2012.10.09

      カレル・ヴァン・ウォルフレン「日本/権力構造の謎」(ハヤカワ文庫)であるが、まず第1章:「ジャパン・プロブレム」では、この本が出版された1989年の日本が、世界市場(というかアメリカ)を席捲し始めて、それが西欧諸国から問題視されていたことを語る。日本企業は国内労働者の生活水準を上げるよりも世界への拡張をしていて、そのことが如何にもアンバランスに見えたのと、そのやり方が、国家と企業の緊密な連携で進められている(日本株式会社論)、ということが、西欧諸国からは不公平な競争という風に見られていた。他方で、日本のやり方を見習うべきだという主張も見られていたが、それは西欧諸国(というかアメリカ)で築かれてきた自由競争の原理に反しているし、文化的社会的な背景が大きく異なるので、(韓国や台湾を除けば)実現不可能でもあった。この文化的社会的背景については旧来多くの人達によって日本の特殊性として語られてきていて、それは安定で安全な社会、礼儀正しい国民性、合意を重んじる政治風土、といった美徳と、個人の主張や独創性がないがしろにされがちである、といった欠点、として認められていた。しかし、文化の問題にしてしまったのでは日本の問題は一向に解決の見通しが立たないことも事実である。その後今日までの状況を見れば、これは日本自身にとっても問題であった。

      およそ人間社会の問題を論じるのには4つの視点があり、それは、文化、社会、経済、政治、である。日本の問題はこの順に重視されてきた。それは政治の状況、つまり権力のあり方が容易には見えなかったからである。日本の国内に居ると、およそ権力というものが生の形で行使されているようには見えない。人々は自ら進んで社会秩序を維持するように行動していて、そのことが疑われていない。しかし、冷静に歴史を眺めてみると、日本という国ほど、権力行使が文化や社会のあり方を規定してきた国は無いのである。ヨーロッパの諸国に比べて日本は地理的に孤立していた、という事情が大きく作用していて、権力者は近隣諸国(というか中国や西洋)からの影響を自分達に都合の良いように制御できたのである。仏教や律令制は中国から都合の良いものだけを取り入れたし、キリスト教や鉄砲の技術などはポルトガルから取り入れながらも、後に権力の維持を脅威に曝すと判断されるや抹殺している。(キリスト教については判るが、鉄砲についてはどの史実を言っているのか判らない。江戸時代でも鉄砲と槍は集団戦術の中心であったが、個人的携行は許されていなかったことを言うのかもしれない。)明治維新以後積極的に導入された西洋の文明が反体制的な思想を含んでいるとみるや、特高による弾圧を徹底し、天皇を家長とする家族国家という思想を対置した。日本における権力行使は巧みであって、文化と社会を巻き込んでいるが故にうまく機能している。権力に対抗する為の普遍的な原理が育たないのである。日本人の美点や欠点は過去の権力者達によって意図的に作られてきたものである。隣国からの情報流入を制御できなかった西洋の国家は権力を生の形で行使せざるをえなかった。西洋の近代史は国家権力を制限する戦いでもあって、法律はそのために発達した。だから庶民は権力に対抗して法律を使うことができる。しかし、日本では法律は統治の手段である(国会は法律を作る場ではなくて承認する場である)から、それに頼ることができない。

      このような見方には異論もあるかもしれないが、その傾向は認めざるを得ないだろう。最後に、著者が日本を権力という観点から見ることのできた所以が、ポーランド生まれの哲学者レゼック・オワロフスキーの言葉を引用して明らかにされている。「個人の自由には人類学上の論拠がある。------自由への欲求、侵すべからざる自由な選択による自己主張への欲求は、決して歴史の偶発的気まぐれではなく、特殊な社会条件の結果でもなく、特定の経済生活の形態や、市場メカニズムによって生じた副産物でもない。」殆どの日本人はここまで言い切ることができないだろう。社会の分析は特定の信念に基づく事なしには不可能である。権力に抗する自由という信念の欠けた日本人には日本の権力構造は解明できなかったということである。

      第2章:「とらえどころのない国家」では、過去に遡りながら日本における国家、つまり国土の究極的な統治権を有する権力の最高裁決者、を捜し求めている。書物に記された最初の国家、倭の国からして、魏志倭人伝には、卑弥呼が女王でありながらも国の統治を弟に任せている、と書いてある。その事情は以後の天皇達でもほぼ同様であった。天皇は儀式に忙しくて国の統治どころではない。藤原家、上皇、法皇、平家一族、幕府政権(征夷大将軍)という風に権威としての天皇と実質的な権力は別であった。唯一の例外は後醍醐天皇による建武の中興であるが。また、征夷大将軍であってもその顧問たる北条家が実権を把握していた時期もある。このような傾向は東南アジア諸国でも一般的である。現在でも西欧諸国との関係を円滑にするために見かけ上民主主義体制がとられているに過ぎない。

      日本ではまず自民党であるが、これは一つの政党とは認めがたい派閥の連合である。党員数すら変動が激しい。一票の格差の維持による農村票、地方自治体や農協や建設会社への補助金の仲介、といった手法による巨大な集票装置に過ぎない。野党はしばしば審議拒否によって嫌がらせはするものの、あたかもギリシア悲劇におけるコーラスのような役割しか果たしていない。自民党は法案を発案することは殆どないから、政権党とも言いがたい。自民党議員と他の日本人との違いは、大きな私的特権と支持者に頼まれた要望を官僚に伝達する能力だけである。アメリカの圧力によっていくつかの日本の開放政策を提案しても、実質的に法案を作るのは官僚であって、そこでは日本の仕組みの変更が最小限となるように調整されてしまう。憲法では行政権は内閣の権限であるが、大臣の影響力は無い。閣議では前日に次官会議で決まったことを儀式的に承認するのが常である。勿論いくつかの例外はあった。1950年代での無制限産業拡大政策を実施するための調整案作りには官僚出身の自民党議員が貢献したし、1960年代には池田隼人が大蔵省の反対を押し切って高度経済成長政策を打ち出した。中曽根は国有鉄道の分割を強行できた。また、教育政策では自民党が文部省の方針決定に介入してきた。それでは、官僚が国家権力なのか、というと確かにそうとも言えるが、誰が実権を握っているのかは掴めない。官僚間の熾烈な対抗意識と省庁間の縄張り争いによって、権力の集中が注意深く避けられている。官僚と共に財界も影響力を及ぼしている。財界は全体として自民党議員の半数は金で動かせる。政治家、官僚、財界の三つ巴による複雑な影響関係が実質的な権力機構である。

      再び歴史に戻って、そもそも日本において国家が必要だったのか、を考えてみる。大和政権は中国に倣って中央集権国家を作ろうとした。全国に一定任期の国司を使わしたのであるが、彼らは地方に留まって権力を自分の子孫に継がせるようになってしまった。中国との国交が途絶えてしまうともはや統一国家は必要もなくなった。織田信長は「天下」を統一しようとして実現しなかった。豊臣秀吉はおそらくもっとも権力者に相応しかったが、敗北した領主にそのまま統治を許し、大名として半自治的な領主を配した封建制度を作ってしまった。徳川家はその体制を引き継いで巧みに制御して300年も維持した。実質的な統一国家は誰も望まなかったのであるが、ペリーの来航によってそういうわけにもいかなくなって、結局海外との交易により産業革命を起こしていた南方の外様大名達が権力を奪ったのである。明治政府は強力な統一国家を作ろうとした。日露戦争の勝利はその成果でもあった。しかし、初代の指導者達が去った後には、内務省、陸軍、海軍、外務省、大蔵省、枢密院が、それぞれの組織の存続のみを追及したために、統制が取れなくなっていった。1920年頃までは明治維新の生き残りが「元老」として調整役を果たしていたが、元老が死に絶えると彼らはそれぞれが「天皇の役人」として勝手に動き始め、1931年に陸軍の狂信的な将校達が満州で事件を起こし、満州を占拠してしまった。続いて、自国の10倍もの国力のあるアメリカに対して勝ち目が無いと知っていた海軍は陸軍に対抗する意識からそれを公的には表明できず、遂に自ら真珠湾に奇襲攻撃をしかけた。これら一連の動きに内閣はうろたえるばかりで、追認するしかなかった。西洋のファシズムの国家とは対照的に、日本は強力な指導者が不在であるために無謀な戦争を始めたのである。そして敗戦後連合国軍駐留の中で処理にあたった吉田茂の発見した「生き残り策」が、国防と外交をアメリカに肩代わりさせて経済復興に集中するという戦略であった。もはや経済復興は終わっているにも関わらず、今日までこれが続いている。

      また現在に戻って、官僚−自民党−産業界というお互いに影響を与えあう三極構造に加えて、有力な半自治組織として、報道機関、農協、暴力団、警察、検察があり、これらも小さいながら、お互いに支えあっている。こういった責任の所在が明確でない状態を国家というわけには行かないので、著者は<システム>という言い方を今後使うことになる。官僚の産業界に与える影響は絶大であり、許認可権、助成金、税法上の特典、低利融資、という手段を持ち、行政指導という方法で企業を自発的に役所に従わせる。官僚は多くの公益法人を持ち、退職後の再就職先としている。それには郵貯という自由主義圏最大の金融機関の原資が議会のコントロールを受けることなく使われている。毎年300人程度の官僚が監督下の企業に取り次ぎ役として天下りをしている。こうして、<システム>の上層部には官僚と官僚出身の民間企業幹部、官僚出身の政治家、官僚出身あるいは官僚化した財界指導者が緊密な付き合いの中で渾然一体となって日本社会を「管理」している。そこでは、官僚、政治家、企業家といった伝統的な区別ができないから、「管理者」と呼ぶことにする。多くは東大法学部出身者である。<システム>内部のバランスを崩すことはあの忌まわしい戦争突入の記憶を蘇らせることになるから、当事者達はお互いに牽制しあっている。

      産業のヒエラルキーのトップには、複合企業体、つまり、三井、三菱、住友、芙蓉、三和、第一勧業銀行、がある。これらグループ内では株式の持ち合いがなされていて買収を防ぐと共に、社長会が開かれて、そこでは相互規制しあうことにより現行秩序の維持を行っている。占領軍による財閥解体は財閥の整理と合理化にしかならず、とりわけかっての持ち株会社に銀行がとってかわったことが資金網を整備させて奇跡の経済復興に寄与したのである。システムの最下部には一日10時間以上働かなくては生活できない中小企業があり、彼らは景気調整の犠牲となり、絶えず倒産と創業を繰り返している。企業家と言える人物はそこからしか出現しない。<システム>の外から見ると、何しろ交渉相手が見つからないのであるから、どうしようもない。それでは、<システム>はどこを目指しているのか?このような<システム>が自立的に方向を変えることが出来ない(つまり吉田民人流に言うと主体性が無い)以上、依然として「際限なく何処までも経済成長させる」というのが唯一の方向なのである。

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