフィンの一部が脱落しているぞ」

 取り外したターボユニットを、俺は整備穴から外に突き出した。外に居た富也が受け取る為に屈むのが見えた。

「……あー駄目だこりゃ。完全にパーだね。大したもんだ」
「感心している場合か。で、どうする?このまま新しいの付けちまうか?」
「そうだね、壊れているのは排気側だし……でも、今日はここまでにしよう。組み立てに時間がかかるから、下手すると明日になっちゃう」
「じゃ、今日はこのままだな?」
「うん。また明日頼む」
「OK」

 細長い整備穴の前に俺は移動し、縁に手を付いてヨッとばかりに這い出した。立ち上がって軍手のままツナギの胸元をパンパンとはたく。

「おつかれさん。とりあえず事務所に上がろう」
「ああ」

 もう整備工場に残ってるのは俺たちだけだ。その明りもパチンパチンと次々消されていく。俺は外に回り、シャッターをガラガラと閉めた。
 程無く富也もそれに加わり、全て完了後、きっちりと鍵をかけ回る。

「相変わらず安いシャッターだなあ。俺が居た頃と全然変わらねえの」
「それでも一度交換してはいるんだよ。ロックがより頑丈になったんだ。結構安かったんだぜ」
「どうせなら電動式にしろよ。まあ、お前に言うだけ無駄か」
「そういう事。よく分かってらっしゃる」

 悪戯っぽい笑いを浮かべながら、富也はそのまま事務所に上がって行った。俺もその後に続く。
 こちらはすっかりと照明が落ちており、富也はパチンと最低限の蛍光燈を付けた。
 俺はそのまま洗面所へと向かい、顔と手を工業用石鹸で洗い流す。冷たい水に我慢しながらそれを終えると、手拭いを使いながら自分の席へと戻った。
 割り当ての安っぽい事務机。その椅子にドカッと腰を落ち着ける。
 いやはや、疲れた。こんな時間まで作業していれば当然なのだが、ついつい自分の歳を意識してしまう。
 手拭をもう一度使いつつ富也の方を見やると、奴は自分の机に潜り込んで何かゴソゴソやっていた。

「何やってんだ?」
「いいこといいこと。一寸待ってな。いま出すから」

 ああ?と見ている前で机の下からニュッと手が伸び、その持っていた缶ビールが置かれていった。一本、二本……………八本、九本? なんだ? えらく多いぞ?
 そう思ってると、次には珍味の袋も並んでくる。

「おいおい、まるで酒屋だな」
「あ、それもいいね。ここが潰れたら次はそれでいこうかな」
「馬鹿たれ。資格も無くてやれるかよ。まあそれはいいとして、なんでお前の机にそんなモノが溜ってるんだ?酒飲みながら仕事してるのか?」
「今日一日一緒にやったんだから、んな訳無いの知ってるクセに。あくまで宿泊用だよ。小さな冷蔵庫だけどね。思ったよりも結構入るんだ。これでレンジがあれば完璧だね」
「机の下にか? あのさあ、お前社長だろ? やってる事がガキそのものだぞ」
「あははは、それは言える。まあいいじゃない。そのおかげで薫はボクのご相伴にあずかれると、そういう事だろ?」

 最後には500のロングを両手に持ちながら、ヒョイと顏を出した富也はそう返した。「そりゃ違いねえ」と、俺もニヤッと返す。
 そいつを受け取ると、冷蔵庫に入っていただけあってしっかりと冷えていた。プシュ!と同時にプルを引く。

「それじゃ、我が『ボブ』への薫の復職を祝して。乾杯!」
「復職ったってバイトだぜ? しかもお前の強引な誘いを受けてじゃねえか」
「いいからいいから。ここはボクの顏を立てて、ほら!」
「分かった。それじゃ乾杯」
「乾杯!」

 さすがに喉の渇きもあって、俺達は一本目をゴクッゴクッと一気に飲み干していた。プフーと同時に息をつく。
 そのまま二本目に手を伸ばす。富也は珍味の袋を開けながら口を開いた。

「それにしてもさすがだね。久々だし、車種もすっかり入れ換わっているのに手際の良さは変わらない。やっぱ基礎がしっかりしている証拠だね」
「おだてても何も出ないぞ。第一、俺が居た時よりメンテフリーが増えてるじゃねえか。整備屋では手を入れられない箇所も多いし。でもまあ、以前よりかは楽になったんじゃねえか?」
「そうかもしれないけど、中にはよく分からずにいじっちゃうお客さんも居るからね。前では考えられないトラブルが増えているのもまた事実さ。明らかに違法改造は拒否しているけどね」
「まだそんなのを持ち込む馬鹿が居るのか?」
「後を絶たないよ。見た目ボロいから、そうした車も扱ってると思われるのかもしれないけど」

 毎度ワンパだとは思ったが、俺はお決まりの言葉を口にする。

「だからさっさと建て替えろと言ってるのに。メーカー直系だし技術だってあるんだから、それなりの外観にすればそこらのディーラーなぞには負けない程上客が呼べるぜ。これだけの敷地面積だ。ショールームだけでもかなり違ってくると思うぞ」
「商売では全然負けていないよ。それにそんな事をすれば、今の人数じゃあとても足りないしね……でもそうだな、薫がウチに来てくれるなら考えないでも無いかな」

 聞いて思わず舌打ちした。こいつのセリフは今朝からそればかりだ。
 ある程度予想はしていたが、初日からこう何度もチラチラと匂わされたんではたまったものではない。富也には申し訳無いが、俺はここに再就職する気は無かった。
 理由は単純だ。富也はあまりに身近過ぎる。友人としては良くても、経営者と従業員ではマイナス面が多いだろう事が容易に想像出来る。
 …だが、分かっていた。そんなのは建前でしか無い。正直に言えば、俺は富也の世話にはなりたくなかった。
 無論、嫌いなわけじゃない。それは単に、気持ちの問題と言えるだろう。
 そもそも、大学時代には友人なのをいい事に富也にベッタリだった俺だ。それを二度も繰り返すのは、自分のプライドが許さない。

 そう思うと何だか無性に可笑しくなり、俺は声を上げて笑っていた。まだ、そんなものをしっかりと持っていたのかと哀れになった。

「どうした?何が可笑しいんだい?」
「いや、別に。それよりも、もういいだろ? 今回のバイトだってお前の顔を立てての事なんだ。これ以上は勘弁してくれよ」

 そう言いながら、二本目の缶ビールもグイッといく。
 何か目標がある訳では無い。だが、富也の誘いは乗りたくない。俺はそれに凝り固まっていた。
 意地っ張り……そんな言葉が自然と浮かぶ。あいつの声で。

『本当にあんたって意地っ張りね。私も人の事は言えないけどさあ』

 言われた理由なんて覚えてやしない。ただ、そう言った由美子の仕草だけはよく覚えている。
 握り拳を腰に当て、身体を突き出す様に覗きこみながら俺に意見するそんな由美子。
 怒りながらも、どこかでそれを楽しんでるそんな瞳。
 サラサラと零れる、茶褐色の奇麗な髪……

「そうくると思ったけどね。悪いけど、今回ばかりはそうもいかないかな」

 その言葉に引き寄せられる様に顔を向けていた。
 笑っているのはいつもの富也だった。しかし、目はそうではない。

「どういう事だ?」
「初日から言うべきじゃないとも思ったけどね。結局は同じだし、今、言わせて貰うよ」

 手に持ったそれを一気に空け、次の缶に手を伸ばす。
 明らかに、いつもよりペースが早い。

「なんだよ勿体つけて。言いたい事があるならさっさと言えって」

 酒の力を借りようとしている。そうまでして言いたい事って……
 俺は口を挟まず、その返事を待った。
 黙ったまま、チビチビやっているそんな姿を見つめながら、俺も珍味に手を出していく。
 やがて、コトンとそれを置くと、身を正して俺を見つめた。

「……しつこいと思われるかもしれないけどね………薫、ボクの所に来いよ。いい加減今のバイト生活から足を洗ってさ」
「……………」
「言っとくけど、これは冗談なんかじゃない。ボクから薫への真剣な提案だ。今のままでは、お前にとって良い事など一つも無い。それよりも、まずはウチでその手腕を振るってみないか?」
「…………………」
「…面白くないのはよく分かるよ。けどね、自慢する訳じゃないけど、そこらのボンクラ社長よりはやり甲斐のある仕事を与えられると思う。その上で、やっぱりイヤだというなら辞めてくれていい。薫、どうだろう?」

 俺はしばらくうつむいていたが、缶をゆっくり空けると、富也に目を向けた。

「随分と高く買ってくれるんだな。感謝するよ。…けどな富也、俺はお前の思っている様な人間じゃないぞ? こんなにも使い難い奴はそういないさ。こうして今は友達気分で居られても、マジになれば互いの顔も見たく無くなる。その事を分かって言ってるのか?」
「なんだ、そんな心配をしていたのか」
「なに?」

 今度は俺が見つめる番だった。
 奴は新たな缶に手を伸ばすとそれを開け、口を湿らせながら言葉を続けた。

「薫は勘違いをしている。ここに来て欲しいと言ったのは友人としての薫じゃない。整備士の資格を持つ技術者としての薫だ。無論、ここではボクは社長、薫は単なる平社員さ。社長である以上、重要な決定も下さなければならないし、その権利も持っている。時には社員である薫が不服でも従って貰わなければならない事だってある。友人だからという考えは入らない、まさに主従の関係さ。無論、薫の意見や要求は聞かせてもらうし出来るだけ取り入れさせてもらう。会社という組織の中でね。ボクの言ってる事、分かるだろ?」
「……ああ、イヤという程な。それじゃ、俺を誘うのは仕事に困ってる悪友を見かねてという甘っちょろい考えじゃ無い訳だな?」
「全然と言えばそれはウソさ。でも、ボクは純粋に技術者としての腕を買っている。今日の仕事ぶりだって、試用期間と考えれば十分だったよ。それは共に働く社員にしても同じだと思う。薫は合格って訳さ」
「…………………」

 どちらが甘いかなどと、言うべくも無い。富也という人間を、友人の延長でしか見ていなかった事を俺は素直に恥じていた。
 奴は、まずやってみろと言っている。チャンスを与えてやると言っている。そして、それに乗った方が確実なのは、経験から十分に分かっている。
 それでも、俺は今一つ不安を拭い切れずにいた。

「……正直、ここでお前とうまくやって行ける自信が無い。俺の性格はお前も知ってるだろ? 会社が潰れて、バイト生活となってそれがイヤという程よく分かった。…話さなかったけど、前の会社じゃ結構浮いた存在だったのさ。技術が好きで、人との付き合いが苦手で、だから何だかんだと技術に逃げ込んで………それでもお前は、俺を正式に雇うと言うのか?」

 正しいと信じたら、絶対に譲らない頑なな性格。
 それに助けられた事も少なくはないが、多くの場合マイナスでしか無い。
 事実、その性格から、恩人である富也の親父さんにまで食って掛かり、後から冷や汗ものだったった事も一度や二度では無かった。
 だからこそ、全てをさらけ出しておきたかった。そして俺には、奴の返事を待つしか出来なかった。

「……前に、服部社長がウチを訪ねて来てね。正しくはボクじゃなくて親父へだけど、写真よりも随分と老けた感じだった。債権者会議に引っ張り回されてるみたいだから、それも仕方無いのかもしれないね」
「…ああ、その節はすまなかったな。何せ退職後は引っ越したからね。それまでは寮だったし、実家の住所は知らせていないし」
「さらにウチは身元保証人だったし……だろ? 会えなかったのは残念だったな。薫の事、随分と気にかけていたんだぜ? ああやって、これまで社員だった所を一件ずつ回っているんだね。大したものだって思うよ」

 俺は、その話をユミコから聞いていた。バイトで不在の時だった。
 社長は律義にも、そうした陳謝と再就職の世話について語ったそうだ。出来る事はするから、どうしても難しいなら言って欲しいと告げた後、ユミコに深々と頭を下げて帰っていったという。
 その話しを聞いた時、俺は元社員に対し、どうしてそこまで出来るのか不思議でならなかった。確かに職場を失った責任はあるが、その償いは社長自ら十分行ったと思うからだ。
 うるさい事を言う奴が他に居たとしても、今の状況を理由に手が回らないと逃げたって決して責められはしないだろう。

「少し話しをして分かったよ。あの人は凄い人だね。組織のトップというものを真正面からとらえようとしている。それだけに崩れると脆いとも思うけど、その姿勢は尊敬に値するよ。今回は残念な結果になってしまったけど、ボクがあの人と同じ立場になった時、同じ行動が取れるかと言われたら考えてしまうね」
「そう思う必要なんてないさ。お前は館林富也。服部社長じゃねえよ」
「そうだけど、あの人の元だったからこそ、薫はハトリシューズを勤めあげる事が出来たんだろう?」

 奴の顔を眺め、そしてため息を付いた。
 遠まわしに何が言いたいか、分かっていた。

「…ああ、あの人じゃなければ、とっくに退職していただろうな。不満があっても、それをなだめるんじゃなくて、どうしたら解決するかを俺の中から引き出せる人だった。おかげで頭が下がりっぱなしさ。この歳で技術畑に残して貰えたのも、そのおかげだ」
「薫なら、もう管理職が普通だよね」
「まあ、技術が劣るなら仕方ないと思ったけどね。社長にしてもて管理をやって欲しかったんだよな。今までの経験を生かしてくれないかってね。ハッキリと断ってしまったよ。それだけが、今では心残りだ」

 既に空いた缶が多い中、俺はまた新たにプルを空けた。プシュッと音がし、次には泡が滑らかに流れる。いい加減飲んでいる筈だが、何故か酔えなかった。

「…ボクは服部社長にはなれない。だから薫のそうした性格を抑えて、今の社長業を全う出来る自信は正直に言ってボクには無い」
「……なら、何故俺を?」
「それでもやってみたいのさ。メイドロボットの商売も始まったばかりだし、展望としての新たな事業展開も必要だ。それにはやはり、その為の仲間が必要なのさ。そして、それを頼めるのはお前しか居ないんだよ」

 それは、目を見れば分かる。富也の久々の、そんな表情だった。

「…俺に、お前の片腕になれと?管理職としての道を歩めと?」
「ああ、無論、今の技術を持ったままでだ。こんな小さな会社だ。一つの職種だけでという訳には行かない。だから薫には何でもやって貰いたい。ハトリシューズでもそうだった様に」
「話しを聞かねえ奴だな。俺はその道を拒絶したんだ。そして今でもそれは変らない。お前の所だって一緒だ」
「それならボクがその気にさせる。薫はそうした仕事の面白さを理解していないだけだよ。技術に固執するのもいいけど、もっと視野を広げなきゃ。それはきっと、これからの生き方に繋がるともボクは思っているんだけどね」

 俺は缶ビールから手を引いた。いきなり酔いが回ったらしく、頭がくらくらした。
 自分勝手に生きてきたつもりだった。人からの評価や昇進など、全く考えていなかった。だから誰かから期待されたり、本気で頼られる事があるなぞ思いもしなかった。

 そして俺は、今頃になって、そんな考えが間違いだった事に気付かされた。
 既に存在していたのだ。こんな馬鹿を扱おうとする奴が。
 身近過ぎて気付かなかった…いや、気付こうともしなかった。

「…なんだ、これでもう終わりなんだね。次から倍は用意しとかないと」

 え?と思う目の前で富也は最後の缶ビールを手にすると、プシュッ!と音を立てていた。
 そして、そのまま目の前に差し出してくる。

「先に飲めよ。半分こだ」
「…いいよ、まだこっちのが残ってる」
「残って無いよ。自分でさっき、一気に飲んじゃったじゃない」

 酔いがいいかげん回っていたのを理由に尚も断わると、奴は諦めたのか自分の机に腰を下ろし、その口を付けていた。

「薫、君は自分を過小評価し過ぎる。ボクからすれば、薫はもっともっと色々な事が出来る筈だよ。でも、君がそれに気づく必要は無いのかもしれない」
「…どういう意味だ?」
「ボクなら、その能力以上のものを引き出せる。いや、ボクにしか出来ないと思っている。薫の想像以上にね。それを証明してみせるよ」
「……もし、お前の見当違いだったら?」
「この会社から叩きだす。能力不十分と判断して即、解雇だ。必ず約束する。どうだ? 中々良い条件だろう?」
「………………」

 何も、言えなかった。言えなくなっていた。
 そこまで言わしめるものが、本当に俺の中にあるのだろうか?
 そしてその答えは、結果として富也を見つめ続けるしかなかった。

「ほら、飲めよ」

 しびれを切らした様に机を降りてこちらに来ると、再びビールを差し出してくる。
 チラリと見た後、結局それを受け取り、口を付けようとして一度止めた。

「…すまない。少し考えさせてくれないか?」

 そう言うのが、今の精一杯だった。
 溢れるまでの人への思い。それが自分に向けられた経験を、俺は持っていなかった。
 …いや、本当は、単に気づいていなかっただけかもしれない。

「とりあえず飲め。全てはそれからさ」

 そんな、真っ直ぐな瞳を向ける富也。
 なんとなく観念し、俺は口を付けて一気に飲み干した。
 それを見ながら、奴はニヤッと笑ってくる。

「これで、薫とボクとは間接キッスの仲だよね」
「ば、馬っ鹿野郎!」

 反射的に空き缶を投げ付けるが、咄嗟に手を出しそれを受け取る奴の姿を、俺は茫然と見送っていた。
 それを掲げながら、富也は宣誓する様に言い放った。

「我が『ボブ』発展の為に!」
「…………………………」
「安物のアニメみたいだったかな?」
「アホ!一言多いんだよお前は」

 笑いが響く中、何処かで真剣に考えはじめている心があった。



◇      ◇      ◇



 夜道を歩きながら、俺は迷っていた。
 今になっても尚、その迷いはふっ切れていなかった。そんな自分の性格が疎ましかった。
 この就職難のご時世に、これだけの条件で迎えてくれる所なぞあろう筈が無い。何も考えない性格なら、さっさと乗ってしまって当然だ。
 それなのに、俺は何故こんなにも悩んでいるのか。
 何故あいつに「じゃあ、世話になるぞ」と一言言えないのか。
 そして、どうしてこんな性格なのか。

「……とりあえず、バイトは続けなきゃあな…」

 言ってから馬鹿馬鹿しくなった。自分の道を自分で潰している。それが、どうして分からないのか?
 しなくていい筈の後悔で、今の俺は一杯だった。
 酔いのせいばかりじゃない。今、自分が何をしたいのか、それすら分からなくなっていた。
 早くゆっくりしたい。家に帰ればユミコが待っている。食事はいいと言ってあるから、風呂の準備だけはしてある筈だ。ゆったりと湯船に漬かりたい。
 吐く息の白さと、それに伴う寒さを感じながら、俺は歩みを進めていた。

 その明かりは、遠くからでもはっきりと確認する事が出来る。
 それを見ると、俺はホッとした暖かい気持ちになれる。
 次第に近づき、いつもの様に横の階段をカンカンと早足で上がっていく。
 ユミコはもう気づいているだろう。既に鍵を開けているかもしれない。
 速度を緩めぬままに、俺は玄関に近づいた。

カチャリ

「おかえりなさい。薫」

 そう言って扉を開けたのはユミコではなかった。

「ゆ、由美子?!」
「寒かったでしょ? 早く中に入ったら? 私はこれで失礼するから」

 既にオーバーコートを羽織っている彼女は、そう言ったかと思うと俺の横をサッとすり抜けた。
 その腕を反射的にパッと掴む。

「ま、待てよ。お前どうしてここに?」
「たまたまよ。明かりが付いていたから、てっきり帰っているんだと思ったの。そうしたら知らない女性が顔出すじゃない。本当、驚いちゃったわ」
「ち、違う。あれはメイドロボットだ。俺が購入したものだ。そ、そう言えばあいつは? ユミコはどうしたんだ………い、いやこれは、その、ユミコと言うのはだな…」
「彼女の名前よね。いいんじゃない? 私と同じだし。別のよりはよっぽどいいわ」

 由美子は静かだった。怒っているのとも違う、少し悲しそうなそんな瞳。
 しかし、意図は今の俺には分からなかった。気が動転し、それどころでは無かった。

「おかえりなさい。薫さん」

 その声に横を向くと、玄関先にはいつもの姿でユミコが立っていた。だが、その表情を見た時、いつもとは違う雰囲気を俺は感じていた。
 それは、由美子と同じだった。
 あるいは、気のせいかもしれない。だが、俺は確信した。

「ユミコ。これは一体どういう事なんだ?」
「……申し訳ありません」
「も、申し訳無い? お前、申し訳無いと思いながら由美子を入れたのか? 俺に悪いと感じながらやったのか? 何故だ?! 由美子と何の話しをしていたんだ!」
「お叱りは後で受けます。それよりも薫さん。由美子さんを追いかけてください。まだ遠くへは行かれていないと思います。お願いします」
「由美子を?」

 今まで由美子が居た場所を見やると、彼女は既に姿を消していた。俺は由美子の腕を放してしまった事を後悔した。

「戸締まりをして待っていろ。由美子を探してくる」

 言うと自分のバッグを彼女に押しつけ、通路を走ってそのまま階段をカンカンと駆け降りた。
 そして今になって、彼女にユミコを紹介しておかなかった事を、俺は思いきり後悔していた。
 由美子、何処に行ったんだ。何故、突然来ようと思ったんだ? ユミコと何を話したんだ?
 色々な考えが交錯する中、由美子を探して俺は夜の街を駆け回った。


最終話(前編)へ続く.....

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