2002.12.07

      今回の出張では市川浩の「身体論集成」(中村雄二郎編:岩波現代文庫)と三木成夫の「ヒトのからだ」(うぶすな書院)を1/3位づつ読んだ。日本語の 「み」を巡る存在論はなかなか面白い。人(動物)は環境を切り分ける事で生きて行くが、それは「み」を切り分けることと裏腹である。均質な空間と時間の中で質点が相互作用する、という物の見方では到達出来ない想念である。言葉は確かに記号であり、記号の間の関係性でしか意味をなさないように見えるが、しかしその音は歴史的連続の中でそれ自身の存在(必然性)を刻印している。確かにたまたま選ばれた音ではあっても、意味の繋がりが連鎖を成していて、その全体は生き物である。人の身体もそうであって、進化や発生の観点から見れば、現在の医学が忘れてしまっている重要な意味が浮かび上がる。植物性と称される内胚葉(呼吸−消化−循環−排泄)の組織群に対して、動物、人を特徴付けるものは動物性(外胚葉:感覚−運動−神経)組織である。進化の歴史は植物性組織が動物性組織に支配を譲り渡す過程と見る事も出来るくらいであるから、植物性組織こそがその人であることを忘れがちである。感覚は元々は直接循環系の反応を引き起こしていて、それこそが感情(心)の原点である。神経系や脳はその仲立ちをしているだけであるから、心は脳にあるとは言えない。実際心臓と肺を移植すると性格が移ってしまう。まあそういう議論までは書いてないが個々の組織の由来を解説されると昔無味乾燥に思えた人体の各部分が意味付けられて来てとても興味が湧く。こういう本に若いときに出会っていたら自分の世界観ももっと早くすっきりしたものになっていただろうと思う。

      今日、「ヒトのからだ」を最後まで読んだ。上記の心の説明はちょっと不正確であった。循環系が筋肉を発達させてそれを感覚系が刺激するという経路が出来上がる、これが心の由来である。したがって脊椎動物以降という事になる。ヒトでは交感神経と副交感神経(自律神経)支配の領域である。外界の知覚には2種あって、一つは量的知覚(運動の為の知覚)で、もう一つは感得(感情を動かされる知覚)ということが、後半で出て来る。後者無しには外界を意味付けて感じることが出来ない。この感得というのはいわゆる「クオリア」に相当するもののようである。精神の働きは外界を区分し離散化してそれを概念として固定化し、論理操作を行うが、それが完成されてしまうと、「意味」の感覚が必要で無くなる。科学的認識は「意味」を排除して(主観性を排除して)完成する。そういう事が後の解説に書いてあった。自我の働きは全てを「無」とする。ちょっとこれは言い過ぎのような気がする。そういう意味で完成された科学の論理は「形式知」であって、現実に当てはめるには人が意味を与える必要があるのだし、そもそも完成を目指す努力は人が意味を感じなければ行われないのだから。科学的認識の努力もまた宇宙的連鎖の一環として捉えるべきである。

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