2022.09.22

   「自己組織性の情報科学」の第I部は概要、第II部のIでは、まず記号論の再建がなされた(その1参照)。第II部のII:情報と情報処理では吉田情報論の構想が語られていて、この本の中心部である。

●情報の定義  p.95-p.97
    情報を物質・エネルギーのパターンとして一般化し、記号を生物を初めとする自己保存系が情報を利用するということに由来する情報の在り方(自己保存系によって意味を与えられる)として定義して、いよいよ吉田による情報科学の構想が語られる。(注:1990年発表の第I部では物質・エネルギーのパターン一般を「最広義」の情報、生物の登場によって情報が利用され、記号と意味に分化する段階(シグナル段階)を「広義」の情報と定義していて、更にシンボル段階を「狭義」、言語段階を「最狭義」と定義しているが、1967年発表の第II部ではパターン一般を「広義」、記号−意味分化以降を「狭義」としているので読むときに注意する必要がある。)。

●情報の諸類型:認知−評価−指令  p.97-p.101
    自己保存系における情報の利用のされかたによって、情報に環境を意味する認知情報=記号、価値を意味する評価情報=記号、行動を意味する指令情報=記号の3段階を区別することが出来る。但しこれらは細胞レベルでは未分化であることが多い。特に「価値」は生物体にとって鍵となる情報であり、そういう意味で価値機能(例えば絵画の美しさ)と価値形態(例えば絵画のフォルムや色彩)の側面があり、これらの統合として価値基体という概念が定義されている。日常的意味での情報は認知情報のみであるから、この点に吉田が情報概念をパターンにまで拡張した意義がまず認められる。

●情報処理:伝達−貯蔵−変換  p.110-p.121
    情報論には情報そのものという側面と情報処理の側面があるが、情報そのものについては既に記号論で大部分が語られている。情報処理は伝達−貯蔵−変換、という3局面に分けて考えることができる。情報の伝達とは空間移動であり、貯蔵とは時間移動である。情報の変換では記号の変換と意味の変換を区別しなくてはならない。記号の変換は認知、評価、指令、という枠内でのその担体の変換である。意味の変換は、認知、評価、指令相互間の変換を含んでいるし、それこそが自己保存系における本来的な意味での情報処理であるが、従来の学問では必ずしも情報処理とは見なされていないし、従って情報論ではあまり論じられていないので、ここに吉田情報論の2番目の特徴が見られる。

●高次情報処理:因果と目的手段と般化分化  p.117-120
    情報の意味変換の契機が時間的空間的な接近にある場合(例えば条件付け実験の場合のベル→食事)は接近変換と定義される。特に意味的接近変換では、情報処理能力の発達に応じて、時間的空間的共存や契機に即した変換から、「因果的ないしは目的手段的な変換」が分化してくる。他方、情報間の類似性から引き起こされる変換は情報の類似変換と定義され、特に意味的類似変換では、単純な類似による変換から「般化分化変換」(カテゴリーとして見ることとカテゴリーに分けること)が分化してくる。これらは、高次情報処理の特徴であり、科学の特徴でもある。

●プログラム  p.121-p.126
    自己保存系の情報処理は自己保存のためにあるのであるから、勝手になされるものではなく、一定のプログラムに従って行われる。自己保存系は自らがその内部に保持するプログラムに従って情報処理を行い、その結果の如何によって結果をフィードバックしてプログラム(あるいはデータ)を変更する。これこそが、すなわち生き延びる技術こそが情報論の中核をなすべき議論である。プログラムが遺伝子であれば、フィードバックプロセスは「自然淘汰」ということになり、習得的であればそれは「学習」ということになる。

    大脳皮質の発達によってプログラムの構成が複雑になると、現実の出力よりも時間的に先行してプログラムが作動するようになる。これが心理学でいうところの「構え」であり、社会においては仕事の手順や計画に相当する。フィードバックについては、やはり大脳皮質の発達によって、現実に実行した結果からのフィードバックのレベルから仮想的にシミュレーションした結果からのフィードバック(思考)のレベルが分化してくる。

●適合性のテスト:事実対応性、要件充足性、実行可能性  p.126-145
    フィードバックのためにはまず結果を評価する必要がある。何を評価するのか?それは情報処理の結果が生き延びるための環境適合性を持つかどうか、ということである。情報論的にはそれは結局情報テストとして要約される。何らかの基準となる情報(あるべき出力)があり、それと獲得された情報(改変した場合の出力)を比較する、ということに帰着するからである。

    自然選択の場合は分子遺伝学で研究されているので、吉田は習得的な場合での特に「命題」形式における情報テストについてやや厳格に議論を積み重ねている。まず情報と情報との間情報的適合性を定義するが、適合性とは言っても二つの情報の包含関係によって種類があり、また、判断基準が経験的(経験との比較)か理論的(定義や規範との比較)か、判断主体が個人か社会が、といった分類を行っている。これらはいずれ役に立つものかもしれないが、この本を読む上では適合性と言っても一つではない、という理解があれば充分である。

    一般的には経験的判断基準による適合性が重要であり、対象が認知情報の場合は「事実対応性」、評価情報の場合は「要件充足性」、指令情報の場合は「実行可能性」がテストされる(p.137)。これらは経済政策や企業の事業戦略においても意識されており、それぞれ、「正確性accuracy基準」、「最適性optimality基準」、「実効性feasibility基準」として良く知られている。

    最後に、科学の目的(真理の探究)について触れている(p.142)。真理というものが命題の理論的経験的適合性を意味するならば、それは従来の科学におけるように認知情報に限られる必要はなく、評価や指令情報も含むべきである。美学、政策目的論、倫理学などである。科学の方法論として知られる、観察→帰納→理論化、と仮説→演繹→実証、という方法論は、評価や指令情報においても有効である。

●学習と主体選択・高次意思決定  p.145-p.167
    適合性の増大の内、遺伝子レベルの出来事、つまり個体(一般的には種)の生き死にと増殖を介しての自然選択による場合は進化学によって論じられているから、吉田は個体レベルあるいは社会レベルでの学習による場合、つまり「主体選択」について考える。その中でも多くの動物で見られる単純な「刺激−反応型」に比べて、特に人間の言語レベルでの適合性増大戦略は、仮想的なものでありうるために、任意選択的な側面が強く「躊躇−選択型」とでも呼べるだろう。これを特に「高次意思決定」と呼ぶ。

    高次意思決定では、どのレベルでの適合性で満足するか、最大適合性を求めるのか、許容適合性で満足するのか、それらを同時に満たす最大許容適合性なのか、という分類が可能である。また、具体的にはさまざまな側面があるからそれぞれの側面への部分適合性を総合しなくてはならず、それぞれの適合値に荷重値(重要度)をかけて、信頼値を考慮して加算する。その上でいくつか候補に挙がってきた代替的情報の選択をおこなう。このような考え方は社会的意思決定モデルとして知られている(p.161)。認知先決型、評価先決型、指令先決型、といった分類も可能である(p.162)。認知と指令を重視する場合は現実主義であり、重要な評価については妥協することになる。さらに適合性そのものではなく、機会不適合性(後悔):期待しうる最大の適合値との差や機会適合性(慰め):期待しうる最少の適合値との差を基準にして選択する場合もある。極端な場合は、基準そのものを変更して妥協する、自己防衛型にまで至る。これらの考察は、比較的単純な自然選択に比べて高次意思決定の主体選択における「情報科学」の奥深さを垣間見させるものである。

●主体性  p.167-p.173
    主体性は「システムの習得性情報処理の基体」として定義される。主体性の構成要因は、(1)系の要件の認知機能、(2)認知から指令(以下CD)への変換機能、(3)適合性への性向、(4)情報処理性能、(5)CD変換の自由度(外部から見た不確定性)である。

    人間と人間社会においては、言語性シンボルを操ることにより、それぞれ、(1)系の要件の自己包絡(自己意識)、(2)言語性のCD変換(意思決定)、(3)大局的・長期的な適合化性向、(4)推理・伝達・貯蔵などの能力、(5)道具による技術的自由度、が特徴となる。ここで、「自己包絡」というのは、身体的自己を超えた存在(社会や神、家族、等々)を自己として取り込むことである。

    近代から現代に至って主体性はさらに「高次主体性」として展開される。その特徴は、(1)部分システム同士あるいは部分と全体システムとの間で生じる要件葛藤を自己包絡すること(複合主体性と呼ぶ)、(2)高次意思決定の自己選択、(3)能動的な適合化性向(環境の改変)、(4)情報処理の合理化・科学化、(5)意思決定の社会的自由度(社会勢力を利用した意思決定)、で特徴付けられる。社会勢力とは、例えば、人事・査定・許認可などの制度的権限を持つ官僚や合理的・科学的情報処理能力を持つ専門家集団、など含まれる。

    このように、主体性は習得性適応をする全ての動物や社会集団が生き延びている限りは持つべき性質として定義される。それ無しには単に滅びるのみである。

●自由と主体性  p.173-p.180
    意思の自由とは「プログラム構想の自由」と「意思プログラムの選択の自由」である。プログラム構想の自由は人間がシンボル記号を使用する、つまり現実に束縛されない、という事に由来し、情報の仮想的テストによって要件充足の許容度を見積もることでその自由度が制限される。意思プログラムの選択の自由は技術的・社会的に制御可能な要因が増えるほど増大し、情報の現実的テストを経て行動の自由度にまで制限されることになる。つまり、自由というのは主体性に由来するのではなくて、むしろ主体性によって適合性増大という「法則性」の枠の中に誘導されるのである。

    問題は社会という自己保存系の主体性というものが、必ずしも確立されていないことである。複数の個人の主体性によって齎される調和や葛藤の結果として社会の行動法則が決まるわけであるが、このような主体性未確立の場合を吉田は「準行動法則」と定義している。そのような社会は必ずしも要件充足されていないから、存続・繁栄するとは限らない。逆に言えば、社会の準行動法則や行動法則を研究することで社会の主体性を確立することこそが社会学の目的なのである。個人はそれらを自己包絡することで、高次主体性を獲得する。

●マルクス主義について  p.180-p.183
    マルクスにおける資本主義社会の必然性というのは資本家のみが主体性を発揮していて、社会の主体性が確立されていない段階での準行動法則である。労働者の主体性確立とは階級意識の覚醒や政権の奪取であるが、それだけで目的とすべき社会の主体性とそれによる社会の存続・繁栄は得られないことは明らかであろう。恐慌や窮乏化や無政府性を克服すべく資本主義社会も主体性の確立を目指してきた。それは、資本家自身の総資本という主体性、総労働の主体性、階級性の緩和による国民社会という主体性、旧植民地の主体性、といったさまざまな主体性が絡まった結果であり、これらはマルクスの時代では想像できないことであった。これらの主体性を複合して本来の習得性情報処理を最適化することこそが求められるべきことである。

●情報科学の3部門と4領域  p.184-194
    情報科学はその対象部門として、生物個体と生物社会、人間個体と人間社会、情報処理装置がある。生物個体と生物社会については既存の学問分野であるが、人間個体と人間社会については記述的・実証的な立場と規範的・当為的な立場(理想状態の追求)がある。現状の情報科学は情報を効率的に利用するための科学であるから規範的と言えるだろう。その意味で人間・社会の情報科学も規範的となるべきである。それは個人や社会の高度主体性が確立したと仮定される状態における情報処理を対象とすれば記述・実証科学となる。次章で吉田自身がそのアウトラインを描く。情報処理装置についても既存の学問分野であり、先行して発展している。(それが自己保存系と言えるかどうかは疑問である。)

    情報科学の研究領域としては、情報の表示と形態論(記号論と意味論)、情報の伝達論、情報の貯蔵論、情報の変換論(記号変換と意味変換)がある。進化的唯物論が物質的自然の歴史性と階層性を主張するとするならば、吉田の情報論(進化的観念論)は情報的自然の歴史性と階層性を主張する。また物質の進化として生命の起源を語るとするならば、吉田の情報論は情報の進化として精神の起源を語ることになる。

    生命の出現以降において、物質と情報は相互依存的に進化している。物質的自然の進化は物質的自然の構造を齎すが、その物質的構造に規定されて情報的自然の選択がなされる(アフォーダンス)。情報的自然の選択によって情報的自然は発展し、情報的自然の発展によって物質的自然の進化が規定される(情報の利用)。このような考え方で唯物論と観念論が止揚されることになる。

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