2003.01.02

     市川浩の「精神としての身体」(講談社学術文庫)を読んだ。川人等の「知性の計算神経科学」と整合するところが多い。哲学でいうとベルグソンの立場に近い。解剖学の三木成夫、心理学でいうとJ.J.Gibsonの環境心理学、ということになる。身体の一部としての神経系の生み出す環境適応性を動物、更にはヒトの中心的概念と考える。身体といい、精神といい、心といい、社会といい、環境といい、更には宇宙といい、全てが身体複合体の一側面であるという考え。市川浩の捉え方もまた一つの有り様である。これは現象学的に捉えると、「主体としての身体」、「客体としての身体」、「私にとっての私の対他身体」、「他者の身体」と屈折した現象(意識)がある。

    市川浩の身体論の注目すべきところは、(Paul Valery の考えから触発されて)更に「錯綜体としての身体」を考えたところである。これは意識を超えていて、「知性の計算神経科学」でいうところの予測器−制御器−責任信号生成器の一組に相当する。すなわち実際に起動するかどうかは別にして、神経回路として存在するものである。意識の範囲を超えているから、それを議論するには、神経回路の構造に立ち入らねばならない。そこで更に市川浩は「向性的構造」と「志向的構造」というヒエラルキーを考える。これはちょうど「知性の計算神経科学」では階層構造に相当する。すなわち「向性的構造」は下の階層、「志向的構造」は上の階層に相当し、それらは実際には相対的なものである。生体において、上位の行動は、下位の行動を、抑止された行動の下描きとして内面化し、その体験に支えられて、新しい高次の行動形態を実現する。単に感覚を受け取る細胞から運動する細胞への直接的な刺激の伝達ではなく、神経細胞を介することによって、いろいろな感覚刺激が「計算」された後に運動する細胞に伝わる、ということであり、その経路が複雑化するということでこのような階層構造が生まれて来る。

      具体的にその階層構造を素描してみるために、Tran-Duc-Thao の考えが引用されている。1. attraction et repulsion, 2. contraction, 3. deplacement reflexe, 4. locomotion, 5. apprehension, 6. detour et manipulation, 7. intermediaire, 8. instrument, 9. outil, 10. langage というのがその行動階層である。2. の段階で 1. の行動は抑止され、乗り越えられる(制御される)から、それは内面化され、 impression となり、3.の段階で 2. の行動は内面化されて、 sensation となる。こうして、高次の段階を獲得する度に、 3. champ sensoriel, 4. objet fantome, 5. objet reel, 6. rapport reel, 7. image, 8. representation, 9. concept となる。こうしてアメーバのレベルから始まって、ヒトに至るまでの行動と神経系と内面の発展が解説されることになる。それは同時に動物の進化論でもあり、三木成夫の構想を補完するものといえるであろう。

      さて、最終的にヒトは生産力を無限に増大させ、自然をコントロールする力を無限に拡大することができると信じるようになった。歴史的にはこの考えは何度もその限界を指摘されてきたが、未だに乗り越えられていない。11 番目の行動段階はどういうものであろうか?「脱自然的な人間の文化を、より拡張され、より深化された意味での<自然>のうちにもう一度位置づけ直し、自己抑制を取り戻す為にも、自然についての一つの形而上学と形而上学的真理を実感化する形而上学的感覚ともいうべきもの、つまり想像的なものの感覚化を必要とする。こうして人間の文化相互にも、文化と自然の間にも、さらに根本的には、人間を含めた全ての存在者の間にも、相互依存の関係を認め、存在者の有限性と相対性、つまり依他性を根源的な真理として受け入れる思想。」といういささか回りくどい表現にならざるを得ない。

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