2007.02.17

    朝、新聞を見ていたら岩本拓郎氏の個展の案内があったので、3人で見に行った。佐野インターの近くで、ギャラリー・ファンタジアというところである。今回は桜シリーズで、他には先日神戸の彼の兄の家で見たストライプのシリーズなど、3〜4種を平行して描いているらしい。抽象画ではあるが、全体の枠組みがそういったいくつかのパターンになっていて、その枠組みの中で描くという動作の中で現れる自分を見ている人に感じられるように結果として残す、ということらしい。それらのパターンは長い画家人生の中で特定の時期に採用したものではあるが、現在はあまり拘りなく、それぞれが自分の異なった側面ということで、過去のパターンをいくつか同時平行で採用している。

    何が描かれてあるかという主題よりも、むしろ描いているという現在進行形を凍結して表示する、という感じである。見ていてなるほどそういう感じがする。一種のアクションペインティングといっても良いが、描く枠組みは自分で設定してあるところがちょっと違うし、絶えず全体を頭においている。結果的に感じられる共通したものと言えば、生命感というか生成しつつあるもの、というか、要するに一人の人間が純粋に生きているという感じである。勿論絵画であるから、空間に首尾一貫したものとしての統一感を与えるということが、基本的な技術である。その為には描くときにその描いている局所に集中し過ぎないように、わざと見ないようにするとか、1m位のヒューム管を使って遠くから描くとか、という工夫もしている。その統一感というものが、生成しつつあるものを暗示する、というところが彼の狙うところである。

    今回の桜シリーズの場合は油絵の具を置いてナイフを離したときに出来る引き伸ばされた絵の具の塊が、いろいろな方向に突き出していて、それぞれがまあ言ってみれば桜の花びらなのであるが、それらが無数に配置された全体が絵としての柄である。地は個々の絵によっていろいろである。青空であったり、枝垂れ桜の葉であったり、菜の花であったり、曇り空の幽玄であったり、夜の闇であったり、まあいろいろ。絵の具を重ねていくということは、下の色を隠すということでもあるが、隠されたということが残るということでもあり、それが画家の心的時間を暗示する手法ともなっている。そういう意味で、桜シリーズにおける一つ一つの絵の具の塊と、ストライプシリーズにおける一つ一つのストライプとは対応する技術である。油絵の具は何日も乾かないので、彼が描くときに使える実時間の幅はかなり広くて、一晩寝てから新たな方向を見出したり、といった自由度が活用されている。絵の中のいろいろな部分を見ていくとそれぞれにこの時間の流れを感じ取ることができるから、それに眼が動かされて絵の中を駆け巡る。つまりこれは拓郎氏の脳の中の時間を感じているということなのだろう。こういうのを感じさせるところはやはり画家としての技術であって敬服せざるを得ない。しかし、こういうのが絵として魅力を発揮するためには、その脳の中の時間が結局は何であるか?ということが一番重要なのではないだろうか?これは子供のころからの純粋な気持ちなのであろう。それがこうして表現され、多くの人に感じ取ってもらえるということこそが、おそらく彼の望みなのであろう。

    ところで、僕は抽象画における形式ということをよく知らないのであるが、彼のような形式はむしろ工芸の世界に通じるのではないかと思う。茶碗であるとか、ザルであるとか、そういった日用品は目的にあった形を成しており、それが工芸家にとっての枠組み(形式)である。その中で手作りでテクスチャーを作っていく。そこに見る側が工芸家の脳の中の時間を感じ取るわけであるから。彼の場合、なぜ茶碗ではなくて桜なのか?ストライプなのか?はたまた四角形の重なりなのか?という疑問は残るが、それは彼の技術と関係していると思われる。絵の具の色に対する感覚の鋭さとか、線で表現することに対する拒否感というか、物をそこに捉まえて制御するということよりも何かに包まれていたいという願望とか。まあいろいろあるが、勿論これらは想像に過ぎない。

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