2003.01.03

八木雄二「古代哲学への招待」(平凡社新書)

まずは勉強と言うことで、纏めてみた。現代の感覚からはかなり遠い世界なので、、。

ソフィスト:弁論術。政治の方便。

ピタゴラス:思惑を厭い真理を求める。幾何学、天文学::対象知。
            驚きの経験(自然の秩序の発見)による永続的な知識探求。

ソクラテス:自己知、徳、善、美とは何か?人はそれを知らない。無知の自覚。
            重要な事は現実の場面で徳のある行動を取ることであるが、
            徳、善、美が対話によって永続的に議論されなくてはならない。
            それは人格を賭けた対話となる。(宗教はそれを避ける)
            徳は共有されるべきであり、そのためには対話が必要である。
            「節制」:魂自体よりも魂に付属するだけのもの(欲望)を先立たせるべきでない。
                      その心がけが結果として節制となる。

プラトン:  「節制」:快楽を求める欲求を善に振り向ける事。
                      欲望の存在を認めそれといかに折り合うか?
           イデア:ヒトが知り得ないもの、徳、真理、魂の故郷。学問の目指す処。
                   人を感動させるもの、美。恋慕すべき天外のもの。
           「驚き」も「無知の自覚」も哲学の出発点であり、それは真理に到達する事で終る。
           「アカデミア」:ピタゴラスとソクラテスの統合;知の組織的継承
                   善は太陽の光に喩えられる。知性が確実に知る為には善が必要である。
                   対話による知の吟味によって真理が見出され、存在が確証される。
                   知識の4段階:「見えるだけ、思いなし」
                                 「直接経験による私的知識」
                                 「直接感覚では捉えられない対象を抽象していく」
                                 「イデア」→「幾何学的宇宙観」究極の善
                   知の吟味:議論の中で行われる。(魂の浄化)
                             思い込みを取り除き、本当に知っている事のみを残す事。

アリストテレス:知の吟味を継承することなく、学説の吟味を行って万学の租となった。
                幾何学の対象と異なり、自然宇宙の存在は人の知らない内側を持っている。
                そこにイデアを想定して自然を組み立てることは無謀である。
                個物は生成流転するものであるから、知識の根拠とはならないが、
                個物についての記述は知識となる。つまり文法によって客観性を基礎付けた。
                諸科学を統合し吟味する学「形而上学」は知識論や真理論ではなく、
                個物の存在を論ずる存在論となる。知識は存在する個物の内に根拠を持つ。
                プラトンは「述語」をイデアとして学問の目的としたが、
                アリストテレスは「主語」を実体として学問の目的とした。
               (但し、実体とされたものは霊魂を持つものであり、それ以外は付帯性とされた)
                述語の分類(範疇)
                    実体、性質、関係、能動、受動、位置、時間、所有、状態。
                四原因
                    形相(霊魂、イデア、付帯的形相)、質料、
                    起動因、目的因(生物では内部にあり、形相であるが、非生物では外部)
                数学を範とした哲学であるがゆえの限界はあるが、学問の在り方を決定付けた。

エピクロス:心の平穏を得るための方便
            イデアの様なものは恐れを与えるだけである。
            自然現象はそれなりに説明すれば良い(原子論)。
            思慮深さこそ最も重要であり、それによって憶測による恐怖を逃れ平穏に生きられる。
            道徳は抑制によるのではなく、理性の認識によって保たれる。
            善美の基準は人の自然な本性が示す処である(快楽主義)。
            戦わない哲学、生を肯定する哲学。
            背景:都市国家制度がなくなり、個人的日常生活が重要となった。

ストア:    現象主義的一元論。哲学は数学や医学を埒外とする。
            論理学(命題論理)
           (アリストテレスのは名辞論理:語の概念を単位として
                                         それが持つ含まれる関係を基礎とする
                                         事実に基づく)
                命題を単位として命題と命題の関係を通して推論する。
                現象は命題の形式で表現されるからである。
                命題には仮説などの人為的なものも含まれる。
            自然学
                全ては変化する。静止的に確定できる真理は存在しない。
                ヘラクレイトスの考えに近いものがある。
                永劫回帰を決めるものは内的な必然、アリストテレスでは偶然、である。
                  自由を偶然の所与と考えるのはギリシャ的であり、
                  必然の所与と考えるのはセム語族の思想である。
                現象の認識は感覚に現れる圧倒的な真実性によって確認される。
            倫理学
                神のロゴスを内面に見出すこと、「意志」が力であり、世界を動かす。
                単に見出すに終ることなく、実践すること。
                結婚し、家族を養い、働く事。友情は手段ではなく目的である。
            宇宙の力を秘めた自分を信ずるなかで、その力を見出す苦難を己の身一つに背負う。
            社会の中でひとり真理を求める。信念の哲学。
            現実世界はロゴスを見失った人々で満ち溢れていた。

      ストア哲学というのは現代での良識に近い。いろいろな宗教や科学とも共存する考え方である。それにしても、考え方そのものが時代によって随分変わるものである。この中で西欧独特の要素と言えばやはりプラトンの公理論的な自然観である。出来るだけ少ない基本要素の論理的な組み上げで自然を構成する。自然科学も音楽も舞踊も別に西欧だけに発達したものではないが、「西欧自然科学」「西欧音楽」「クラシックバレー」を一番特徴付けるものはその数学的秩序の追求である。数学的秩序そのものは現実ではないが、その体系化作用によって知識の共有化(客観性、検証可能性)が高まり、世界を席巻したのである。都市国家は全ての市民が政治家であるが故に、言葉に惑わされ扇動され、真実を見失うということが起き易い。そのような現実から普遍的な真理の弁別基準として哲学が誕生した。一つは絶えざる議論と対話によって、決して結論には到達しないにしても真理に対する謙虚さを求める方法、もう一つは天体運動の秩序に倣って数学的公理論で現実を切り取る方法。「天空」にあるこの数学的秩序の信念はそこからはみ出さざるをえない現実や「私」を残し、それをどう考えるかでいろいろな思想が生まれて来る。偶然と見るか、必然(意志)と見るか、現在と見るか、過去と見るか、合理性と見るか非合理性と見るか、善と見るか、悪と見るか。

プロティノス(新プラトン派)
    中期以降のプラトンを独自に解釈し直した。プラトンにおいてはイデアの世界は現実の事物そのものとは無関係であったが、プロティノスにおいては存在間に生む−生まれるの関係を認める。最高の存在は唯一者であり、そこから知性が生まれ、そこにもろもろのイデアが存在する。プラトンと異なる処はイデアを知性の内部に置いたところである。知性から霊魂が生まれる。人も含む生命体である。霊魂は知性から生まれながら身体を持つという点において、不完全性を持つ。物質的素材は知性を持たず、付帯的な意味でしかイデアを持たない。真実の形相を持たず、悪の根拠である。霊魂はこの物質的素材に向かう傾向を持つが、哲学によってその方向を善の方向唯一者の方向に向かうことが出来る。人間霊魂が形相と質料の、あるいは精神と物体の中間的存在である、という観念が生まれる。プラトンにおいては霊魂は形相や質料の存在からは独立して、それらの間を行き来する特殊な存在である。アリストテレスにおいては霊魂は実体であるが、形相や質料という概念との関係が与えられていない。ストアにおいては人間はそれ自身充足した宇宙である。プロティノスにおいて、始めて人間が唯一者と物質の間に位置する「中間者」であるという観念が出来上がった。すなわちキリスト教を受け入れる下地となった。唯一者の「自由」については2種類あって、対象が意志の自由になる事(主意主義)と自分の行いを知りつつ行う事(主知主義)。

アウグスティヌス
    信仰の問題を哲学として完成させた。プロティノスの哲学の唯一者を神に置き換えた。単に神に置き換えるだけでなく、行為が善で有るかどうかを知ることは神にしかできず、それは聖書を読むことである、という信仰に基づく考えを展開した。人間には主意主義の意味での自由はあるが、主知主義の意味での自由は無い、ということである。したがって、以後、善の問題は哲学の主題とならない。悪は人間が本来的に向いている筈の神の方向から物質の方向に目をそらす事それ自体である。善美の追求は人間の努力の対象ではなく、信仰の問題である。

●最後に私のまとめと感想である。

      言葉で考えるという事の歴史的発展過程は現在の時点で理解することが非常に困難である。どうしても現在の考え方から見れば大変不自由な、限定された考え方にしか見えないからである。整理すると以下のようになる。

######プラトンは現実界とは独立にイデアを想定する。それは天体の運動に象徴されるように閉じた世界である。世界をそれが本来あるべきであった故郷や本来的には従うべき原理として捉える。述語に限定された論理となる。但し現実の世界はそれとは異なるのである。

アリストテレスは現実の世界に対してそのような本来的な原理を想定しない。現実の物自身の性質を述べる。但し考慮に値するものは魂を持った物だけである。物はそれぞれ性質を所有している、という形で述べられる。論理はいろいろな主語の性質の包含関係である。したがって真実を表現する命題のみが扱われる事になる。

ストアは論理を現実の物から独立させる。主語の性質を述べた命題は命題として真実であるかどうかは別にして扱われる。仮説という方法が可能となる。論理学はここで完成する。

新プラトン派は霊魂(人)を唯一者と無生物の中間として位置づけた。以後西洋の世界観となる。

アウグスティヌスは人の行為の善し悪しを決める権利を神に預けてしまった。以後西洋の世界観は物質界を公理論的に構成する方向と信仰とに分離してしまった。

######しかし本当に当時の人々はこのように考えていたのだろうか?哲学として残されたものがそうなのであって、それは必ずしもその当時の日常的な人々の思考様式ではないのではないか?圧倒的な現実生活の中にあって、むしろ意識的にそのような限定された考え方を選び取ったということではないか?一種貴族的な選択をした、という風に見える。現実にはいろいろな発明もなされていて、職人達は物に即して考えていたのである。それは中世の間もそうであった。百科事典になるまでそれらの物に即した考え方は知識人には伝わらなかっただけなのではないか?

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