〜 「祝いの硬玉」 番外編 〜




彼岸花 〜 前編 〜






 ここに来てから、もうどの位の年月が流れたのだろうか……


 …暖かくて好きだった春……川泳ぎがとても楽しい暑い夏……食べ物が一番多くて嬉しい秋………そして、寒くて寒くて大嫌いだった長い冬……
 そうした四季折々の季節の記憶は、もう過去の思い出となってしまっている。
 …いいや、それどころか日が昇り、また沈み、そしてまた昇り、また沈む………そんな当たり前の日々の景色ですら、すっかりと昔の記憶の中だ。
 昔の記憶………ろくなものが無い。
 ぼくはいつだって脅えていた。物心が付いた頃にはもう脅えていた。…きっと、この世に生まれついた時からずっとずっと脅えていたんじゃないかと思う。
 古い古い記憶の一片。『この穀潰しが!』と怒鳴る母の声。
 ……あれは、きっと本当の母じゃない。そうじゃなければ、意味も無くしょっちゅう当たり散らしたり、そんな勢いでぼくをひっ叩いたりはしない。

 母には、兄と呼ばなければならない人が沢山いた。それこそ、片手では数え切れない程にたくさんの兄が……
 家は狭くて汚なくて、全員が寝るのにも毎日すごく苦労するのに、なんでそんなにも人が多いんだろうといつも不思議に思っていた。
 …けど、それは、ぼくの所だけが特別という訳じゃなかった。他のどの家でも同じ様なものだった。ぼくの所は兄だけだったけど、女の子が居る所も当然あって、それがどうしてだか凄くうらやましかったのを覚えている。
 …だけど、ぼくみたいにしょっちゅう怒られている子供は見たことが無い。
 最低でも日に五つは怒鳴られ、叩かれる。指の数と一緒だ。多い時には両手でも数え切れ無い。足の指を足して収まればいい方だ。
 そして、そんなぼくを兄たちは笑っていた。にやにやと、意地が悪そうに、ただ笑っているだけだった。
 誰も助けてくれない。ただ、笑って見ているだけ……
 ……いいや、その言い方は正しく無い。見ているだけじゃなかった。あいつらは、いつでもぼくの事をさげすんでいた。ぼくを、便利な小間使いとしか考えていなかった。
 ………違う……小間使いなんてまだまだ上品な言い方だ。……ぼくは、あいつらの奴隷だった。
 …だから、一寸でも逆らうと、容赦無くぼくを木の棒で打ちのめした。

『逆らってんじゃあねえぞ!誰のおかげでまんま食ってられると思っているんだ!?』

 少なくとも、お前らのおかげじゃない。
 でも、そんな事を言おうものなら、それこそ顔の形が変わるまで叩かれ殴られる。そして、家に帰れば帰ったで『何処で喧嘩してきたんだ!』とさんざん怒られて、結局その日のご飯は抜きとなる。
 結局は、耐えるしか無い。
 ぼくは、そこから追い出されたら食べてはいけないのだから。
 だから、だから兄たちの奴隷だったとしても……

....ギ....ギギギギ....

 …いけない、いけない。
 また、いたずらに興奮してしまった。
 …どうしちゃったんだろう。いまさら腹を立てる必要なんて何も無いのに。
 もう忘れてもいい、古い古い昔の記憶なのに……

「…何でも無いよ。だから向こうに行ってな…」

 たった一言。
 それだけで、たちまち邪悪な雰囲気が消えていく。
 けど、居なくなった訳じゃ無い。姿は見えなくても、またぼくが一言発すれば直ぐにでもそいつらは寄ってくる。
 ………友達………そんな訳が無い。そいつらはぼくの下僕だ。奴隷と同じだ。
 決して、ぼくには逆らわない。逆らえる訳が無い。
 逆らったが最後、そいつはあっという間に引き千切られ、処分される。
 ぼくが直接手をくだす必要も無い。その周りに居る、そいつの仲間が手をくだしてくれる。
 ぼくは、ちょっと念じるだけでいい……

 …けど、それにしても、いつまでこんな事をしていなければならないのだろうか。
 ご支配様の命令とは言え、あまりにもする事が無いというのはつまらない。これだったら、繭の中でふわふわと眠っていられた方がまだ楽しい。
 あれは、ぼくに好きな夢を見せてくれる。その中でのぼくは、自分のしたい事が何でも出来る。
 好きなものをお腹一杯食べて満腹になることだって、好きだった裏山の広い広い草っ原全部を自分のものにすることだって、洞源泉と呼んでいた水深の深いゆったりとした水の流れの中に身を置いて、泳ぎながら山女を捕る事だって出来る。
 それも、好きな仲間と一緒に……

 …………好きな…………仲間だって?

..ピチョン...

 鍾乳石からの雫が、ぼくの額を濡らしていた。何故だか、少し気分が打ちのめされていた。
 そんなもの、ぼくは欲しいなんて思った事が無い。だって、人は直ぐに裏切るから。
 都合のいい時だけ仲間って顔をして、そのくせ本心はいつでも自分の事しか考えていない。そんなくだらない生き物だから、裏切る時は本当にあっという間だ。うっかり信じてしまうと絶対に損をする。
 それが分かっていたから、ぼくは絶対に他人に心を許さなかった。そして、それは正しかった。だからこそ、ぼくは今日までこうして生き延びている。
 …死んじゃったら終わりだ。後には何も残らない。
 生きて、生き抜いて、美味しいものを一杯食べて、色々な事を知って、奴隷に命令して、不思議な強い力を使って……

 ………どうしてだろう。そんな事を考えれば考える程、なんだかすごく不安になってくる。
 …ぼくの事を……この存在を……ご支配様は認めてくださっているのだろうか?

..ピッ...

 額に垂れようとした雫が、二度目を果たせぬまま空中で弾けたのを感じていた。
 …そんなのは、当たり前だ。
 そうじゃなかったら、ぼくはこうして生きてはいない……

 けど、そうは考えても、この不安がそう簡単に消えてくれるものでも無い。
 何も今に始まった事じゃない。だけど、こうして一人で考える時間が多くなると、どうしてもそんな事に頭が行ってしまう。

 ……何で、ご支配様は、ぼくを起こしたのだろうか。

 ご支配様だって、そのまま眠り続けていた方が、ぼくみたいに幸せなんじゃないんだろうか。
 …それとも、眠っている方が辛いんだろうか。
 もう、繭に戻っていいぞ…って、そう言ってくれないかな………
 あれは…ぼくに素晴らしい夢を見せてくれる。不安も心配も何も無い、全てが満ち足りたそんな夢を……


...ざわっ...


 突然周りの空気が動いた。下僕どもが動揺している。どうしたんだ? 何が起こった?
 そしていきなり理解した。人だ、人が居る!
 けど、どうして? ここに入れる筈が無い。一体どうやって?

「……あ!人が居る! ねえねえ、ボク?」

 何の予告も無くいきなり現われ、そんな笑顔で駆け寄ってくるその姿に、ぼくは思わず後退さっていた。情けない自分の格好が思わず頭の中をよぎる。
 でも、それは仕方の無い事だ。だって、その姿はあまりにも似ていたから。

「良かったぁ〜誰か居てくれて〜〜…て、あれ?…あっ、あっ、とっ、とっ、とおっ!」

 何かにつまずいたのだろうか、女は目の前まで来たかと思うといきなりけんけん足になり、そのままぼくの方に突っ込んで来た。

「うわわわわわわ〜!」「きゃあああああああ〜!」

 逃げる暇なんか無い。そう思いながらやっぱり反応出来ない自分の身体のもどかしさ!
 そして予想通り、突然の打撃を伴った圧迫感!!
 ぼくは勢い押し倒され、そのまま上に伸し掛かられた感触を味わった。強烈な圧迫感が全身を包む。

「……………………」

 騒がしかった女は、ぼくの上に乗ったままでいる。
 顔が女の身体で完全に覆われていて息が出来ない。取り除こうにも、こんなに密着していてはいつもの強くて危ない力は使えない。
 かといってぼくの体力では、女の重さよりも貧弱過ぎて跳ね返すどころか息継ぎの隙間を作る事すら出来ない。
 なんてこった!八方塞がりじゃないか!!

「………い…ったぁ〜〜い…」

 もはや、今のぼくに出来るのは心の中での悪態だけ。
 女!何でもいいから早くどけよ!お前のせいでぼくは酷い状態なんだぞ!
 ここではご支配者様の次に偉くて、沢山の下僕を従えていて、例えそれが『鬼』であっても指一本振れさせない自信のあるこのぼくが何でこんな目に……
 …あ、いけない、このままでは本当に窒息してしまう……やるな、女……ぼくをここまで追い込んだのは、お前が初めてだ……

 けど……こいつ……なんだかいい匂いがするな……
 ………何処でだっけ………むかし、一度、これと似た様な事が………

「ご!ごめんなさい!」

 そんな声と同時に、突然圧迫感が消えた。息継ぎも忘れて、すかさずぼくはその場を逃げ出す。距離さえ取ってしまえば、いつもの力でこんな女など……

「ちょ、ちょっと待って!」

 いきなり、今度は後ろから抱き付かれる。あくまでやろうというのか?!

「ごめんなさいごめんなさい、あなたを驚かそうとした訳じゃないの。お姉ちゃんがドジでノロマなばっかりにうっかりつまずいちゃって。本当にごめんなさい!」

 言葉と同時にぼくを後ろからぎゅっと抱きしめた。じんわりと背中からそいつの温もりが伝わってくる。そして次には、いきなり頭にほお擦りをしてきた。
 凄く驚いた。また逃げ出そうと思った。

「お願い逃げないで。あなたに逃げられたらお姉ちゃん、また一人になっちゃう。一寸だけでもお話しよ?ね?いいでしょ?」

 女のそんな懇願に何だか少し気が抜けて、ぼくはもがくのを止めていた。
 長い間に研がれていったぼくの意識が、この女は危険じゃ無いと告げていた………

 それは、不思議な驚きだった。こんな事は初めてじゃないだろうか。ぼくは、恐る恐る後ろを振り返る。
 女の顔が、間近にあった。
 日没間際の夕日の様に深くて、そして穏やかな赤い瞳。殺意は全く感じられない。
 何故だか、すごく身近に感じた。
 それは、これまでに会った事のある一番身近な女の子…
 あれは……誰だったか……

「私ね、神岸あかりって言うの。あなたは何てお名前?」
「……え?…あ……そ、そんな事よりも女、お前は一体どっから入って…」
「こらこら。駄目よそんな言葉遣いは。それに、今度は君が自己紹介する番でしょ?」

 つん!といきなり指でつつかれ、思わず両手で鼻を押さえていた。
 こいつ、変な所で動きが素早い。結構あなどれない奴かもしれない。

「あっ!い、痛かった?ごめんなさいごめんなさい。浩之ちゃんへのいつものクセが出ちゃったの。もー私って何てドジなんだろう。待ってていま見てあげるから」

 言うと同時に何やら布切れみたいなものを取り出すと、再びぼくの鼻に手を伸ばしてきた。
 ぱん!と、今度こそ、その手を思いきり振り払う。

「あ!」

 驚いた声。次には悲しげな表情。それを見て、ぼくはふふんと鼻を鳴らした。
 なんだ、つまらない。本当にただの女だ。人間の中でも最低でくだらない生き物の一匹に過ぎない。
 なのにこのぼくがびくびくしたり、鼻をつつかれたのかと思うと無性に腹が立つ。こいつ、どうしてくれようか。

「羅刹」
「え?何?」
「…だから、羅刹(らせつ)。聞きたかったんだろ? ぼくの名前」

 でまかせだった。別に何だって構わない。真面目に教える気なんて元々ありはしない。
 ただ、あだ名でもない限りそんな名を持つ奴などまずいないから、感が良ければ直ぐにでも気付く筈だ。
 羅刹。地獄の亡者共を苦しめる鬼の名前。
 その忌まわしき存在は子供の頃、事ある毎に何度も何度も脅される様に聞かされてきた。
 村の大祭には子供達全員が寺の一間に集められ、それを摸したとされる『地獄絵』を見せられる。
 その中では生爪をはがされ、目をくり抜かれ、舌を釘で打ち付けられ、顔を潰され火にあぶられめりめりと焼かれて、あげくは首をすっかり切られてまるで瓢箪(ひょうたん)の様に腰にぶら下げられながらも尚死ぬ事を許されない亡者共がこれでもかと言う程に描かれていて、その中の鬼はどいつもこいつも笑顔を浮かべながら、そいつらを容赦無く責め苛んでいる。

『よっぐ見とけ!嘘を付いたり、親に迷惑かけるような悪い奴ぁ、みーんなこの鬼に何度も何度も殺ざれっちまうんだ!』

 その絵を前に叫ぶ老婆の声。全くもってお笑い草だ。そんな鬼に、まさかこのぼくがなとうとは。その事実を、あの時の一体誰が想像出来ただろうか。
 出来はしない。誰一人として。それはぼくですら出来なかった事だ…

「そう……らせつって言うんだ。一寸変わったお名前だね。…うん。でも、何か芸名みたいで一寸格好いいかも。どうぞよろしくね、らせつちゃん」

 ……どこまでも呑気な奴だな。こいつ、疑うという事を知らないのか?
 …まあいい、これから自分の身に起こる運命を知ったら、そんな穏やかな顔もしていられないだろう。
 いつだったか…防空何とやらという変な布を頭から被った女がここに紛れ込んで来た時も、ぼくがさんざん遊んでやったっけ。
 やれ水は無いか、やれ食べ物は無いか、一体何処の地区の者かとうるさい位に質問してきて、あまりに面倒臭かったんでとりあえず食い物を与えてやったらがつがつとまるで餓鬼の様に意地汚なく食らいついていた。
 何だか下等な家畜みたいで、それがあんまりに面白かったから『食べられて嬉しい? じゃあ、今度はお姉ちゃんが食べられる番だね』って言ってやったんだっけ。
 何を馬鹿な事言ってるのよ!なーんて偉そうな顔していたくせに、ちょっと下僕共を紹介したらあの女、いきなり腰を抜かしてお漏らししてたよなぁ。
 そしてひーひー言いながら四つん這いになって逃げ出すし、全くみっとも無いったらありゃしない。

「どうしたの?急に黙っちゃって。はい、じゃあやり直しね。どうぞよろしく。らせつちゃん」
「…よろしく、おねえちゃん。一緒に遊ぼうね」

 …そう、一杯一杯遊ぶんだ。この女とこれからたっぷりと。
 時間はいくらでもあるんだもの。直ぐに殺してしまってはつまらない。
 そして、沢山沢山慰めて貰うんだ。
 だって、こんな場所でずっと待ち続けなきゃならないのは疲れるもの。
 仲間は要らないけど、一人で居るのはやっぱりつまらな過ぎるもの。

 何となく、ぼくは昔よく遊んでいた虫たちの事を思い出していた。
 目の前の赤い瞳の女の虫は、これまで遊んだどれよりも綺麗で、そして優しい顔をしていた。
 それが何だか、とっても嬉しかった。


「彼岸花 −中編−」 へ続く.....


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