2007.03.24

「岩本拓郎氏弾き語りコンサート」

    今日は朝から大宮へ。青春切符で一日中乗って1800円。大宮まで1時間はやや疲れた。駅でお茶漬けを食べて、地図を見ながら大宮公園の入り口までテクテクと歩いた。妻は何だか足が痛いという。背中が冷えるので花王の蒸気温熱シートを2枚も背中に貼り付けているので暑いという。大辻神社の脇を歩いていくとエル・ポエタという喫茶店はすぐに見つかった。その一角で岩本拓郎「Work on Paper」展である。小品で、小さな紙に絵の具を塗ったという感じであるが、渋い色彩感覚と塗りのタッチが何となく良い。同じ部屋に銅版画が1枚あり、谷川俊太郎の詩が貼ってあった。どうも7枚組みの銅版画集に谷川俊太郎が詩を付けたようである。この抽象的な銅版画を見せられて、これは何だろう、こうも見えるし、ああも見える、ということを散文詩風に連ねている。最終的には結局人の生き様ではないか、ということのようである。確かにそうである。

    ともあれ、そこからまた「櫻守」という庭園ギャラリーまで20分程歩いた。大宮は宇都宮と同じく何となく中途半端な地方都市という感じである。歩道がキチンとしていなくて、歩きづらい。着いたら早速温熱シートを外した。駐車場には見事な櫻がある。「陽光」という高知で交配された品種らしい。あまり広がらずよくまとまり、ピンクで大柄の一重の花である。庭はなかなか良かった。ちょっと京都のお寺の庭のような風情がある。普段はここでお茶をだすようである。駅から遠いのが難点であるが、車で来れば利用したくなる。

    さて、展示作品は櫻である。この間の櫻展で小品は売り切れてしまったので新しく描いたのと、例のアトリエに籠もって書き上げた櫻の大作である。大きなキャンバス2枚を繋いで部屋の壁一面に展示してあった。大きな作品を締めるためであろうが、青が積極的に使われている。もはや櫻のシリーズは即興演奏のようなものであって、個々の作品を曲として纏めることだけにある種の意図が入っているという感じである。絵の具を置いて引き伸ばす、という個々の技術そのものが演奏行為に相当していて、注意を払って全体を纏め上げる。確かに、Free Jazz とでもいうべきであろう。結果として出てくる作品によって、僕たちは目の中(脳の中)でそれを自由に再現することになる。

    お客さんはどうもギャラリーの常連さんが多かったようで、席は一杯になった。最初に拓郎氏の芸術論があった。まあその通りという感じで、特に感慨も無い。一休みして後半は歌である。昔からシャンソンをよく歌っていた。ただ結婚してから最近まではあまり歌っていないらしい。最近の心境としては、やはり年をとるなりに歌の内容が感得できるようになったという。ともかく歌い方は本格的である。声の使いかたなど丁寧に計画されている感じがする。一種の演劇である。翻訳されたシャンソンは勿論それなりに訴えかけるものがあり、また翻訳でなければ感情移入もしにくいのかもしれないが、聴いている方としてはやや違和感がある。原語の方がすっきりと入っていける感じがする。その点で谷川俊太郎の詩による2つの歌(「おはようの朝」と「死んだ男の残したもの」)は一番良かった。この辺の歌詞とメロディーの調和性というのはもう少し分析してみたいような気がする。翻訳が日本語として自然になるとメロディーとの調和がとり難くなり、どうしてもある程度の妥協が起きてしまうのではないかと思う。拓郎氏も最後には乗ってきて、顔つきも紅潮してきて、この人は本当にこういうことが好きなんだなあ、と思わせる。そもそも絵描きになる必然性があったのだろうか?絵描きとしても随分苦労した末に音楽的な描きかたに収束したということなのだから。。。でも、こういう音楽としか言いようがないような絵が出来るのだから、これでよかったともいえる。今日は連れ合いの染織作家浄土さんも来ていて、妻といろいろ話していた。落ち着いた背の高い人で自信に満ちている。娘が二人居て下の子は歌手らしい。CDを紹介された。

    帰りの電車が丁度よさそうだったので早めに失礼したが、ちょっとの差で間に合わず、駅前の高島屋の地下で夕食を済ませた。何とも古いデパートで、これでやっていけているのだろうか?と思った。東口は多分裏になるのだろうから、これで大宮の印象を決めてしまってはいけないが、本当に地方都市という感じである。

    ところで「死んだ男の残したもの」という歌がずっと印象に残っている。この歌は確かに武満徹 らしいメロディーである。そのトーンは彼の前衛的な作品に通底するものがある。技術的には何と言ったらいいのか僕にはその能力がないが、この音の曲がり具合というのは前衛的な作品での音の揺らぎ具合と共通するものがある。

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