2005.12.30

吉田民人

      DNAの螺旋構造が明らかになったのは私が中学生の頃だったような気がする。生物の先生がちょっと興奮していたのを覚えているが、物理化学系に夢中であったのでその意味は良くわからなかった。大学に入った頃理学部に生物物理学科が出来たがあまり興味もなかった。そのころから、物理でもプリゴジンに触発されて非線型現象やパターン形成といったエネルギーの流れがある系での構造形成に興味を示す人達が出てきた。シュレージンガーの「生命とは何か?」という本などは良く読まれたものであって、物理屋はこれこそ生命の本質と思い込んだのかもしれない。しかし私の目には単なる数学の遊びにしか見えなかった。同じくニューラルネットワークの話も興味深かったが、定性的に脳の働きと類似の振る舞いをするというだけで、それで脳が判ったとはとても思えなかった。それらを更に進めて社会現象にまで応用する人達も現れたが、とても本質を捉えているとは思われなかった。物理屋が生命現象の本質と思っている非線型非平衡現象は生命が利用しているメカニズムにすぎないのであって、あくまでも物理学の研究対象である。

      会社に入って生物研の人達の話しを聞く機会が増えて、分子とも何とも同定されていないいろいろな「因子」やらホルモン類似物質があれこれの反応サイクルに干渉して、、、、といった実証不十分のモデルにややうんざりしていたが、遺伝子と環境との複雑な相互作用が少しづつ確度を増していくにつれて、つまり遺伝子の働きというものが固定的なものではなくて、環境との相互作用によって大きく左右され、また変化するものであるということを知るにつれて、これは何か新しいパラダイムのような気がしてきたのがここ10年くらいであろうか?実際、生命現象のレベルでは進化によって形成された秩序原理が重要であって、それ自体は単純に物理に還元できるものではない。物理や化学で説明出来るとしても遺伝子そのものは前提条件として措かざるを得ない訳であるが、生命現象のあらゆる分野がその遺伝子との関係で研究されるようになってくると、物理や化学は単なる媒介的な説明手段の一つとして主たる関心から退いてしまう。生物を研究するのであるからこれは至極当然なことであるが、それはそれとして認めた上でも、何か全てを統一するような原理なり法則なりを追い求めるという物理屋の発想からすれば、生物の世界はあまりにも個別的すぎるものである。つまり物理のパラダイムでは生物学は枝葉末節にしか見えてこないのであって、その事自身がパラダイムの変換を雄弁に語っている。ある意味でこの見方の差異は物理と化学の間にもある。化学は物理法則の支配の元にあることに疑いはないが、化学の関心は法則ではない。あくまでも物質の個性である。星の進化のプロセスで出来上がってきた原子種に依存している、という意味で化学にとっては周期律表の上に展開する種々の分子種や結晶種が生物学のDNAに相当している。

      吉田民人は社会学者としてこの様子を見ていて、社会学も同様なパラダイム変換の時期にあると感じたのであろう。確かに社会学というものも物理学をモデルとして社会現象の中に普遍的な法則を見出そうとしてきたのであるが、部外者から見れば何をやっているのか判らない学問である。吉田民人は社会学とは何であり、何をすべきか、ということを明らかにするために物理や化学の世界から生物の世界へのパラダイム変換を更に一般化している。その基本概念は「情報」と「プログラム」である。それぞれが通常使われるそれらの語を拡張していて、より広い概念として統一的に論じる事で、社会学の意義を言わばアナロジカルに暗示しているのである。当然のことながら暗示だけでは詩人の仕事に留まるのであって、実際に有効な概念としてこれからの研究活動で活用されて始めて意味を持つのである。それにしても、それらの概念はいろいろな学問的活動を整理するのに便利であるような気がする。

      情報という概念の枠組みの中で「最広義の情報」は科学の世界での実在である「物質とエネルギー」の存在形態(昔の言葉では形相)のことである。最近の流行語としては「パターン」がそれに相当する。すなわち物質とエネルギーは何らかのパターンとして存在するわけで、その側面を「最広義の情報」と定義する。ところで特定の分子集団があるパターンを持って存在する、ということは例えば熱力学的な相としての側面と界面の存在によって区別される形状としての側面を持っている。それ自身が過去の歴史に規定されていて、ある場合には有限の緩和時間で特定の安定なパターンに落ち着いたりする。これらのパターンは一般的には初期条件や環境条件に規定されて説明されるべき現象に過ぎないし、それこそ物理と化学の研究対象であるが、その中でもRNAやDNAは生命現象にとってパターンとしての意味を有する点で特殊なパターンであって、「広義の情報」ということにする。遺伝情報以外にも、神経網パターン(感覚・知覚・動作・運動)がこの類型に入る。更に人間世界に登場するシンボル記号は「狭義の情報」である。その中でも通常の言語は外シンボル性、伝達性、一回起性、認知性、意思決定への影響を備える「最狭義の情報」である。情報をここまで拡張するとその分類が必要になる。

1.シグナル情報(直接指示対象と結合し意味表象を持たない:DNAや神経パターン)
    シンボル情報(脳内で意味表象過程を媒介にして指示対象と結合する:アイコンと言語)

2.内記号情報(記号担体が生物内部に存在する:DNAや神経記号、記憶)
    外記号情報(記号担体が生物外に存在する:データベース、外言語)

と分類したとき、心はこれら全てで構成されており、アフォーダンスというのは主に指令機能を担うシンボル性またはシグナル性の外記号(状況記号)として分類される。環境心理学の立場では動物内部に実在あるいは想定される、神経回路のパターンや表象それ自体は心理学の研究対象ではなくて、あくまで動物の振る舞いとアフォーダンスの相互作用に焦点が絞られる。同様な視点はラマルクやゲーテの流れを汲む生体力学的な進化論(三木成夫)にも見られ、そこでは遺伝子の変容はあるとしても付随的な現象であって、生体への力学的賦課と動物の形態進化の関係に焦点が絞られる。

3.情報の機能は「指令」「認知」「評価」である。
自然言語と遺伝情報を情報として一括りにする時に感じる違和感は前者が主として認知機能であり、後者が主として指令機能だからである。

4.単用情報と耐用情報の区別
            認知的    指令的   評価的
    単用   ニュース; 命令;   評価的意見;
    耐用   知識;     規範:   価値観

5.現実態と可能態

6.情報変換のタイプ
    時間変換:記録・保存・再生
    空間変換:発信・送信・受信
    担体変換:例、DNAの複製など
    記号変換:例、話し言葉と書き言葉
    意味変換:計算、推理、分類、連想、判断、意思決定
    記号化変換
    非記号化変換

      さて吉田民人は科学の活動の内では法則を前提とした事実の究明よりは事実を前提とした法則の究明を重視しているように思われる。化学と物理とを一緒にして扱う際にもどちらかというと物理を意識している。これは実際に物質科学を経験していないからかもしれない。「法則」に対して「プログラム」という概念が生まれて来る。定義としては、「一定の生物的・人間的システムの内部に貯蔵され、変異(突然変異や自由発想)と選択(自然選択・性選択や事後・事前の主体選択)をつうじて生成・維持・変容・消滅しながら、一定の前件的条件(空間的な境界条件や時間的な初期条件、以下同様)のもとで作動・活性化して当該システムの内外の秩序をみずから組織する、一定の進化段階の記号の集合」となる。この定義ではアフォーダンスはプログラムではない。あくまで外部に存在するからである。

      吉田民人によれば生命の誕生とは「自己設計機能」の誕生である。その設計の為のシグナル性プログラムが遺伝子(DNA,RNA)ということになる。その進化形として「脳神経的設計」(学習されたシグナル性プログラムとしての脳神経的プログラム)、更には人間系において「文化的設計」(言語的プログラムを中核とするシンボル性プログラム)がある。生物学においてはプログラムに根拠を持つ秩序を扱うが、そのメカニズムはあくまで物理・化学である。しかし人間学においてはプログラムの作動そのものが物理・化学的ではない。基本的には表象媒介的であり、それは単にプログラムとその作動結果の結合が脳内の表象を媒介としているということだけでなく、プログラム同士の直列的あるいは並列的結合が一般的である、という意味でもある。こうしてシンボル性プログラム科学には「非決定論的性格」が付きまとう。基本的には、というのは人間の脳の働きとしてみれば大部分が脱表象化(習慣化)されていて、擬似シグナル性と見做せるからであり、そのようなプロセスも重要な研究対象となることは言うまでもない。自己組織化という最近流行の言葉との関連でいうと、プロゴジン流の自己組織化はあくまでも物理・化学法則の支配の元での話であり、吉田民人のいう情報学的自己組織化とは異なる。その相違は後者がプログラムを支配原理として生成する組織化であり、プログラム自身のライフサイクルや進化を含んでいるからである。(2023年の注:脳の働きを表象を媒介として記述することには決定的な限界がある。それは脱表象化という概念では語り切れない。本質的なものである。またプログラムが記号であるというのは RNA、DNA からの「類推」にすぎない。あるいは吉田民人の願望にすぎない。この点で、吉田民人は分子生物学に感銘して世界の体系化という夢を見た「詩人」にすぎないとも言えるだろう。それはそれで意味のあることではあるが。。。)

      このような考え方から吉田民人は「目的論」に新しい意味付けをする。自然科学は勿論目的論を排除してきたのであるが、シンボル性プログラム科学の立場から見れば、目的論にも一定の存在意義がある。そもそも自然の自己設計というのは目的論的な意味を持っている。進化段階として、

1.遺伝情報と自然選択・性選択によるダーウィンの発見したタイプ、
2.感覚運動情報と事後主体選択によるオペラント学習、
3.シンボル情報と事前主体選択という人間に見られるタイプ、
というステップを辿っていると考える。これらを更に整理すると、
外生選択(自然淘汰、市場淘汰)→内生選択、
その中でも事後選択(反省に媒介された学習)→事前選択(シンボル性情報空間での選択であるから可能となる本来の目的的行為、権力者による規制などもこれに相当する)。
この段階で気づくことは、生物主体がシンボル性情報空間それ自体とは別の存在として想定されていることである。但し主体というのは主体選択という行為によって立ち現れて来る概念であって、文の主語のようなものである。すなわちそれ自身を問うことに意味はない。

      学問としてみた場合、プログラム科学は、1.プログラムそれ自体の実証的研究、2.プログラムの動作・実現過程の研究、3.プログラムの作動結果の実証的研究、4.プログラムのライフサイクルの研究、ということになる。更にこれらの実証科学に対して、設計科学を想定する事が出来る。物理工学、化学工学、遺伝子工学、脳神経工学、社会工学、という風に分類が出来るが、設計科学は実践を宗とするため、本質的に区分が曖昧とならざるを得ないし、本質的にシンボル性プログラムを生成する。

      さて、以上はあくまでも基本的な分類学であって、問題はこれらを具体的に個々の分野にどう適用するかであるが、それについてはまだ読み進んでいない。

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