〜 「祝いの硬玉」 番外編 〜


彼岸花 〜 後編 〜






 文(ふみ)という名の女がいた。
 背丈は三尺二寸程の、それはそれは小さな女の子だった。ご支配様が襲った村の生き残りだった。
 歳の頃を聞くと、嬉しそうに片方の手を一杯に広げ、味噌っ歯を見せながら『いつつ!』と大きな声で答えていた。
 それまで食い物に恵まれていなかったせいか随分と痩せこけていて、まるで乞食の様な擦り切れた姿で、仕事が無い時はぼくの周りで地面に転がる様にして遊んでいた。だから新しい服を与えても、それは三日ともたなかった。
 そして、これまでの付き女(め)の中では一番出来が悪かった。
 水汲みを頼むと、大抵はずぶ濡れになって帰ってきた。それならと一寸した使いを頼むと、あらかた迷って泣き叫んでいた。ならばと部屋の片付けを頼んでみると、思った通り余計にひっ散らかしてくれた。これ程に使えない奴は初めてだった。
 しかし、それでもぼくはこの女を傍に置いていた。これまでの奴とは違って、この女には邪な心が無かったからだった。
 邪心のある女は直ぐに分かる。その日のうちにぼくを懐柔しようとするか、取り入ってより多くの待遇を手に入れようとするからだ。それだけならまだしも、中には二人きりを良い事にいきなり人の股間に手を差し伸べて、そのまま怪しげな愛撫をしてくる奴まで居る。
 こうした連中は、その日のうちに付き女の任を解いて下僕の遊び相手とした。悲鳴を上げながら服をぼろぼろにして逃げ惑う女の姿は滑稽だった。そして、そんな鬼ごっこはあっという間に決着が付いた。千切れた服と細かな肉片以外、女の姿は跡形も残らなかった。
 そんな頃のぼくは、ご支配様の膝元として知恵袋に使われる事が多かった。事ある毎に言葉を求められ、さらには道化としての役目も持っていた。ご支配様の一挙手一投足を常に熟知していなければならないそれは、今考えても恐ろしい仕事だった。

『小僧!ぶち殺されたいか!!』

 道化の途中でそう言われ、牙を向かれるのはいつもの事だった。その度に蹴転がされ、時には首に鉄塊の如き剣を突き立てられる事もある。
 地に打ち付けられ、擦り剥けだらけになった膝や肘。薄皮を切られ、血でべったりと濡れた首周り。絶え間の無いそんな怪我を手当てするのは、大抵が文の役目だった。
 泥や血流が多ければ手拭を当て、少なければまるで子犬の様にまとわりつき、その部分を自分の舌でぺろぺろと嘗めて直した。

『このほうが、なおるのはやいから』

 そう言って、くすぐったいから止めろという制止を聞かずに血が止まるまで嘗め続けていた。
 そんな文に、始めの頃こそ文句を言った。けど、それを素直に聞き入れる奴では無かった。
 自分の気が済むまで、ぼくから離れようとしない文。そうして貰うのがやがて嬉しいと思える様になったのは、はたしていつからだろうか。
 くすぐったくて、そして一寸不思議な感じがした。まるで、心までが和む様だった。
 だから、ぼくはその頭を撫でてやった。手の下には、嬉しそうな文の顔があった。ぼくも嬉しかった。

 いつしかそうした時が過ぎ、ちょっとした怪我も含めその全てを任せていた頃、治療(?)する文の姿を見やりつつ、ぼくは取り留めもない話をする様になっていた。
 これまで生きてきた中で、ちょっぴり嬉しかった事。そして、沢山の嫌な事。
 頭の弱い文にとって、そんな話の内容など理解出来なかったに違いない。実際、ぼくがどんなに愚痴を言おうが構い無しで、馬鹿の一つ覚えみたいにいつもにこにこと笑顔を返すだけだった。
 それでも、春の花咲き誇る匂いたつ草原や、夏の清流とも言える清々しい川面にゆったりと身を委ねた思い出や、さらには栗鼠と競う様にして収穫を楽しんだ秋の木の実取りなど、数少ないながらも楽しかったそうした話をしてやると、目を思いきり見開き輝かせながら『ふみもあそぶー。それであそぶー』とそれはもうこちらまで嬉しくなる程の笑顔を見せていた。
 踊る様に跳ね回り、唐突に身体に抱き付いてきて手を引いて立ち上がらせ、次にはぼくまで一緒に踊らせながら全身でその嬉しさを表わしていた。
 そしてそんな文の姿を見ながらぼくも怪我の痛みも忘れて笑顔となり、同じ喜びに心から身を浸していった。
 思えば、一番に楽しい時だった。
 あんなにも色々と話しかけ、共に遊び、そして笑いあった女は後にも先にも文だけだった。
 何よりも、こうした時間がいつまでも続くと信じて疑わなかった。

『…不始末だな、小僧。その女が為出かした過ちをお前はどう償うつもりだ?』

 そんな心和む日々は、不意に終りを告げていた。唐突に、ぼくと文はご支配様の前に引き出されていた。
 ご支配様が大切にしていた宝玉を、文が盗ったというものだった。
 しかし、実際にはそうでは無かった。文はたまたま拾ったに過ぎなかった。そして、直ぐに「これひろったー。きれいないしひろったー」といつもと変わらぬ調子でぼくに預けようとした。

『ち、違う!こ、これは……その………』

 あの時、何故気付かなかったんだろう。気付いてやれなかったのだろう。
 文には、自分で珍しいと思ったものは何でも拾ってぼくの所に持って来る癖があった。それは面白い形の石であったり、蝉の抜け殻であったり、綺麗な陶器のかけらであったりした。そして、そのどれもこれもが屑でしかなかった。
 だから、今度もそうだろうと思って見もしなかった。相手にしなかった。
 お勤めの刻でもあったし、帰ってくるまでは外に出るなと厳命して、ぼくはご支配様の元へと向かった。そして、そんな石の事など頭からすっかりと消えていた。
 そしていざ仕事という時に、ご支配様が身に付けていた宝玉を探している事をようやくに知った。

『馬鹿な奴だ。あの時黙っておればいいものを。そして後からこっそり打ち捨てるなりすれば良かったのだ。正直、貴様がこんなに間抜けだとは思わなかったぞ』

 そう言って高らかに笑うご支配様に、ぼくは顔を上げられなかった。まさしく、その言葉の通りだった。
 あの後、慌てて部屋まで戻り、入って直ぐに宝玉を床に転がしながら一人遊びをしている文の姿を見付けた時、ぼくはこれまでに無い程の絶望感に襲われた。全身から力の抜ける思いだった。
 そして、直ぐにでもそれを隠そうとした。
 けど、その時にはもう何もかもが遅かった。慌てて戻ったぼくを不審に思った側近に後ろを付かれ、いきなりその場で取り押さえられていた。
 弁解も空しく、ぼくと文はそのままご支配様の前へと引き出された。

『さて小僧。もう分かっておろうな?指示はお前が下してやれ。全ての咎(とが)はその女にある。お前の不始末はそれにて相殺される。簡単な事だ』

 ぱちんとご支配様の指が鳴らされると同時に、脇に居た化け物は文をあっという間に押さえ付け、強引に床に伏せさせた。
 その様子を、ぼくは他人事の様に茫然と見送っていた。そして、いつもの調子で親指を立て、それを下に向けようとした。

『あー!ああー!』

 声で突然に目が醒めた。文が止めてくれと叫んでいる!
 立てた親指を反対の手で覆い隠し、ご支配様に叫んだ。

『待って!罪ならぼくが受ける。文が受ける必要は無い!』

 なぜ?と疑問を感じていた。自分の行動が理解できなかった。
 そんな事をすれば、考えるまでも無く殺されるのはぼくだった。その後は文だって殺されてしまう。どちらにしても、文に助かる道は無い。
 ご支配様が最も忌み嫌う、そんな行いをすれば当然の事だ。
 そして思った通り、次第に額に血管を浮き上がらせ鋭い牙を向くご支配様の姿がそこにはあった。

『………よくも言ったな。…それがどういう事なのか、ワシが説明するまでもあるまいな?』

 人はおろか、仲間である側近と比べても明らかに好待遇だったぼくに対し、ご支配様は腹の底から絞り出す様にそう告げていた。
 まさに、信頼を根こそぎ損ねた瞬間だった。

『そうじゃない!文が本当に盗るつもりだったのならそんな事は言わない。でも、文は偶然に拾ったんだ。ご支配様なら、その事はお分かりになるでしょう?』
『……これだけは言っておく。理屈なぞ、そんなものはどうでもいい。問題は、ワシの知らぬ所でその女が断わりも無しに宝玉を持っていたという事実だ。あれからどれ程の刻が過ぎたと思っている?もはや、その罪は免れぬ』
『け、けど!それではあまりに文が!』
『気に入ったのだろうが諦めろ。代わりの女なぞいくらでもおるだろう』

 言うと同時に再び指が鳴り、執行人の牛頭が徐に大斧を振り上げた。
 それは、文の頭が木の実かと思える程に大きな大きな斧だった。直接当たらなくとも、かすっただけで簡単に首が落ちるに違いない。
 瞬間!ぼくは自分でも驚く程に素早くその下に潜り込むと両手を広げて文をかばい、刃物ごとご支配様を見上げながら声を張り上げた。

『待て!土着民の執行頭(かしら)はこのぼくだ!その頭が待てと言ってるのが聞こえないか!!』

 一声に驚いたかの様に、牛頭の動きが止まった。その覇気の無い窪んだ目は戸惑いながらも、ご支配様の方へと向けられている。
 再び指が鳴らされればそれで終わりだった。あっという間に周りの灯火が全て絶え、文と共に漆黒の闇に閉ざされるに違いない。
 …いや、そんなものでは済まされまい。あるいはその瞬間、燃え盛る劫火の中に佇む自分を認めているかもしれない。
 それでいながら、こうした行動を一切考えていない自分が依然そこに居る。

『……小僧、一つ聞きたい。何故そこまでせねばならぬ? ワシはこれまで、お前にはそれなりに目をかけてきたつもりだ。こうした戦乱の世で、これ程までの恩恵を受けている者はそうそうにはおるまい。それもこれも、全ては期待通りの働きをしていると思うからだ。そんなワシの気持ちを、お前は平然と踏みにじろうというのか?』
『そんなつもりは無いよ!…ただ、これはぼくの落ち度が原因だ。文はきちんとぼくに宝石を預けようとした。でも、いつもの石ころだと思って相手にしなかった。それに直ぐ気付いていれば、こんなにもご支配様の心を乱す事は無かったんだ!』

 自分でも呆れる位に、ぼくは文をかばい続けた。
 これが文以外の女だったら、はたしてここまでしただろうか?

『……そうか、お前は己れに全ての責があると言うのだな?』

 言ったかと思うと側卓上の果物に手が伸び、次には凄い勢いでこちらに飛んできた。
 びしゃ!と額でそれは砕け、衝撃と目に入った汁の痛さでぼくは顔を覆った。
 甘い匂いに意識を保ちつつ、ぼくは何とか文に被る。

『たわけっ!責任なぞこのワシが決める事だ!キサマでは無い!牛頭に馬頭!構わん!さっさとやれい!』

 その言葉に牛頭は勢い付き、再び斧を振り上げた。馬頭共は文への押さえを放さない。
 構わず、そうした馬頭の向こう脛に狙いを付け思い切り蹴飛ばした。勢いの割には急所だったらしく、一瞬ひるんだ隙にぼくは文を抱き締めた。
 『ああー!あああー!』と嬉しそうにしがみついてくるその小さな身体を、ぼくはより力強くぎゅっと包んでやる。
 目の下には、そうして嬉しそうにしている小さな頭があった。
 身体の中で、何かが弾けた。

『文に罪は無い!罪は主人のぼくにある!裁かれるのはぼくの方だ!』
『小僧!きさま気でも狂ったか!?』

 これまで見たことも無い形相でご支配様は立ち上がり、恐ろしいまでの表情をぼくに向けていた。
 赤ら顔はさらに赤くなり全毛が逆立ち、握り拳のまま鋭く太い牙を大きく見せ唸り声までをも上げている。
 それでも、怒りに任せてはいなかった。ご支配様はまだ、僅かながらも好意を抱いていてくれた。
 誰にも分からなくとも、ぼくにはそれがよく分かった。
 それだけに、改悛の思いで心が一杯になった。

『一生に一度のお願いだ!もう二度と逆らわない!全身全霊においてご支配様に誓うよ!だから!…だから、今回だけはぼくに罰を!』

 あえて、文を助けてとは言わなかった。
 そんな言葉を出せば、全てがおしまいになってしまう事が分かっていた。
 紙一重……まさに、その事だった。
 そして、今度もぼくはそれに掛けた。ここに来てから綿々と続けてきた、それは命の綱渡りだった。

『……………………よかろう。今回だけだ。二度目は無い。…但し、罪は罪だ。その命、拾えたとはまだ思わぬ事だな』

 ようやく怒りを納め、普段の落ち着きを取り戻したかの様に、ご支配様はそう告げた。
 安心はしなかった。逆に、まるで夢から醒めたかの様な気持ちとなった。
 ぼくへの罰。それが確定した以上、本当の戦いはこれからだった。
 そして同時に、何故そんな戦いをしなければならないのだろう?と奇妙な気持ちに襲われていた。

『判決!小僧を鞭打ち半干支とする。但し、女の分も含めて十二回だ!執行頭とて容赦はするな!牛頭に馬頭!直ぐにやれい!今直ぐだ!!』

 それだけ言うと踵を返し、ご支配様は部屋を出て行った。
 残されたぼくは直ぐに身体を掴まれ、両手両足を鞣し革の付いた麻縄で拘束された。やがて立ったまま肢体を一杯に伸ばした姿で括り付けられる。
 そんな様子を、文は不安げに見つめていた。既に戒めは解かれ、周りからは見捨てられている。

『見るな!部屋に戻ってろ!』

 そんなぼくの言葉に、文はその表情のままいやいやと首を振るだけだった。
 言葉をもう一度繰り返した。やはり、同じだった。
 びりっと着物の背中が切り裂かれ、ぴしりと床打つ鞭の音が聞こえる。
 その時になって、何て馬鹿な事をしたんだと後悔の気持ちで一杯になった。止めろと叫ぼうとした。

ばしっ!

 凄まじい衝撃と共に、その言葉は悲鳴に変わった。背中が燃える様に熱い!
 文の叫ぶ声が聞こえる。戻れと言ったのにまだ居たのかと腹立たしくなった。
 だから、かえれ!かえれ!かえれ!と何度も叫んだ。

ばしいっ!

 そんな言葉も再び叫び声に変わった。背中の感覚が一気に消え、凄まじいまでの高熱がたちまちに全身を包む。
 まだ続くのかと絶望の気持ちになった。もはや鞭の数など分からなかった。
 だから思い切り声を出した。何でもよかった。それしか思いつかなかった。
 止めてくれ。やっぱり間違いだ。違う、これは違う!ぼくのせいじゃない!文が…
 その後は、悲鳴にしかならなかった。



◇      ◇      ◇



「ね?凄く綺麗でしょ?シートを被せないと光らないって聞いていたんだけど、そうして二つ合わせるだけでサファイアみたいに輝くなんて不思議だよね。きっと、これって何かの当りだと思うんだけど、らせつちゃんはどう思う?」

 一方的に喋っている女を無視し、ぼくはその石の光に見入っていた。
 それは間違いなく封じの石だった。女が持っていたいくつかの勾玉から、その二つだけが組みあわさった時にだけ淡い青色を発していた。
 そしてその輝きは、下僕共を近付けさせないに十分の力を持っていた。

「…これ、何処で手に入れたの?」
「え?…ほら、だからペアゲームの…………そういえば、らせつちゃんのお相手の人って誰?ここへは男女ペアじゃないと入れない事になってるでしょ?」
「……そんな事はどうせもいいよ。何処で手に入れたのかだけを教えてよ」

 努めて冷静に、ぼくはそう問うていた。いきなり突っかかっても返り討ちに遭うのは分かっている。
 それに、この女との付き合い方もようやく分かってきた。
 向こうに乗せられてはならない。あくまで自分の流れを掴むのが肝要だ。

「だから、ペアゲームの石なのよ。洞内六ヵ所の見所ポイントから一個ずつ持ってきて、出口でそれを自由に組み合わせて三つのペアを作るの。そうすると係員の人が発光シートというのを被せてくれて、それで組み合わせた石が色々な輝きを見せるんだって。そして、その色の違いで貰える景品が決まるのよ。……らせつちゃん。本当に知らなかったの?」
「………輝いたその石はどうするの?下僕共に対抗する為に使うの?」
「え?下僕共って?」

 目を逸らして舌打ちした。つまらない事を聞くな!と自らを心の中で叱責する。
 それは封じの石ではあったが、ぼくの知らない石でもあった。少なくとも、この手から流れていったものでは無かった。
 それだけにより警戒した。女の話は相変わらず分からない所が多かったが、その雰囲気から、どうやら力のあるこうした石を用いて富札の様な遊びをしているらしい。
 本当にこいつらが作ったのか?とも疑ったが、こうして石が存在する以上、それは認めるざるを得ない。
 ただ、作った奴にしろ、女にしろ、恐らく石がそんな力を持っているとは思いもしないのだろう。

「…本当に綺麗だね。ぼく、こんな綺麗なの初めて見たよ」

 それならば、その前に処分してしまえばいい。
 なにしろ、光らないものも含めて全ては今、この手の中にあるのだから。

「ねえ、この石ぼくにくれない?」
「え?…だ、駄目よ。これはペアゲームに必要なものだし、浩之ちゃんと一緒にどれがいいかな?って一緒に見比べながら選んだ大切なものだもの。それにここを出る時に、輝きの一番綺麗な石を景品の代わり貰える様に頼んでみよって約束しているんだから。だから、これが無いと私…」
「もう遅いよお姉ちゃん。ぼく、もーらったっと!」

 腕を振り上げ、そのまま勢いを付けて地底湖目掛け思い切り投げ放った。
 女が息を飲むのが聞こえる。全ての石が軽やかに舞い上がり、同時に互いが競いながら飛翔する。

「無くなれ。ここから消えちまえ!」

 それに応えるかの様にそれらは落ち着く場を定め、思い思いにちゃぽんちゃぽんと軽快な水音を立てながらさらなる地の底へと沈んでいった。
 残ったものは、湖面に広がるいくつかの波紋と、ぼくの満足感。
 そして、騒がしい女の悲鳴だけ。

「何てことするの?!どうしてこんな事をするのよ!ねえ!らせつちゃんどうして?」
「うるさいなあ。もーらったって言っただろ?だからもうぼくのものなんだよ。自分のものをどうしようと勝手だろ?」
「私、あげたなんて言ってない!大切なものだからあげられないって言ったじゃない!」

 ここに来て初めて、女は大きくうろたえていた。そして、それはまさしく望む所だった。嬉しくて、身体が震える思いだった。
 そして、こんな事なら始めからそうすれば良かったとも感じていた。

「…どうして?どうしてこんな酷い事するの?どうしてこんな事をされなきゃならないの?……確かに私だって、酷い事をした。らせつちゃんを押さえて一杯キスしたりもした。でも、それってこんな仕打ちを受ける程の事だったの?らせつちゃんにとって、それはそんなにも苦痛だったの?耐えられない事だったの?」

 涙目となった女が相変わらず訴え続けている。
 悔しそうに頬を染め、握った拳を震わせているそんな姿は実に滑稽だった。

「知らないよ。たかが石ころじゃないか。なのに、こぉーんな事ぐらいで取り乱すなんて、お姉ちゃんってさあ、あはははは、本当子供だよねえ」

 女を鼻で蔑み、あざ笑った。最高にいい気分だった。
 そうさ、お前はそれだけの仕打ちをしたんだ。このぼくに。
 この世界の支配者である、最高権力者とも言えるこのぼくに。
 これから始まるお楽しみを目前に、すっかりと勝ちを意識したぼくはそう見下しつつ女の身体に蹴りを入れた。

がしっ!

 その足をいきなり掴まれ、え?と思う隙も無く次には胸倉が掴まれていた。
 女の怒り顔がぐいっと間近に迫ってくる。

ぱぁん!

 頬に痺れが走った。一瞬、起こった事が理解出来なかった。
 今までに無い厳しい目つきで一杯に涙を浮かべながら、女はぼくを睨んでいた。

「人の思いを何だと思っているの!こんな事が許される訳無いじゃない!」

 激しいまでの怒りがぼくの中に流れ込み、一瞬目眩がする。
 しかしそれを覆う様に全身が かっ!と熱くなり、次には怒りがとめども無く吹き上がってくるのを知った。
 見下した女に手を上げられたのは初めてだった。あってはならない事だった。

「こ…このくそ女……やりやがったなあ!下手に出てりゃあ付け上がりやがって!嘗めてんじゃねえぞ!」

 がしっ、と今度こそ蹴りを入れ、「きゃ!」とひるんだ隙に離れ間合いを取った。
 次には腰に丸め下げていた鞭に手を伸ばす。小さくても小動物や下僕を従わせるには十分の力がある。当然、この馬鹿女にも…

ぴしっ!

 「きゃあ!」と悲鳴を上げ、女はその場に身体を丸めうずくまった。
 ぼくは構わず、その背中に目掛けて何度も何度も腕を振り下ろした。

ぴし!ぴし!ぴしり!ぴしっ!

「どうだ!思い知ったかこの馬鹿女め!こっちが子供の姿だからっていい気になりやがって!お前なんかいつでも殺せるんだ!殺せたんだ!これまで生かしてやった事をありがたく思え!」
「…………………」

 女は声を発しなくなっていた。その場に丸くなり必死に耐えている。その姿が余計にぼくを苛立たせる。
 然程威力は無いので死ぬ事も無い。しかし、心への打撃はかなりな筈だ。こんなものは比較にならない強い鞭を受けたぼくにはよく分かる。
 声を上げてみろ!……泣き叫んでみろ!……命乞いをしてみろ!!
 そんな叫び声が分からないままに、ぼくは女を打ち続けた。
 はあ、はあ、はあ、と自分の息が荒く耳に響く。

『出ていけ!ここから出ていけ!』

 突然自分の声が頭を貫き腕を止めた。同時に、背中を切り刻まれた様な激痛が走った。自分の悲鳴と共に思わず身体を崩しそうになる。
 しかし、それを何とかこらえながら、ぼくは目の前の女を睨んだ。

「…………ふ……文?」

 それは、確かに文だった。
 はるか昔、ぼくが心を許した唯一の女だった。
 その文が、目の前で耐える様にして身体を丸めていた。

『…いやだ………でていかない…………いっしょにいる……』

 絞り出す様に、文はそう訴えた。
 その言葉にぼくは心で泣き、それでも尚、鞭を振り続けた。

『お前はここに居ちゃいけないんだ!またこんな事があれば、今度こそ殺されてしまうぞ!お前だけじゃない!ぼくも一緒だ!』
『それでもいい!おにあんちゃんといっしょなら、それでもいい…』

 馬鹿な事を……
 そう言うつもりが、腕の方が先に動いていた。幾度も鞭を振るい、文をここから追い出そうとする。

『少しは言う事を聞け!お前はいつだってそうだ!何度言ったって聞きやしない!最後の最後位ちゃんとぼくの言うことを聞いてみろ!』

 待て……止めろ……もう止めろ!
 文がいけない訳じゃないだろう!悪い事をした訳じゃないだろう!
 ただ、こいつはぼくと一緒に居たいだけじゃないか!!

「………………え?」

 次の瞬間、女は文では無かった。
 赤い髪をした、文よりも身体の大きな大人の女だった。
 そして、そんな姿のまま、相変わらず身体を丸めてうずくまっていた。

「……はは…………ぼくも焼きが回ったな。こんな奴と文とを重ねるなんて……」

 強い脱力感が身体全体を襲う。
 同時に、もうどうでもいいという気持ちが心を支配した。

「……それなら、これで終いにしてやるよ。…おい、皆出てこい。この女はお前らにやる。犯すなり、切り刻むなり、食べるなり、そして殺すなり、何でも好きにしろ…」

 離れた場所に居る筈の下僕らに言葉と心でそう伝えると、ぼくは鞭を放り出し、その場に腰を降ろしてへたり込んだ。
 後は、お決まりの鬼ごっこが始まるだけだった。もっとも、女にそれだけの気力が残っていればの話だが……
 どうやら、動く様子が無い。あるいは気を失っているのかもしれない。多分、このまま命の灯火を散らす事になるだろう。

 次第にわーんとした響きが洞内に交錯し、同時に節くれだった身体から放たれるぎちぎちとした音が響いてくる。
 ようやく、この馬鹿げた騒ぎから開放される。そう思うと、何だかとても嬉しかった。

「……なあ、お前はあの後、どう生きたんだ?………笑って、そのまま終生を送れたのか?」

 そんなつぶやきを、ぼくは遠くなる意識の中で聞いた様な気がした。



◇      ◇      ◇



 おおおおおーーーーーーんんん.....


 …獣の遠吠えみたいな声がきこえていた。
 どの位、意識を失っていたのだろうか。
 …ほんの半刻かもしれないし、数刻かもしれない。それでいながら、長い眠りから覚めた時の様な不思議な感覚があった。
 そして、何とも最悪の気分だった。
 ぼくは、そのまま目を開けて辺りを見回した。

「……………?」

 様子がおかしかった。確か、下僕共に好きにしていいと言った筈だった。
 その下僕共の存在が、何故か全く感じられなかった。
 しかも、周りの気は穏やかに澄んでいる。いつもの様に、撒き散らされた強烈なまでの臓腑や血の臭いが無い。
 ……下僕共が女をそのまま持ち去ったのだろうか?
 ……いや、それは有りえない。第一そんな許しは出していない。
 それに、そうだったとしても、この雰囲気は明らかに変だった。以前の……いや、それ以上の脅えがそこには残っていた。
 石は確かに処分した。あいつらが脅えるものなどある筈が無い。
 なのに、これは一体どうした事なのか………

「……う………ううん…」

 びくっ!と動転し、そちらに目を向けた。聞ける筈の無い声だった。
 女が……あの女がまだ生きている?
 馬鹿な!と否定した。どうしてだ?と何度も頭を巡らせた。

「……あ……………私………一体どうしたの?」

 掠れた女の声。それは紛れもなく、生あるものの姿だった。
 服の乱れも無かった。ぼくの鞭で少し裂けた部分があるだけだ。出血すらしていない。
 自分の中の混迷をどうする事も出来ず、さらには色々の思いが交錯して立ち上がり、女の方へとゆっくり歩み寄った。

「ら……らせつ……ちゃん…?」

 その瞳に脅えが走ったのが分かった。実際、そのまま後退さろうとしている。
 構わず、ぼくは足を早めて間合いを詰めた。

「どういう事なんだ?何でお前は生きている?ぼくの下僕共はどうした?!」
「…な………何を言ってるの?…私は何にも……」
「嘘を付くな!」

 目の前に立って胸倉を思い切り掴むと、そのままぐいっ!と引き寄せた。さっきとは逆の立場だった。
 僅かに息を飲む音がした。構わず、震えまでもが感じ取れる程に自分の顔を近づけた。

「お前は何かをした筈だ。そうでなければ今、この場で生きている筈が無い。言え!一体何をした!ぼくの下僕らをどうやって追い払った?!」
「し!知らない!私、何にも知らない!」

 女は思いきり抵抗すると、ぼくの手を必死に振り払い再び後ろに下がった。
 それまで掴んでいた胸元をかばいながら、非難の目でこちらを見上げている。
 その時、ぼくは見逃さなかった。
 さっきまでは無かった赤い光。それが、女の胸元から漏れている事を。
 服の裂けた部分や薄い部分から、次第に強くなってくるそんな輝きを。

「…お、お前……その光は……」

 覚えがあった。
 いや、そんないい加減なものじゃ無い。それはもっと、もっと大切なものだった。
 忘れようとしても忘れられない、まさに、ぼくからの形見の品だった。

「女!その封じの石を何処で手に入れた?!」
「え?…………これ……ここに来る前に洞内で拾ったの。ペアゲームの石かなとも思ったけど一寸違うみいたいだから、後で係員の人に渡そうと……」
「嘘を付くな!その石がここにある筈が無い!それはここにあっちゃいけないものなんだ!正直に言え!言わないと今度こそお前の命は…」
「嘘じゃないよ!本当にここにあったんだよ!!」

 女はすくっと立ち上がった。その姿には、張り詰めた気がみなぎっていた。

「…私……嘘なんか言ってない。本当に…本当にここに来る前に拾ったのよ。同じ勾玉で、ペアゲームのと凄くよく似てて、他の石と混じっちゃうといけないからって浩之ちゃんが自分の首に掛けてた銀の細い鎖を貸してくれたの。私、忘れっぽいから、こうして肌身に付けておけば忘れないと思ったし、紐を通す小さな穴もちゃんと空いていたから……でも、らせつちゃんにさっき石を見せた時は、結局すっかり忘れちゃっていたの。本当よ…」

 次第に勢いを無くしていくそんな様子に、ぼくは再びほくそ笑んだ。
 それならば容易い事だ。もう一度、その石を取り上げてしまえばいい。
 素直に渡すとも思えないから、この鞭もて今度こそ…

「……やめて……もうそんな事しないで……」

 雰囲気を察したのだろう。再び脅えの色が走る。
 油断は禁物だった。さっきの様に後ろから抱き付かれる失態だけは避けなければならない。
 とにかく、気絶させるしか無い。
 そう結論付け、ぼくは一度床に鞭を打ち鳴らすと、再び、女に目掛けて大きく振り被った。

ばしっ!

 いきなり鞭打たれた様な激痛が再び背中を襲う。しかし身体を緊張させつつどうにかそれに耐える。
 またか!と思った。いいかげんにしろ!とも思った。
 女の持つ石が、この激痛をぼくに与えている。そして次の瞬間には、目の前の脅えた女からまたもや文の幻影に取って変わるに違いない。
 もう沢山だ。腹の底から怒りが込み上げた。石の持つ愚かな残留思念に惑わされてはならない。ここの支配者はあくまでぼくでなければならない。
 お前に、この場を仕切る権利は無い!
 自分の胸に下げた石に強く念じながら、尚も迫り来るそんな苦痛を跳ね返そうとした。

「………………な………なにい?!…ど、どうしてだ?…何でお前が主人に逆らう?!」

 胸の石は、こちらの意志を跳ね返していた。いや、それどころか女の持つ石に呼応して次第に赤い光りを強め、このぼくをより締め上げようとしている。
 胸を掻きむしり石を表わにすると、それを首から下げる紐ごと引き千切った。

「やめろ!やめないか!主人はこのぼくだぞ!忘れたのか!!」

 ご支配さまから拝領され、それ以降何かにつけてぼくを守ってくれた封じの石。
 その大切な石が、主人の意志を拒絶し牙を剥いていた。
 ……いや違う………これは、この状態は、女が持つ石に力負けしているとしか思えない。
 信じられなかった。この力では誰にも負けた事が無かった。ご支配様の側近相手でも一騎打ちなら遅れを取った事は無い。
 そして、理由(わけ)をようやく理解した。もはや、それしか考えられなかった。
 残留思念なんかじゃない。この年月を経て、再びまた、こうして会えるとは………

「文!お前だな?お前自身だな?…分かった。いいからもう止めろ!!」

 声を張り上げていた。
 それを待っていたかの様に、瞬時にして嵐の様な勢いは静まっていった。
 唐突な静けさの前には、そのまま腰を付いた女の姿があった。
 その表情に脅えは無い。ぼくの独り芝居を見ていたからだろう。既に心配する表情へと移り変わっている。

「……女……受け取れ」

 首から引き千切り手の中にあったその石を、ぼくは女に向けて放り投げた。
 緩やかな弧を描いて女の額に当たり、そのまま胸の辺りに転がっていく。
 そして、尚も転がろうとするその石を、慌てて両手で押え込もうとする姿が目に入った。

ばしっ!!

 「きゃあ!」と驚く声と同時に女の両手を中心として光が膨脹し、次にはこの世界を一気に包み込んだ。目映いまでの光の洪水!

 しかし、それもやがては落ち着きを取り戻していく………

 そして気付いた時には、周りは夕日の中に佇むかの様な橙色一色の景観となっていた。
 その昔、それは文と一緒に見た夕刻の情景が、まるでその場に広がっているかの様だった。しかし、足元に広がる土草も、赤く染まった森や木々も、空を悠々と飛び交う赤蜻蛉も、そしてそれらを撫で付ける風すらも存在しなかった。
 まさに夕刻一色と言ってもいい、単調なそんな世界。
 それでも、ぼくはその情景を懐かしいと感じていた。
 ただ一つ、足りない事を除いては………

「……文、どうした?何故姿を見せないんだ? ぼくはここだぞ。いい加減に出てこい」

 それでも、返事が無かった。まるで、幕が開きながら中々始まらない舞台の様だった。
 それでいながら、不思議と不満は無かった。なんだか文らしいとも思っていた。
 間の悪い、あるいは間の抜けたそうした行いは文が得意とする所だった。一緒に暮らしていた頃、その度にぼくの方から何度も文句を言っていた事が妙に懐かしい。
 今だって、もしも目の前に居たのなら、あの頃と同じく拳固の一つも頭に落としていたかもしれないと思うと可笑しくなった。

「おにあんちゃあーん!」

 真後ろから声がする。そして次には背中にぶつかる感触と、のし掛かる重みが続いてきた。
 このやろっ!と思う間も無く首に腕が回され、細っこい腕が目の前で交差する。
 何とも懐かしい、背中から伝わる鼓動と温かさ。そしてお日さまの匂いのする、そんなぱっとした存在感。

「文!お前って奴はぁ。本当相変わらずだなあ」
「あ、だめだよ!おにあんちゃんうしろみちゃだめ!」

 小さな両の手で、いきなり目を覆い隠してくる文。ぼくが見てはいけない時、よく行なっていたそんな仕草。
 その手が少し冷たくて、それすらも懐かしくて、ぼくはされるがままとなっていた。

「何だ何だ。いきなり目隠しなんかして。そんな事をしたら文の姿が見えないじゃないか」
「これでいいの。みちゃだめなの!」
「はは、分かった分かった。そこまで言うなら見ないよ。だからもう手を離しな」
「………うん………でも、やっぱりだめ!おねがいだから、このままでいて…」
「本当に仕方の無い奴だな。今日だけだぞ?」

 こくり…と、背中で頷いたのが分かった。
 随分素直なんだなと、ぼくは意味も無く思っていた。
 背中にきっちり収まっていないんだろう。ずり落ちそうになるそんなお尻を、ぼくは両手で支えてやった。そのまま文の両の足を抱えて自分の背中を揺すり、ちゃんと収まる位置に負ぶさらせてやる。
 文と暮らしていたそんな日々。なんだか、あっという間に戻ってきたかの様だった。

「…元気にしていたのか?」
「うん。おにあんちゃんは?」
「ぼくか?…そうだなあ、まあ元気ではあったかな。あれから色々あったけど、その後はずっと寝てたからよく分からないなあ」
「ねてたの?あれからずっと?」
「…ああ。お前と別れて、しばらく経っての頃だったかなあ……」

 ぼくは、その後の話しを文に聞かせていた。
 ご支配様の信頼を回復するのに腐心した事。足をすくおうとする側近連中に常に目を光らせ裏をかき、いつでもご支配様に目を掛けて貰える様努力した事。その甲斐あって、以前にも増した信頼を獲得出来た事。
 しかし、そんな暮らしも長くは続かず、思わぬ所から足場が崩れてきた事。
 人にして、鬼の力を得たという次郎衛門なる者が土着民共を率いてこちらに反撃してきた事。
 それでも初戦はこちらが圧倒的に優位で、ぼくも下僕共を大勢率いてそいつらを大いにけ散らした事。
 しかし、それでも尚土着民の士気は衰えず、さらにはこちらの武器を持ち出し次郎衛門の側に付いた女の裏切りものが出た事。
 そいつのせいで、土着民との拮抗状態が大きく崩れた事。
 そして予想通り、後にはお決まりの敗走だけが残された事。その中で、人であるぼくは何度か側近や他の鬼連中から殺されそうになった事。
 しかしそれでも、ご支配様は尚、ぼくをかばってくれた事。
 文が話を理解しているかどうかも関係無く、自分で自分に思い出させるかの様にして、ぼくは延々とそうした事を話し続けていた。

「……その頃には、ご支配様の立場はかなり厳しいものになっていたんだ。鬼なのに何故そこまでして人をかばうのか?って。そんな奴に、我らの主たる資格は無いって。それでも、周りから何と言われようと、不思議とご支配様は最後までぼくをかばい続けてくれたのさ………」
「…だいじょうぶだった?いじめられなかった?」
「ああ、大丈夫だよ。結局、そんな事で騒ぐ間も無く敵が攻めてきたからね。多勢に無勢。仕方なく、ぼくはご支配様と共に敗走に継ぐ敗走を続けていった。最後には、僅かな下僕が残っただけでね。……そして、結局最後に行き着いた先は、ご支配様の管轄でもあったこの裁定所だったという訳さ」
「さ……さいていじょ?」
「ああ、難しかったかな。罪ある者を裁く場所さ。最も、ぼくは死刑場って呼んでいたけどね」

 文が両の腕にぎゅっと力を込めたのが分かった。恐がらせてしまったかなと、少し反省した。

「その後は眠ってしまって、途中で何度か目を覚ましたけどまた眠って……まあ、それいいか……後は文には分からない事ばかりあったよ。ぼくにも、正直言って分からない事ばかりだったけどね……そんな所かなあ。ぼくの話はこれでおしまいだ。それじゃ、次は文のを聞かせてくれよ。あれからお前はどうしていたんだ?」
「…………………………」
「………どうした?黙ってたんじゃ分からないじゃないか。あれから酷い目には遭わなかったか?ちゃんとお腹一杯食べられたか?」
「……………………………………」

 背中でもぞもぞと身体を動かしながら、それでも文は沈黙を守っていた。
 言い出したくても言い出せない、そんな素振りだった。
 ぼくは黙ったまま、文をあやす様に身体を軽く上下に動かし、軽く息を吐きながら言った。

「…分かった。もういいよ。誰だって、話したく無い事の一つや二つはあるもんだ。…それなら、一つだけ聞かせてくれ。……ぼくと別れてあの後、お前は笑って過ごせたのか?」

 背中から、再びこくり…と頷くのが分かった。しばらく後、ぼくは「そうか」とだけ返事をした。
 女が拾い、首から下げていたというあの勾玉。それは紛れもなく、別れ際に文へと渡した封じの石だった。ぼくからの守りとして強い念を吹き込んだ、まさにこれからの文を守ってくれる筈の石だった。
 そしてそれは、ぼくの周りにいる様な化け物共や、これから文に降りかかるだろうあらゆる災難から身を守るだけの力を備えていたものだった。今は使いこなせなくても、将来に渡って必ずや守護の石となる筈のものだった。
 その石が、洞内に落ちていたと女は言った。それが嘘では無いのなら、文はぼくの後を追ってここまで来たという事なのだろうか。
 そして、再びお互いが会う事も無いままにぼくは眠りに付き、文は、恐らくそのままその場所で…………

「……なあ………お腹、空いてないか?大したものは無いけど、お前の腹を満たしてやれるだけの食べ物はあるぞ。最も、昔食べていた美味しいものとは程遠い、固まった長期保存用の戦場食だけどな」
「ううん、すいてない。だいじょうぶだよ」
「遠慮するな。お前はいつだって腹減らしだったじゃないか。何度かぼくのご飯を分けてやった事もあっただろ?だから、変な遠慮なんかするな。せめて、満足するまで腹一杯食べておけよ。それでなくても、洞窟の中じゃあお腹が空いただろ?ただでさえ何も無い所だ。食べ物がある訳じゃあ無いものなあ……」
「……へいきだよ。いまはもう、おなかがすかないもの。だから、もうたべるひつようもないもの。ほんとうだよ。ほんとうにだいじょうぶだから…」
「………そうか、分かった分かった。無理にとは言わないよ。けど、空腹ならいつでも言ってくれよな。お前には、本当何もしてやれなかったからなあ。せめて、今出来る事があれば何だってしてやるぞ。お前の望みなら、本当に何でも……何でも叶えてやるから………………」

 不意に、自分の目頭が熱くなっていた。文に押えられたその両目からは、自分でもどうする事も出来ない雫が滴るのが分かった。
 思わず鼻をすすり、それらを再び身体の中に引っ込めようとした。

「おにあんちゃん。どっかいたいの?」
「ち、違う違う、痛くも何とも無いよ。ちょっと目に塵が入っただけさ。しばらく流していれば、塵も一緒に出ちゃうよ。…だから、手を放さずにそのままでいてくれよな?こんなの、お前に見られるのは恥ずかしいからさ……」

 こくん…と、またもや文は素直に頷いてくれた。それが素直に嬉しかった。
 背中に負ぶさる文の存在。それは…この夕刻の中でしか叶えられない、ほんの一瞬の夢である事をぼくは十分に理解していた。
 文が身につけていた勾玉。そして、ぼくが身につけていた勾玉。そうした二つの石に互いの強い思いが込められていた事への、それは一つの証しでもあった。

「…おにあんちゃん。ふみね、ひとつ、おねがいがあるの……」
「……何だ?言ってみな。さっきの約束しただろ?今日は気分がいいから、特別に何でも叶えてやるよ」
「…うん、あのね………いしをもっていたおねえちゃん、たすけてあげてほしいの」
「……どうしてだ?そんなの、お前に関係無い事だろ?それとも、あの女に何か言われたのか?助けてくれる様頼んでくれとか言われたのか?」
「ちがう、ちがう、ちがうよお!そんなこといわれてないよお!」

 背中から文がゆさゆさと身体を揺すっている。目隠しをされたままなので危ないったらありゃしない。

「分かった分かった。もう止めろって。とにかく、理由を言ってみな。どうして文がそうしたいのか、それを聞かせてくれよ」
「うん……あのね、……おんなじなの。おねえちゃんとわたしって……」

 一瞬、どう解釈したものかと悩んだ。文に聞けば済む事ではあったが、ぼくは自分から答えを見付けようと努力した。
 …そして、ようやく一つの思い当たる事柄を見付けていた。何かにつけて女が口にしていた人物の名前。そいつの事を口にする時の、心から嬉しそうな女の笑顔。
 浩之……その名が自然とぼくの頭の中で重なり、まるで自分の分身であるかの様に溶け込んでいった。
 そして、理解していた。文にとってのぼくの存在と、あの女にとっての浩之という存在の事を。
 文にしか持つ事を許さなかった石を、あの女が当たり前の様に持っていた…持つ事が出来たその事実を。

「裁定所では、同じ心を持った男女が泣きながら互いの命を奪い合っていった。本来なら、あの場所に現われた以上、そんな事を許す訳にはいかないんだよ。こうしたぼくの存在は、今でもご支配様あってのものなんだ。文のお願いは、かなえるならご支配様の意思に背く事になる。それでもお前は、あの女を助けろというのか?」
「………たすけられないの?どうしてなの?ごしはいさまがこわいの?おにあんちゃんにとって、ごしはいさまってそんなにもたいせつなひとなの?」
「………ああ、大切な人だ。あの人からは、本当に色々な事を教わった。会ってる時は気の休まる暇が無かったけど、それまでの孤独な世界の中で、いつでもどんな時でも味方になってくれていた。そして、そのお蔭でこうしてぼくは今でも生き延びている。こうして昔の身体を持っているのはもうぼく一人だけだ。ご支配様は自分が出来うる最上の方法でぼくを生かし続けてくれたんだ。その意思に背く事は出来ない。例え文のお願いであっても、それはぼくには出来ない事なんだよ………」

 文はしばらく何かを考える様にしていたが、何を思ったか突然両方の手を目から離すと、そのまま左右からぼくの頬をぎゅっとつねってきた。

「いへへへへへ!な、なひをするんら文!」
「おにあんちゃんのうそつき!あのとき、ふみはにがしてくれたじゃない。ほんとうはそれはいけないことなのに、おにあんちゃんはそうしてくれたじゃない!」
「わ、わはった!いいからとりあへずその手をはなへ!」

 文は手を離すと、再びぼくの目をその手で覆った。
 つねられた頬がひりひりと痛むのを感じながら、ぼくは文にしては言う様になったなあと素直に感心していた。

「…お前は、ぼくが初めて犯したその禁をもう一度犯せと言ってるのか?」
「……おにあんちゃんは、いつまでもごしはいさまのところにいるつもりなの? ごしはいさまがしんでも、そのままずっとおはかのところにいるつもりなの? もうすでに、おはかにはいっているのとおなじなのに、それでもそこにいなければいけないの?」
「……ふ、文?お前、一体何を言って……………」

 聞いてしまってから愚問だと思った。背負ってる文は、文ではあっても昔の文では無かった。
 その身体は既にこの世に無く、二つの石の力もて全てを感じさせてくれている虚像に過ぎないものだった。
 けど、それでもぼくはそれにすがりたかった。この背中の感触も、首に回される細い腕も、両手にしっとりとかかってくる軽い体重も、ぼくの首筋に掛かるその優しい吐息も、そして途切れる事無く生きている証しを伝えてくる心の臓の鼓動も、その全てが本物であって欲しいと願った。
 けど、事実は事実として受け止めなければならない。文が今のご支配様を知っている一事からも、それは間違いの無い事だった。
 辛かった。文に再び会う事が、こんなにも切ないとは思わなかった。
 そして、かつてこいつと過ごした僅かな時間が、ぼくにとっては生きる全ての時間だったのだと、このときになって初めて悟った。

「………文。ぼくは大切な事を忘れていた。もう少しでお前への嘘つき太郎になってしまう所だった。さっき約束したばかりだよな。お前の願いは、何でも叶えてやるって。……分かったよ。あの女は殺さない。かならず恋人の元へ帰してやる。これでいいな?」

 こくり…と、頷いてくれるのをぼくは待っていた。きっと、喜んでそうしてくれるだろうと思っていた。
 しかし、次に感じたのは、ぼくの背中から消えつつある文の存在感だった。
 ぼくは慌てた。別れの時間には早過ぎる。
 あと僅かでもいい。まだ文とは話したい事が沢山あるんだ!

「文!待てよ!まだ消えるなよ!」
「おにあんちゃん!うしろむかないで!そのままでいて!」

 突然の文の声に、ぼくは自分の動きを止めた。それでも、文の存在感は流砂の様に次第に希薄になっていった。
 それでいながら、ぼくの目を覆う手の感触はより強いものとして感じられた。

「……ありがとう、おにあんちゃん。やくそくしてくれて、ありがとう」
「文、文、もう会えないのか?もうこれで、お前とは本当にお別れなのか?」
「………ふみは、いつでもおにあんちゃんのそばにいるよ。これまでもそうだったように、いつでもおにあんちゃんのそばに……」

 砂の流れは、もはや留まる所を知らなかった。ぼくは動けず、そんな文の言葉を心に留める事しか出来なかった。
 ぼくは結局、こいつに何をしてやれたのだろう?
 大勢の女の中のたった一人の存在に過ぎない筈のこいつが、こんなにもぼくの中で大きく存在を占めているのは何故なのだろう?
 全てに未熟で、全てに無知で、そうした事に心が砕けなかった自分の愚かさ。それが腹立たしくて、意味も無くぼくは吠えた。

「おにあんちゃん!きいて……ふみのさいごのおねがい……」

 その言葉に、ぼくは不意を突かれた様に顔を上げた。両目への存在感を残して、その殆どが消えかかっていた。

「な、何だ?言ってみな」
「……いきて。これからも、ずっといきて。おにあんちゃんはだれのものでもない。おにあんちゃんだけのものだよ。ふみのぶんまで。そのいのちのさいごまで。これからもずっと………」

 もはや、文の声はそこまでだった。あとに残るは僅かな感触だけ。
 それでもぼくは声を張り上げた。文がまだ聞こえる事を願って。

「分かった!ぼくは生きる!最後の最後までこの命続くまで!」

 それを合図にするかの様に急速に周りの光が萎み、やがてそれは一点に集中した。
 それまでの全ての感触から解き放たれ、そして、周囲の景観は再び薄暗い洞内へと戻っていた。



◇      ◇      ◇



 次第に目が馴れたその先に見たものは、その一点……いや、二点である女の両手だった。
 既に立ち上がり、両方の掌にはそれぞれの勾玉が置かれている。
 つと、ぼくはそのまま視線を上に向けた。
 女は、全てを理解した表情のまま押し黙っていた。

「……見たのか?」

 そんな問い掛けに、女は黙ったまま、こくり…と一つ頷いた。
 まるで文を真似たかの様に思えて急に苛立たしくなり、ぼくは顔を背けていた。

「……そうか。なら話は早い。そういう事だ。お前は後で帰してやる。せいぜい文に感謝するんだな」

 それだけ言うとさっさと背を向け、ぼくは地底湖の畔まで歩を進めていた。ここと向こうを繋ぐ関門を開くには時間が掛かる。それにこれ以上、女の姿は見たくなかった。
 やがて、その湖畔が一望出来る場に腰を下ろす。湖底の発光苔に照らされる水の鮮やかさに目を向けながら、ぼくは先程自分が約束した意味を噛み締めていた。
 思わず口から出てしまった、これからも生きるという約束。
 これまでは、単に死が恐ろしかった。何としても今日という日を生き抜く事に執着した。兄達や母親を売ってでも、自分の生を優先したかった。
 その事に、今でも後悔の念は無い。それに心砕ける所までは、もはやもう戻れない。
 ただ、この先もそうやって生きる事に、はたしてどれ程の意味があるのか?それを守る理由が一体何処にあるのだろうか?
 今になって初めて、ぼくは自分が生きてきた事への意味を見出せなくなっていた。あんな約束をしたのを後悔しだしていた。
 考えなければいけないのだろうか。人としてのぼくの生は、文をあそこから追い出した時に既に終っていたというのに。
 文と再会した事で、それを嫌という程実感出来たのに。
 もしここで死の判決が下ったのなら、ぼくは喜んでそれを受け入れただろう。こんなくだらない時間はもう終わりにしたかった。そうする事で再び文の所に行けるのなら、後はどうなってもいいと思っていた。
 何の事は無い。こうして生き延びてきた事が、逆に自分を腐らせていただけだった。兄達の様に、母の様に、決して上出来では無いまでもきっちりと死に際を飾れた方がどんなに幸せだったか。

「………と〜んだ〜。やねまでとんだ〜♪」
「…………………?」
「やねまで飛んで〜。壊れてきえた〜♪ かーぜかぜふくな〜、しゃーぼんだーまーと〜ば〜そ〜♪」
「煩いぞ!変な歌を歌ってんじゃ………」

 そう言って振り向きざま、虹色に輝く丸い泡が目の前をふわふわと漂ってくるのが見えた。
 それはぼくの目の前までくると突然に弾け、冷たい感触を顔に残して消えてしまった。
 驚き、その出所を探す。
 考えるまでも無く、それは女の方から流れてきていた。口には先程の笛を短く切った様な筒を加え、息を吹き込んだ先からその丸い泡が宙に流れ出ていた。

「何だそれは?何を訳の分からない事をやっている?」
「…シャボン玉って言うの。らせつちゃん知らない?石鹸を水で溶いたものにこうした管を付けて吹くとこんな玉になって宙に舞うの。面白いでしょ?」
「またくだらない玩具か。遊びたいなら向こうでやれ!ぼくは考え事をしているんだ。邪魔をするな!」
「それとね、この歌は詩人の野口雨情という人が作った歌なの。このシャボン玉に自分の子供への思いを込めて歌ったものなんだって。二才の女の子が居たんだけどね、病気で失っちゃったの。きっと、もの凄く悲しかったと思う。でも、その人はそうした悲しみを悲しいという言葉を使わずに、こうしたシャボン玉の姿に父親としての思いを精一杯に込めたんだね。親が子供を思う気持ちは、どの時代でもきっと変らないものなんだね………」

 心に隙が出来ていたのだろう。その言葉を聞いた瞬間、ぼくの中に反発心が生まれた。
 誰にも話した事は無い。文でさえも。けど、ぼくはいとも簡単にそれを口にしていた。

「親の気持ちだと?はっ!ふざけるな!いいか?ぼくは自分の手でその親を処刑したんだ。母親の首を目の前で跳ねたんだよ!…その間際で、あいつは何と言ったと思う?『お前なんか、生むんじゃなかった』とぼくに言い放ったんだ!」
「………………………………」
「お蔭で、ぼくはあの女から生まれてきた事実をその時ようやく実感出来たのさ。そんな時に嘘を付くとも思えないからな。けど、そんなのはいらぬ事だ。聞く必要の無かった事なんだよ!あの女はわざと当て付けてそう言ったんだ。最後の抵抗としてな!」
「………らせつちゃん、本当にそう思っているの?」
「当たり前だ!それ以外何が考えられる?お前は女だから荷担したいのかもしれないが無駄だ。もう済んでしまった事なんだよ」

 手の内は、全てさらしてしまっていた。
 もう、隠しているものは何も残っていなかった。
 あとは、この女が何を言ってくるかだけだった。そんなものは聞かなくてもいい筈なのに、ぼくは不思議と期待していた。

「………らせつちゃんのお母さん、こう言いたかったんじゃないのかな。『私は、間違い無くあなたを産んだ母親だったのよ』って。何となく、私にはそう思える。言葉の裏返しだったんだなって感じるの」
「詭弁だ。何を馬鹿な事を………」

 そこまで言って、ぼくは言葉を切った。後は何を言っても、結局はこの女に丸め込まれてしまう様な気がしていた。
 しかし、不思議と安堵を覚えていた。長い間、心に残っていた一つのつかえが取れた様にも思えた。
 産みの親。最後まで優しい言葉は掛けて貰えなかった。それでも、最後の最後までそうした繋がりを伝えようとしていた。
 それを無理に断ち切ったつもりでも、結局はどこかで繋がっていた。
 その事が、ぼくの中に消えぬ雪となって降り積もっていく。

「……兄達を失い。産みの母親を失い、そして、文までをも失った。それでもぼくは相変わらずこうしてのうのうと生きている。その事にどんな意味がある?お前には分かるまい。ぼくに積み重なっていった時間の重さなんか、お前みたいな幸せな時を生きた奴に分かる訳が無い。…違うか?」
「………そうかもしれない。私には、らせつちゃん程の人生の経験は無いもの。…でも、それでも、らせつちゃんはやっぱり生きるべきだと思う。文ちゃんはその為の約束をちゃんと残してくれたじゃない。あなたのお母さんがした様に、文ちゃんもちゃんとそうした絆を残してくれたじゃないの」
「きずな?……人と人との心の繋がりである絆か?」
「そう、絆。らせつちゃんが一人じゃないって事の証しだよ」

 それは、石の力によるものだったのかもしれない。あるいは、文と再び出会えたからかもしれない。
 自分の中の怒り。それが、こいつと話す事で次第に吸い上げられていく。
 決して嫌なものでは無かった。むしろ、自ら求めたのかもしれなかった。
 そして、自分が選ぼうとする道は、既に明確なものとなっていた。

「……結局、最後は誰しも一人だ。お前も見たから分かるだろ。文だってそうだ。いつも側に居るとは言っても、結局はもう、会う事は叶わないんだからな……」
「……でも、それを口にした事で、文ちゃんはあなたの側に居る事が出来る。人に対して何も望まないのは、結局自分も存在しないのと同じだもの。その事を、文ちゃんはちゃんと知っていたんだね…」
「……ふん。まだ若いくせに、まるで年寄りみたいな事を言う。お前は見掛けだけ若くて、中身は本当は老婆なんじゃないか?」
「もー、失礼ね〜。それを言うなららせつちゃんだって一緒でしょ?そっちの方が、私より見掛けはずっと若いんだから」

 女はぼくの側まで来ると、先程吹いていた管と石鹸水の入った器を差し出していた。
 ぼくは、それを黙って受け取っていた。
 既に、女の口が付いた管。思わず見返したその先で、女は笑顔のまま頷き、促していた。
 一瞬ためらった後、ぼくはそのまま器に先を付け、その管を口にくわえて息を吹き込んだ。
 丸い泡がいくつも生まれて、それが宙を舞う。やがては湖上をふわふわと飛び、まるで踊るかの様に静かに舞い上がっていく。
 そして、一つ、 二つ、 三つ、 と少しづつ弾け、そして消えていく。

「しゃ〜ぼんだ〜ま〜と〜んだ〜。やねまでとんだ〜♪」
「…やねまで飛んで、壊れて消えた………か」

 女の歌を受ける様にして、ぼくはいつしか口ずさんでいた。
 沢山、消えた。消えて当然と思った多くの命。理不尽だと感じながらも、親指を下げざるを得なかった命。
 その全てが、ぼくの目の前から消えてしまった。一番大切な、そんな命までもが……
 けど、生きている限り、その事はぼくの中では生き続ける。決して無ではない。覚えている限り、それは生あるものなのだ。
 文よ………お前って奴は、最後にえらい約束をさせてくれたものだ。正直、ぼくにはかなり荷が重い。
 しかし、それがお前の望みなら、それを糧に生きてみるのもまた面白いかもしれない。

「かーぜかぜふくな〜、しゃーぼんだーまーと〜ば〜そ〜♪」

 ゆっくりと、それでいてどことなく楽しそうに歌うそんな女の明るい素顔を見ながら、ぼくは自然と笑顔を返していた。



◇      ◇      ◇



 あれから、どの位の月日が流れたのだろうか……

 これまでからすれば、それはほんの僅かな時間だったのだろう。瞬き程度の、相変わらず退屈なそんな時間の積み重ねの一つだった。
 何も変らない。この洞内にある自分という存在と僅かな下僕共。そして、今は自らその場を動く事も無いご支配様。
 世界はすっかりと閉ざされ、ぼくの許しが無ければ誰一人としてこちらに入る事は許されない。例え、あの女が再び訪れても、今はその入り口すら見付ける事は不可能だろう。

 あの女………

 ぼくは文との約束通り、女をそのまま帰していた。
 全ての記憶はそのままに、夢だったと思えと一言告げて。
 しかし、その際に女は予想もしなかった事をぼくに言った。一緒に来ないかと。そして、女の住む世界でぼくの面倒を見るとも。
 その言葉をぼくは鼻で一笑し、ふざけるな!と言葉を付けて女共々外の世界に押し出していた。全く、どこまでもお人好しの馬鹿女だった。
 あんな事では、浩之という男がどれ程の者であっても危なっかしい事この上無しだろう。ある意味、文以上と言える程だ。
 だから、女が拾った石はそのままくれてやった。ぼくが持っていた石も一緒のままに。
 あれはもう、ぼくには用の無いものだ。文に会わせてくれた二つの石はその力の大半を使い果たし、既にお守り程度の力しか無かった。
 それでも、これからのあいつを守るには十分だろう。それが文の望みに繋がるのなら、拝領品であっても惜しいとも思わない。
 それに、ぼくもいずれはここを去らなければならないのだろう。ただ、それは最大の役目でもある大切な仕事をこなしてからの事だ。

 ご支配様………

 鬼ではあったけど、誰よりもぼくを認めてくれ、そして信頼してくれた。その意味では、まさに父親そのものだった。
 その黒山の様だった強靭な肉体は既に無く、今はもう、この洞内から自ら出る事すら叶わない心だけの存在となっていしまっている。
 そして、その心もまた、眠る事の無い長い年月には勝てずに少しずつ風化が進んでいた。元の意思として存在出来るのも、きっとあと僅かの事だろう。
 それでも、ご支配様は最後まで自分の役目を全うしようとしていた。この場所で、鬼として、己の最後の役目を果たすまで、その意思を何としても保ち続けるべくぼくを信頼し、頼りとしてくれていた。
 例え、ぼくが全てを放棄してここを去ったとしても、ご支配様にはもう、どうする事も出来なかっただろう。
 あの女を殺さずに逃がせたのも、全てはその事からだった。
 そして、ご支配様もまた、それを責める事はしなかった。ぼくからの釈明にただ一言『それはいい。お前は最後の仕事を全うしろ』という言葉を残したのみだった。全てはお見通しだったのだ。

 最後の仕事………

 それを任された以上、ぼくはご支配様が望む以上の獲物を見付けようと意気込んでいた。
 幸いにして、この地にはまだそうした血を引く者が数多く存在していた。
 土着民でありながら、次郎衛門と同じ鬼の血を引く者。
 それも次郎衛門と同じか、それ以上の者でなければならない。
 それこそが、ご支配様共々を長期に渡り苦しめてきた仇敵に他ならない。その本人に責は無くとも、体内に持つ血は我らの恨みとして大いに流して貰わなければならない大切な供物なのだ。
 今日もまた、幾人かの土着民が関門をかすめ、通り過ぎていく。その中に僅かに鬼の血を惹く者はあっても、次郎衛門にはるか遠く及ばない。

 もはや、この世にはそうした血を継ぐ者は存在しないのだろうか?

 目の当たりにした次郎衛門の姿は、大勢の下僕を従えても尚、見る者を生きた心地にさせない破壊力の塊の様な存在だった。それはある意味、畏怖の念における憧れの様なものかもしれない。
 だが、それ程の力を持っていたとしても、こちらには地の利というものがある。全てにおいて元の力を失いつつあるご支配様であっても、この裁定所の中でなら必ずや五分と五分の戦いを行う事が出来る。
 だからこそ、ここに呼び込む者はそうしたご支配様に相応しい、最高の獲物でなければならないのだ。

 そんな思いも知らずに、何人かの男女が談笑を交えながらその場を通り過ぎていく。
 今日もまた、一切の収穫も無く、一日を終える事になるのだろうか…………

「……もー、またそういう事を言うんですね?本当、いじわるな耕一さん。私、もう知りません」
「ちょ、ちょっと待ってよ千鶴さん。それは誤解だって。千鶴さんだって可愛いって言葉がちゃんと似合う歳なんだからさあ」

 諦めかけていたそんな頃、そうした会話と共に近づいてくる男女の雰囲気にぼくは心臓が高鳴るのを感じていた。
 これまでとは明らかに違う、純粋な力を持った者。しかも、それは一人だけでは無かった。

「いーんです。どうせ私は年上ですよーだ。耕一さんから見たら、きっと私なんておばさんにしか見えないんです。もう何を言っても聞こえませーん」
「このぉ!一寸はちゃんと人の話を聞けよもう!」

 そう言いながら男は女を強引に引き寄せ上を向かせ、そのまま自分の唇を重ねた。
 初めは軽く抵抗していた女も、次第にその力を抜き、最後にはその全てを男に預けていく。
 それは、長い長い接吻だった。そのお蔭で、ぼくは二人の力を十分に見極める事が出来た。

 強い……
 次郎衛門……いや、それ以上かもしれない。

 純粋にそう感じていた。女の力も、これまでに見た同性の中では最強と言っていい程だった。
 これ程の鬼力を持った男女には、この先もう会う事は叶わないだろう。
 まさに、最高の鬼たちだった。

「ご支配様、見付けました。…これより私めは、最後のお勤めをさせて頂きます」

 そう伝え、ぼくは予備としていた勾玉を握り、全ての念を関門に向けて送っていた。
 やがて、じんわりと空間が歪み、関門が彼らの行く手にゆっくりと広がっていく。接吻を続ける二人は、それに全く気付いていない。
 肉体にしてこれ程強大な力を持っていても、こうも無防備ではたかが知れる。せいぜい下僕共や、ご支配様を存分に楽しませるがいい。

 しかし……

「……これで良かったのでしょうか?」

 ぼくはそう問うていた。
 このまま、今生の別れとなるのでは………勢い、そんな恐ろしさが身体を駆け抜ける。
 ぼくはまた、親を殺す事になるのだろうか。
 自らがそれを選んだ如く、今度もまた、その繋がりを断ち切ろうというのか………

『これまで、よく我に尽くしてくれた。…お前はもう、行くがいい』

 不意に、その答えがぼくの中に流れ込んでいた。
 思いもしなかった、ご支配様からの別れの言葉。
 それを聞いた今でさえ、ぼくには信じられなかった。有り得ない事だと思っていた。
 その、過分なまでの心尽し。
 目頭は、いやがおうにも熱くなっていった。

「……い……いえ、見届けさせて頂きます。そのご活躍を、この目で最後の最後まで……」

 このまま去れる訳が無い。断ち切れる訳が無い。
 最後まで見届ける。それこそが、ぼくがこれまで生きてきた事の証しなのだから。
 これから先、どんな事が待ち構えていようとも、それでも生きると誓ったのだから。

『……馬鹿な奴だ。昔から変らんな』

 関門とは知らず、静かに歩んでいく二人の姿を見つめながら、ぼくは 「はい」 と答えていた。







                     −   了   −











あとがき


 TASMACです。この度は「彼岸花」をお読みくださり、本当にどうもありがとうございます。
 既に「彼岸花」の時期も過ぎ、自分の中からの焦りに突き動かされながらも中々筆を進める事の出来ない日々ばかりが過ぎてしまいましたが、そんな積み重ねを繰り返しつつ、ようやくにしてここにお届けする事が出来ました。前編公開から長い事お待たせしてしまいすみませんでした。
 今回、これまで書いてきたSSの枠を崩して自分の中で書きたかったものを優先させてみたいとする思いから、かなりオリジナルに近い内容を目指してみました。恐らく「ToHeart」や「痕」のSSとしては成り立たず、かと言って完全なオリジナル小説でも無いというある意味中途半端な設定(もの)でしたが、あえてそれを選んだ事で、自分の書きたいものとは何か?という一つの答えが今回改めて得られた様に思います。
 本SSの感想は、読まれた方それぞれかと思います。一体何が言いたいのか?と思う方もきっといらっしゃるでしょう。あまりに設定が安易だと思う方もいらっしゃるかもしれません。構成をもっときちんとしろ!と怒る人も居るでしょうか(笑)。
 それでも、そうした中にあっても尚、読まれた方の中に残るものがありましたら、よろしければ是非私にまでそれをお聞かせください。どんな一言でも結構です。ぞうぞよろしくお願いします。
 私としては今回、このお話しを最後まで書けて本当に良かったと思っています。それまでにも色々と励ましてくださった方々に、この場を借りて心から感謝したく思います(^^)。

 さて、次作となりますが、ここで一寸肩の力を抜いてコミカルな作風のSSにトライしてみようかと思います。発表は恐らく他の方のHPになるかと思いますが、よろしければ期待してください。
 それ以降は、季節もそろそろ冬となる頃ですし、未完SSであった「思い」の完結に向けて動き始めたいと考えています。
 ……え?あかりちゃんのラブラブなお話し?……え、ええ、勿論そちらの方も考えていますのでもうしばらくお待ちくださいね(^^;)
 ではでは、これからもよろしければお付き合いくださいませ。



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