2012.12.15

     「戦後史の正体」(創元社)は今年の8月発行で、著者、孫崎享(うける)は元外務省国際情報局長である。日本の戦後史は日本のアメリカ支配の歴史であり、外務省の立場から見ると、アメリカ追随路線と自主外交路線の対立の歴史でもあった。これはまあ誰もがそう思っているだろうが、個別に実証するとなると秘密事項が多くてなかなか難しいし、マスコミを始めとして世間においては公然と語られることも殆どなかった。しかし、近年の情報公開やアメリカの右傾化に対する危機感から、次第に明確な形を示し始めている。「日本/権力構造の謎」に傍証を与えるような感じもあるが人物の評価が異なる場合もある。また、こちらの方は外交を中心とした詳細でもあり、具体的で判りやすいとも言える。アメリカは単純に日本を利用しようとしているだけであり、その時その時の国際情勢に応じて態度を一変させる。あくまでも言いなりになる属国として日本を扱っている。とても同盟などというものではない、ということである。そもそも太平洋戦争そのものが最初からアメリカを引きずり込みたいという連合国の思惑に乗せられて始まったのであり、その時点で日本はアメリカに売られたのである。

第1章  「終戦」から占領へ

      戦争が終わったのは日本人にとっては8月15日であったが、国際的には降伏文書に署名した9月2日である。署名したのは重光葵(まもる)という人で、なかなかの人物であったらしい。著者は再々に亘って彼を自主外交路線推進者として持ち上げている。彼が部下の岡崎勝男と共に行った最初の重要な仕事は、占領軍の日本統治の方針転換であった。当初、日本は軍事管理下、つまり公用語は英語とし、米軍は治外法権とし、通貨は軍票とする、というかなり厳しいものであった。これはドイツ、イタリアもそうだった。その方針を伝え聞いた重光は急遽横浜に出かけてマッカーサーに会い、それはポツダム宣言にはないし、日本の統治上も混乱を招く、と説得して、日本政府を間に立てた間接統治とさせたのである。

      占領軍の第一優先事項は戦犯の確定であった。A級戦犯とは、戦争の計画、準備、開戦、遂行の責任者であり、B,C級戦犯とは、戦争法規違反者である。A級戦犯は政治家であるから、当然多くの政治家が潔白を主張して占領軍に取り入った。重光の次の外務大臣は、戦時中は獄中にあり、「敗戦国として潔く米国に従う」という恭順の意を示した吉田茂であった。彼は占領軍にとっても間接統治の間に立つ人物として最適であった。国民に対しては支配者として超然とした態度を取ると共に、裏では占領軍に対する従順な姿勢を示していた。彼を支持していたのは、マッカーサーの情報参謀で、熱烈な反共主義者ウィルビーであった。日本には軍事力を持たせないだけでなく、二度と立ち上がれないように経済力を抑えこみ、他のアジア諸国と同じレベルの生活水準に保つ、というのが占領軍の方針であった。駐留軍の維持費も徴収した。それがあまりにも理不尽であったので、蔵相の石橋湛山は異議を唱えて更迭された。

      憲法を作成した民生局のケーディスはウィルビーとは違って日本の民主化を推進しようとした。日本側は天皇の戦争責任を免除してもらう替りにケーディスの憲法をそのまま翻訳して自国の憲法とした。天皇は政治に関与しない、ということになっているが、裕仁天皇が自ら米国に対して米軍の沖縄占領を長期租借のような形で望んでいる、という極秘書簡が1979年に発見された。自国の軍隊を恐れるあまり、米国の軍隊に守ってもらおうという発想になったのではないだろうか?それとも、米国に命を救われたことへの恩義だろうか?いずれにせよ、マスコミや学会はこれを黙殺した。

      最初の選挙において社会党が勝利を収め、片山哲が内閣総理大臣となった。これを許したのはマッカーサーで、片山がクリスチャンだったからである。ただ、農相が左派すぎたためにGHQから罷免命令が出て、過半数を失って内閣が崩壊し、外務大臣の芦田均が首相となるが、昭和電工事件で責任を取って総辞職後、東京地検特捜部から言いがかりのような罪状で起訴されて政治生命を終えた。この背後には片山、芦田を支持した民生局ケーディスと吉田を支持したウィルビーの対立があった。もともと特捜部は日本軍による隠匿退蔵物資捜索のためにGHQが独自に作った組織であった。米軍の常時駐留に反対していた芦田均を筆頭にして、その後特捜部に言いがかりを付けられて政治生命を絶たれた政治家は、米国に先駆けて中国と国交回復した田中角栄、自衛隊の軍事協力について米国と対立した竹下登、独自の金融政策や中国への接近をした橋本龍太郎、在日米軍は第7艦隊だけでよいとし、中国に接近した小沢一郎、と現在まで続いている。つまり、特捜部は米国に逆らって自主路線を主張する政治家を引き降ろすという役目を担ってきた。

第2章 冷戦の始まり

   岸信介はA級戦犯として巣鴨の刑務所の中で、既に1946年8月にはプラウダを読んで米ソ冷戦を予想し、自分がいずれは活用されるだろうと日記に書いている。アメリカが公的に旧敵国であるドイツと日本をソ連に対する防波堤として活用するために、経済力と軍事力を回復させることを決めたのは1948年である。マッカーサーは日本に再軍備をさせるという本国の方針に抵抗した。しかし、1950年に北朝鮮が攻め入ったことで事態はもはや決定的となった。そもそも米国の対ソ防衛線は日本列島であり、南朝鮮からは撤退を予定していたから、北朝鮮も米国が介入するとは思っていなかった。しかし、実際に南朝鮮が占拠されるや考えを変えた。こういうアメリカの振る舞いに対する誤算はよくある。イラクのフセインがそうだった。朝鮮戦争は日本に特需を齎し、敗戦で戦前の25%程度まで落ち込んでいた日本経済はたちまち復活した。朝鮮半島に投入された米軍と同程度の警察予備隊が出来て解任されたマッカーサーの後任であるリッジウェイは鳩山一郎や石橋湛山や戦犯の岸信介や重光葵を含む25万人の公職追放者を復帰させた。衆議院議員の実に42%が復帰した政治家となった。

第3章 講和条約と日米安保条約

   占領時代、日本は極端な貧困状態に維持され、自由もなかった。信書の開封まで行われた。米軍の支配下にあったから諸外国との外交は必要がなかった。20万人以上が公職追放された一方、新聞、雑誌、書籍などの検閲のために5000名の高度な教育を受けた日本人が雇われていた。彼ら検閲官の多くがその後大学教授や新聞記者になり、米国の諜報機関に利用されている。財閥解体の狙いは、経済界を米国追従者で固めることであった。経済同友会が組織され、その後の日本の経済界の重鎮を育てた。労働運動は初期に奨励され、盛り上がったが、1947年にマッカーサーが2.1ストを禁止して沈静化した。対日援助は1946年〜51年累計で18億ドルあったが、その間に米軍に払った駐留経費は50億ドルに及ぶ。また、米国の援助は日本の重要人物の米国留学にも使われて日米関係強化に寄与している。米国学会が作られて、アメリカの資金の下で親米的な学者を育てた。

   1951年の講和条約と日米安保条約は表向きであって、本当の狙いは日米行政協定にあった。米軍駐留に対する規定は安保条約には書かれていない。国会での抵抗を避けるために批准を必要としない行政協定に具体的な内容が書かれた。安保条約の内容は要するに米国が軍隊を駐留させる権利を定めた上で、日本の安全保障のために使用できることを明記したものである。つまり、安全保障は任意であって、義務とはなっていない。具体的な軍隊の配備とその維持費や治外法権については日米行政協定に従う、ということになっている。この屈辱的な条約には吉田茂がただ一人で署名した。行政協定には日本が米軍の基地の撤去を要求してもアメリカは応じる必要は無いという事が書かれてある。更に、岡崎勝男は巧みに条文を作って90日以内に協議しなければ日本の要求が無視されるという内容を入れようとしたが、宮沢喜一に見破られたので、それだけは岡崎−ラスク交換公文として秘密協定となっている。さらに駐留米軍とその家族には治外法権が認められている。NATOでの米軍駐留並に対等に出来なかったのだろうか?今となっては何とも言えないが、吉田茂は講和を急いでいて、外務省の知らない間に米国に池田隼人と宮沢喜一を派遣して交渉を始めていた。

   吉田茂は講和条約締結後退くべきであったが、居座り続けて現在に至るまでの対米追従路線を定着させた。ただ、1954年には、日本の軍備に抵抗していた吉田茂が総辞職に追い込まれ、軍備復活論の鳩山内閣が成立した。(アメリカはしばしば独裁者を重用してから不要となると切り捨てる。イランのパーレビ国王、アラブの春のエジプトとチュニジア、韓国の朴正煕、南ベトナムのゴ・ジンジェム、イラクのサダム・フセイン。)重光外相はまず、防衛費分担金の削減を交渉して成功した。1955年に12年以内の米軍撤退を提案した。ダレス長官との具体的な交渉の中でダレスが言ったことは、「日本にはまだ対等な同盟関係としての条約を履行する実力が無い。」ということであった。そもそも共同防衛は憲法の制限を受ける。しかし、重光は「どの国の憲法も侵略戦争は認めていない。その点でアメリカも日本も変わりは無い。」と反論したそうである。なお、裕仁天皇は渡米前の重光外相に対して、「駐留米軍の撤退は不可である。」との見解を伝えている。

   鳩山政権は日ソ国交回復を行った。ここで領土問題が浮上した。もともと北方4島の内、国後、択捉はアメリカがソ連参戦の代償として与えたものである。だから、重光外相はそれを諦めて歯舞、色丹の返還を提案し、ソ連側も了解した。しかし、ダレス国務長官はアメリカ自身の約束を反故にしてまで、「国後、択捉の返還無しには、沖縄返還もしない。」という圧力をかけたのである。結果的に、これら4島については確定できず、将来は歯舞、色丹を返還する、という形での共同宣言となった。アメリカの狙いは日ソ間に領土問題を残すことによって引き裂こうという考えであった。(こういうことは歴史上植民地を解放するときによく行われる。インドとパキスタンの間のカシミール紛争、パキスタンの2分割、、)いずれにしても、これによってソ連との交戦状態が終わり、シベリア抑留者が帰国できるようになり、国連の安保理事会で拒否権を持つソ連を日本の国連加盟に反対させないようにできたのである。

   1954年、ビキニ被爆事件が起きて、アメリカが放射性物質の成分を明かさず、調査しただけで治療せず、補償額もわずかであったため、日本に大規模な原水爆実験反対運動が起きた。この対策として柴田秀利という読売新聞記者が提案したのが原子力平和利用であった。もっともこれは1953年のアイゼンハワーの国連演説に基づいている。正力松太郎は一大キャンペーンを繰り広げて世論を変えた。「原水爆は良くないが原発は素晴らしい。」ということである。実際には原発こそ核兵器を作る手段であったのだが。その真意を理解していた中曽根氏を中心にして原子力開発のための法案が整備された。勿論、当時は石油の価格はかなり安くて、エネルギー開発の必要性は無かった。

第4章  保守合同と安保改定

      1955年、自由党と民主党が保守合同して自民党となった。ダレス長官はその前に、岸信介に対して「保守合同すれば資金を提供する。」と言った。石橋湛山が首相となったが病気で直ぐに引退して岸信介に替った。岸は戦犯であったが、巣鴨を退所後アメリカの支援を受け、留学もして、更には首相就任後は年200〜1000万ドルの資金をCIAから得ていた。しかし、岸は安保条約の不平等性を正すべくダラスやアイゼンハワーと交渉を重ねて、改定に合意させた。その第1段が安保改定であり、国際連合の目的に沿った武力行使、日本国施政下における相互的な防衛、という形で決着した。つまり、海外にまで出撃する義務は無い。問題は第2段であって、これが米軍駐留の詳細を取り決めた日米行政協定の改定であるが、残念ながら岸が大衆運動によって退陣してしまったために、遂行できなかった。日中関係についても、政治的には元戦犯の岸を中国が許す筈はなかったが、経済交流を進めようとしていた。

      1960年の安保闘争は安保条約改定の国会批准を阻止しようとした闘争と解釈されているが、実態は異なっていた。闘争を組織した共産党分派ブントの学生活動家達は必ずしも安保改定の内容を把握していなかった。それよりも、元A級戦犯の岸の安定政権を許すと日本が右傾化することを恐れていた。新聞もそうである。彼等の活動資金はカンパだけでは賄えていない。どんな由来の金でも受け取るという方針だったために、財界の反岸派や田中青玄という右翼の金も受け取っていた。財界の後ろにはCIAの人脈が見える。デモが激化し、死者まで出ると、新聞の論調は一変した。「安保批准はやむをえないが岸首相は退陣すべきであり、デモによる暴力行為は許せない。」という7社共同宣言が出されて、デモは収まった。この宣言を起草した人は朝日新聞の笠信太郎である。戦時中にスイスでCIAのアレン・ダレスと協力して終戦工作を行った経験から、CIAとの繋がりが深く、戦後占領中に論説主幹になっている。新聞論調の急変には勿論記者達の左遷が伴っていた。安保闘争は安保条約批准と岸の退陣による日米行政協定改定の中断、というアメリカの意図通りの結末を齎すために利用されたのである。1960年のアメリカの国家安全保障会議録によると、「岸は一般大衆の支持を失っているし、自民党のライバル達(池田勇人)は岸の交替を望んでいる、CIAにとって望ましいのは岸が退陣し、吉田が首相になることだ、財政支援を利用してそうさせる、しかし、吉田は断り代案として池田か佐藤を推した。」といった経緯があって、すんなりと岸は自ら退陣して池田が首相となった。池田は岸の2段階改定案に反対し、「日米行政協定も同時に改定すべきである。」と提案していたが、これは権力抗争の口実であった。実際、首相を引き継いでからは何もしなかった。もともと安保改定は自民党が単独過半数であったから問題ないはずであったが、難儀した理由は自民党内部での権力争いによるものであった。

第5章  自民党と経済成長の時代

      池田内閣は安全保障問題を棚上げにして、経済に全力を注いだ。所得倍増計画である。アメリカは安保問題によって、日本の政治指導者と接触しているだけでは駄目だと気付いて、親日的なライシャワー大使を派遣して、日本の左翼を含む各層の要求と実態を掴もうとした。ライシャワー大使も日本の各層と接触し、日本人の要求を米国に伝えた。沖縄返還についても率先して米国を説得した。むしろ日本側が返還要求に逡巡していた。大使辞任後も彼の説得は続き、ついに佐藤栄作が沖縄返還要求をする気になった。外務省は何もしなかった。他方で、裏からはCIAが左翼や労働運動に介入して、軟化させることに成功した。総評は連合に取って代わった。池田内閣は、他方で歴代の内閣と同様、中国との日中貿易を拡大しようとしたが、ケネディー、ダレスに激しく NO を突きつけられた。

      佐藤首相はアメリカからのベトナム戦争支援要請を断っている。核兵器については、・核保有国の軍縮義務、・非核保有国の安全保障の確約、・原子力の平和利用を妨げない、という政策を打ち出し、安保決議として採択された。沖縄返還については、ベトナム戦争が終結して沖縄のアメリカ軍基地の役割が縮小されたタイミングで提案して実現した。(安保条約が無事自動延長されたのは沖縄返還があったからである。)この際、「沖縄の基地には核兵器を持ち込まない。」という条件を付けた。しかし、この裏には密約があった。交渉はキッシンジャーと若い若泉敬氏との間で行われた。一つは、有事には核兵器を持ち込むということ、もう一つは繊維製品のアメリカへの輸出制限であった。これらは40年の間表に出なかった。前者の密約は有事が生じなかったから問題はなかったが、後者は即時実行すべきものであったから、国内繊維業界との調整が必要だったが、実際は実行されなかった。そもそもそのような項目を密約とすべきではないだろうが、この点が若泉氏の経験不足であった。その後ニクソンの政敵であるミルズに対して日本の繊維業界が自主規制を約束したために、選挙公約を踏みにじられたニクソンが怒ったニクソンの報復の第一段が1971年の中国訪問計画発表である(訪問は翌年)。あえて約束を破って日本に相談しなかったから、国内で外務省と佐藤内閣が信頼を失った。第二段が同年のドルと金の交換停止である(ニクソンショック)。これによって、ドルが360円から308円となり、予定していた関税は不要となった。尖閣列島に対するアメリカの態度も曖昧なものに変わった。1972年に佐藤が辞任して、選挙に勝った田中角栄が引き継いで、繊維問題を損失補填によって一気に解決してしまった。なお、若泉敬はアルコール依存となり1996年に自殺した。

      当時の外務省はアメリカ依存とは一線を画そうとしていた。1969年の「わが国の外交政策大綱」という内部資料によると、「・大規模の機動的海空攻撃と補給力のみを米国に依存し他は原則として自衛すること、・在日米軍は縮小し自衛隊が引き継ぐ、・国連軍には協力する、・軍縮において日本がアメリカの走狗であるとの印象を与える事のないよう配慮する」とある。ニクソンの対中訪問についてもベトナム戦争終結のために行う可能性が検討されていたし、日本に通知なしにベトナム戦争を終結する可能性も検討されていたから、外務省はハノイと連絡をとって訪問する予定であったが、キッシンジャーは北爆を再開するかもしれないから身の安全は保障しない、と脅してきた。

      田中角栄がアメリカによって政治的に葬られた原因については、中曽根は、田中が独自に北海油田やソ連の天然ガスを輸入するとかいった独自外交を行ったからだと言っているが、実態は田中がアメリカの先を越して1972年に中国と国交回復したからである。キッシンジャーがいかに怒り狂っていたかについてはいくつかの公開の場面で知る事が出来る。

      田中は「日本列島改造論」によって地方の開発を進めて、大規模な公共投資を行うと共に、そこから上がる利権により政治資金を得た。また官僚に対しても金と地位をうまく与えることで使いこなした。裏を返せば、岸−佐藤−池田と続いたアメリカからの政治資金から自由となった。このことを批判的に検証したのが、1974年10月の立花隆の文芸春秋の記事「田中角栄研究−その金脈と人脈」である。この記事はマスコミによって特に採りあげられることもなく、政治的影響は無いと思われたが、田中が外国特派員協会で講演した際にアメリカ人記者を中心に採りあげられた。当時は、ほかに重要な問題、・フォード大統領の訪日、・元海軍将校ラロック氏の艦船寄港の際に持ち込んでいるけれとも降ろす事はない、という非核3原則が守られていない事を明示した証言、などがあったにも関わらず、日本語を読めない記者たちが新聞にも報じられていない立花隆の記事について集中的に質問したのである。更に翌日、朝日新聞と読売新聞がこの質問を採り上げて、「・田中金脈追求、・政局に重大な影響」と報じた。記事が発表されて13日後であった。新聞の影響は大きく、経済界も同調して、記事発表の40日後には田中を辞任に追い込んだ。後任にはあえて弱小派閥の三木武夫が選ばれた。三木は戦前南カリフォルニア大学に留学し日米同士会を結成して対米戦争反対を唱え、戦後1948年芦田首相が更迭された後の首相としてマッカーサーが推薦した程の親米派である。1976年アメリカの議会で、不自然な書類の行き違いで見つかったロッキード疑惑が持ち上がると、国際的配慮から非公表とされた賄賂の受取人の情報を三木が要求して、フォード大統領が認めた。コーチャンやクラッター等の関係者に対する嘱託尋問も許され、その際に、本人が日本の法律に違反していても罪に問わない、という約束がなされた。この司法取引というのはアメリカの制度であって、日本では許されていない。

      田中が逮捕されて報復の恐れがなくなったので、三木は退陣させられて本命の福田赳夫が首相となった。ベトナム戦争が終わり、アメリカがアジアでの存在感が薄れた頃合であったので、福田は「全方位外交」を打ち出し、東南アジア諸国を訪問し「福田ドクトリン」を打ち出した。「・日本は軍事大国にならない、・同じアジア人として民族の多様性を尊重し、対等の立場で協力する、・ASEAN諸国との連帯を強化して脅威に備える。」というものである。

      1978年に党内抗争で福田に勝った大平正芳が首相になると、今度は一転して対米追従外交となった。ここでカーター大統領との会談において初めて「日米同盟」という言葉が使われた。1980年には大平は病没して鈴木善幸が首相を引き継いだ。彼は無能の首相とされるが、実際はどうだったのか?東北の悲惨な生活苦を見て育ち社会党から議員となった平和主義者である。アメリカの要求する軍事協力を一貫して拒絶した。軍事費の増強も拒絶した。アジアとの善隣友好関係を強化することが重要であると、考えていた。1981年に訪米しレーガン大統領との共同声明には「日米同盟」という言葉が盛り込まれていたが、外務省は鈴木首相に、これは軍事協力を意味する言葉ではないと説明していたために入った言葉である。事前にASEAN諸国を訪問して、「経済力を付けた日本が軍事大国になるのではないか?」という懸念が存在することを察知していたので、レーガンの要求に対して、平和憲法の制約から日本は軍事協力ができない、ということを主張していた。記者会見で、「日米同盟という言葉が使われているが、軍事的に新たな約束があったのか?」と問われて、「共同声明では軍事的側面に変化は無い。」と答えたのであるが、「日米同盟には軍事的意味はない。」と報じられて「鈴木は安全保障問題を知らない。」というイメージが作られた。

      日米同盟という言葉にはアメリカ側からの意味が籠められていた。それはソ連がオホーツク海に展開した原子力潜水艦に対する警戒であった。オホーツク海から核ミサイル攻撃をされては困るので、その位置を絶えず把握しておく必要があり、日本にその役割を持たせようとしていた。P3Cという対潜水艦哨戒機を日本に購入させるつもりであった。しかし、表向きそれは言えないから、日本への中東からの石油ルートがソ連に攻撃される恐れがある、という理由をつけていた。鈴木首相のままではこの意図が通じないことは明白であった。

      日米関係修復のために次の首相には中曽根康弘が充てられた。(田中−岸による。)レーガン大統領との最初の会談で、レーガンによって「日本をアメリカの不沈空母とする。」と要約されるような約束をした。P3C哨戒機は100機以上購入された。日本の防衛の役に立たないばかりか、ソ連が核戦争を始めるとすればまず最初に日本のP3Cの基地を狙うから、ソ連から攻撃される危険性をも背負うものであった。

      1981年に就任したレーガンは、ハリウッド時代には赤狩りの先鋒としてFBIの密告者T-10として活躍、ソ連を悪の帝国として軍備拡張戦争をしかけてその経済を崩壊させたが、他方でアメリカ自身にも経済的ダメージを与えた。以後アメリカは財政と貿易の双子の赤字を抱え込むが、それを克服しようと定めた標的が日本となった。1981年には日本に対して自動車の輸出制限を要求し186万台に制限させた。1986年には日米半導体協定が結ばれ、92年までに日本の半導体における外国シェアを20%以上にすることになった。更に通商法301条によって、パソコン、電動工具、カラーテレビの関税を100%とした。1985年には先進5ヶ国蔵相・中央銀行総裁会議で「プラザ合意」が成立した。これで円高にすることが決められ、1ドル240円から200円、翌年には155円、と急激に推移した。これはベーカー財務長官が中曽根首相、竹下大蔵大臣と折衝して認めさせた。竹下は貿易への甚大な影響を認知していたが、時期首相となるためにはアメリカの支持が必要であることも熟知していた。レーガンはドルの切り下げという印象を国民に与えることを避けて、アジア通貨に対するドルは安くしなかったから、以後日本はアジア諸国との輸出競争に負け続けることになった。1988年には国際決済銀行が銀行の自己資本比率の規則を決めた(BIS規制)。「総リスク資産に対する自己資本率を8%以上にしなければ国際業務ができない。」ということである。当時の日本の銀行は、倒産が少ないためにそれほど自己資本率を必要としなかったのである。また高騰した土地を担保にした貸付能力にはすざましいものがあって、アメリカにとって脅威であった。自己資本率を増やすには貸し出しを減らすか、株式を発行するしかない。後者は株価の下落を招く。こうして、1990年には世界10位内に7行あった日本の銀行は2009年には三菱UFJだけになってしまった。

      中曽根の次の竹下首相は一転してアメリカへの軍事協力を拒否し続けた。蔵相である宮沢喜一を始めとする議員達がリクルートからの未公開株を受け取ったという報道がなされて、竹下首相の辞任に繋がる。これも検察による作られた犯罪と言われている。

第6章 冷戦終結と米国の変容

    コリン・パウエルは1988年にゴルバチョフから「将来私は冷戦を終わらせるつもりである。あなたは新しい敵を探さなくてはならない。」と言われた。1991年にそれは実現したが、当時アメリカの世論調査によると国民も指導者も60%以上が日本の経済力を死活的脅威と考えていた。ポール・ケネディは「大国の興亡」においてローマ帝国の歴史を引用して、「ソ連が仮想敵国でなくなった以上、国防費を経済に振り向けて日本に対抗すべきである。」と提言している。マクナマラ国防長官も「3,000億ドルの軍事予算の半分は経済に回せる。」と言った。しかし、パウエルは「アメリカのリーダーシップを保つために軍事力は欠かせない。」として、新しい仮想敵国にイラン・イラク・北朝鮮を指名した。日本に対しては経済力相応の軍事的支出と軍隊派遣を要求し続けている。1990年の湾岸戦争(イラクのクウェート侵攻へのアメリカの反撃)に際しては、何の算定根拠もないアメリカの次々の要求に応じて110億ドルの資金協力と周辺国への20億ドルの経済援助を行ったが、人的支援はしなかった。クウェート国内では日本の援助は感謝されているが、アメリカの新聞への感謝報告には日本の国名が無かった。アマコスト駐日大使は財政支援だけでは駄目だということを説いてまわった。結果的に1992年になってPKO法案が採択された。

      1992年にクリントン政権によって新たなCIAの任務として日本に対する「経済スパイ」が与えられた。スパイ行為は戦争と同様主権国家の正当な権利であるが、経済分野に及んだのはこれが最初であった。交渉としてこの頃には多くの経済協議が行われた。いずれも単に貿易の問題ではなく、「日本の社会システムを変えて欲しい。」という要求であった。政治家と官僚は抵抗した。宮沢首相はもともとアメリカ通であったが、エゴイスティックなアメリカの要求には応じなかった。

     1993年の細川政権は「ソ連の脅威がなくなった以上、冷戦的防衛戦略は多角的防衛戦略に移行すべきである。」としたが、アメリカは武村官房長官を左翼だから切捨てよと要求し、細川首相自身も佐川急便からの借入金返済疑惑で追及されて辞任した。細川政権の防衛戦略を作成した西廣整輝と畠山蕃はいずれも1995年に癌で死亡した。

      日本の社会システムをアメリカの為に変えるという要求に官僚は抵抗した。日本国内でのマスコミによる官僚叩きが激しくなったのはそのためと思われる。1998年には大蔵省接待汚職事件が起きた。省庁再編で大蔵省が分割された。実は官僚機構こそ日本に残された唯一のシンクタンクであり、国家戦略を考える組織であったのだが、その後官僚機構もまた対米追従の機関になってしまった。(1989年刊行のカレル・ヴァン・ウォルフレンの「日本/権力構造の謎」も官僚叩きに寄与していると思われる。)

      細川政権の多角的防衛戦略に対抗するために、1995年にはジョセフ・ナイによる「東アジア戦略報告書」が発表された。「アメリカの安全保障は東アジアの発展の為に必要であり、日本はその重要なパートナーである。」というものである。日米同盟は冷戦時よりも更に強化されることになった。橋本龍太郎は協力的であった。しかし、大蔵大臣として天安門事件後最初に中国を訪問した。また首相としては普天間飛行場の返還を要求した。1998年クリントンが女性問題を起こし、共和党に追求されて、弾劾裁判をしない代わりにイラク攻撃をするように圧力をかけられた。イラク攻撃の演説に対して、橋本首相は親書を出して、長野五輪中の武力行使の自粛を求めた。クリントンはこれに怒り、中国を訪問して米中の親密な関係を演出した。

      小渕首相と森首相の頃にはアメリカは日本に対する関心を失っていた。日本の対米輸出は鈍化していて、貿易摩擦もなくなっていたからである。

第7章 9.11とイラク戦争後の世界

      2001年9.11の同時多発テロを契機にアメリカは理不尽な「対テロ戦争」に突入した。日本は殆ど目的を議論することなく、アメリカの命令に従ってイラクに自衛隊を派遣した。日本の言論界は米国との一体論(山内昌之、椎名素夫、山崎正和、北岡伸一等)が全盛で、著者のイラク戦争批判は無視され、その後の中央公論執筆依頼もなくなった。小泉純一郎は 9.11 によって北朝鮮への強硬姿勢を打ち出したブッシュ政権の思惑に反して、北朝鮮を訪問し、「日朝平壌宣言」を発表し、金正日が拉致問題を認める、という成果を引き出した。ブッシュは当然怒りを露わにしたため、その後小泉首相はアメリカ追従路線を鮮明にした。2005年に日本側の外務大臣と防衛大臣、アメリカ側の国務長官と国防長官によって署名された「日米同盟 未来のための変革と再編」には、安保条約における同盟行動範囲である「日本と極東地域」が「世界」に拡張されている。また国連という枠が外されている。実際アメリカは9.11以降、国連の「紛争の平和的解決」「国際法の遵守」「人民の同権および自決の原則」を無視し始めている。「民主化」と「市場原理」に反する国は敵国として日米共同で攻撃する、ということである。

      講和条約締結後 GHQ からの財政支援が打ち切られ、日本は多大な公共投資の財源を必要とした。これが郵便局の貯金や保険を公共投資にまわす財政投融資制度である。日本の経済基盤の確立に大きな役割を果たした。現在ではその使い道が問題になっているが、それでも、お金は国内に留まる。これに目を付けたのがアメリカであり、小泉政権での郵政民営化であった。郵貯が民営化されて普通の銀行になれば、投資先に米国債を選ぶ事ができる。アメリカに貸した金は返ってくるかどうか分からない金である、と下村治氏は言っている。何故ならば、返し始めるとアメリカ経済が破綻するからである。小泉首相は2003年に何かにつけ意見を言う宮沢元首相に議員を退くよう勧告した。

      その後、一年づつ交代で、安倍晋三、福田康夫、麻生太郎、と過去の有名な首相の子孫が首相となった。2010年のウィキーリークスによると、2008年の洞爺湖サミットで、ブッシュ大統領は福田首相に対して、陸上自衛隊による大型輸送ヘリコプターの派遣か軍民一体の地域支援チームの派遣を要請している。その後再度要求されたが、福田は軍事協力だけは拒否している。同年、住宅金融機関2社が経営危機を迎えると、その内のひとつファニーメイ社に融資をするように要請が来た。日本の国費で社債を数兆円で買い支えてドブに捨てるという事が実際行われようとしていたが、福田首相が退陣表明して難を逃れた。

      2009年に成立した民主党政権は、アメリカを激怒させるマニフェストを2つ掲げていた。「・日米地位協定の改定をして在日米軍の見直しをする、・東アジア共同体をめざし、アジア外交を強化する。」である。(アメリカを激怒させるもう一つの虎の尾、「米国債を売る」は勿論なかった。)鳩山首相は普天間基地の最低でも県外移設という公約を果たそうとしたが、アメリカ側の怒りに対して、官僚も外務省も防衛省も支援しなかった。決して無理な要求ではなかった。実際案を提出したのは著者である。

      管首相と野田首相は目の前でアメリカの圧力と官僚の冷酷さを感じてアメリカ追従の姿勢に転じてしまった。TPP はアメリカが太平洋地域の国々の富を吸い上げる仕組みである。低額、高額を区別しないという原則で医療保険が強制されれば、日本の医療保険は維持できなくなるであろう。アメリカの基本的戦略は、自国のサービス業をアジアの国々で展開することである。その為の最大の障害はその国々の社会制度なのである。これをアメリカと同じにして競争を優位にしたいということである。それは結局、その国の人々のサービス業に対する支出がアメリカに流れ込むということである。

      著者のあとがきにあるように、調べてみると、戦後の首相達は結構自主外交を目指していたのである。しかし、いずれも短命であり、長期政権はアメリカ追随外交の首相であった。アメリカは気に入らない首相を辞めさせることは出来るが、その次の首相を誰にするかについてはうまくコントロールできていない。だから、同じ意見を何代も続けることが出来ればアメリカも折れるだろうと思われる。実際カナダはそのようにしてベトナム戦争への協力を拒み続けたのである。問題は首相の周辺、特に同じ党内の派閥や官僚達がそれを支持するかどうか、更に決定的なのはマスコミが支持するかどうか、である。そこをアメリカに押さえ込まれると万事窮すである。官僚にしても、著者の見解では昔からこれほどアメリカ一辺倒ではなかった。現在では政治家のいうことが日本にとって良い事なのかという事よりも、政治家の言う事がアメリカにどう見られているかを分析しているのである。

  
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