2012.03.26

    広島工業大学の図書館で借りてきたもう一つの本はヤーデンフォシュの「ヒトはいかにして知恵者となったのか」(研究社)である。おそらく翻訳タイトルの由来と思われるディーコンの「ヒトはいかにして人となったのか」を始めとして、僕が読んできたのと同じような人類知性の進化論の著作をベースにして纏め上げたものである。だから著者のオリジナルな研究というものではないが、一冊の中に説得性を以って一貫した進化論的解釈を語っているので、頭の整理になる。ヒトの人たる所以を語るにはどうしても「内面世界」なるものを語らざるを得ない、というのが僕としてはジレンマである。それは基本的に主観的なものだから、客観的科学の立場から言うとひっかかるのである。 森山徹「ダンゴムシに心はあるのか」のような立場を採れば良いのだろうが、そうすると人の心を解明するにはどうしても迂遠となる。つまり、それだけ僕たちは自分の心が細かく見えていて、そこに何らかの意味を見出したいのである。だから、僕としても態度を変更して、とりあえずは読まざるを得ない。

    意識の発展史として、玉葱の皮のように、内側から、感覚→注意→感情→記憶(手続き記憶→意味記憶→エピソード記憶)→思考と想像→計画→自己意識→自由意志→言語、と辿る。この進化史は勿論環境への適応という観点から語られる。大きな分類として、それぞれ研究者の名前を採って、<< ダーウィン的生物:前もってプログラムされている行為(向性)の連鎖>>→<< スキナー的生物:経験による学習:馴化、条件付け、試行錯誤>>→<< ホッパー型生物:現実の行動で試行錯誤する替わりに内面世界の表象を使って試行錯誤する >>→<< グレゴリー的生物: 他者が獲得した内面世界をコピーする(模倣)生物:より効率的な学習が可能>>、ということになる。ホッパー型生物において、大脳皮質(鳥類においては高線条体)が必要となる。複数の感覚情報を統合することで、世界像が得られる。遊びによって試行錯誤学習するし、夢も見るようになる。グレゴリー型生物(ヒトと一部の類人猿)は、意識のレベルとしては自己意識という段階である。知覚と想像という同じ対象の異なる表象の比較で可能となるごっこ遊び、演技、更に他者の心を知る能力へと至るが、それへの淘汰圧は高度な共同作業によってしか生存していけなかった、という事である。

    こういう概念構成を理解する上でのキーワードは「表象」である。「感覚」はあらゆる動物が必要としており、内部の情報であるから「意識」のもっとも原初的なものであるが、「知覚」というのは既に解釈された感覚的印象であり、世界という空間的な枠組みの中に位置づけられた情報である。そこでは直接に感覚されていない部分は補われる。何よりも個体にとって有用な「世界像」を得る窓口なのである。感覚を欠けば知覚は「幻想」となるが、直接は見えていない獲物を表象として持つことの重要性はいうまでもないだろう。知覚が世界像であることの簡単な実験は、カメラのファインダー越しに部屋を眺めることである。そうすると誰かがカメラの向きを変えれば部屋は回転して見える。これは非日常的な見方において、動かない筈の部屋という世界像が壊れるからである。(慣れれば回復するが。)レンズで像を反転させる眼鏡(さかさ眼鏡)をかけて見ればより明瞭に判るだろう。我々は普通に部屋を眺めている時、目の動きは自分の動きとして感覚的な部屋の見えの動きを補正していて、部屋が動いているとは感じないのである。感じれば眩暈が起きて気分が悪くなるであろう。動かない部屋というのは、その方が我々の生存に有利だから、環境との相互作用によって獲得したプログラムの演算結果なのである。

    さて、こういった知覚を伴う「表象」は、更に、直接の知覚を伴わないがそれを頭の中に再現する表象へと発展し、そもそも知覚されない(ありえない物や起こった事ががない事)の表象まで可能となる。これらは知覚から分離されているので、著者は「分離型表象」と呼んでいて、これが「内面世界」の主たる構成要素なのである。動物が内面世界を持つことの優位性は、「試行錯誤」が実際の行動ではなく、内面世界でのシミュレーションで代行できることである。これが「ホッパー型生物」ということになる。哺乳類や鳥類で可能なレベルということになる。表象というものは科学的に捉えがたいので、表象をベースに議論を展開されると次第に胡散臭く見えてしまうのであるが、そもそも「表象」というものは「情報」としての側面でしか語りえない。表象として語られる情報の担体は物質的には個別に特定できないから、それ以上分析的な手段で実証できないのである。このレベルにおいて既に、構成要素に分解して理解する古典科学の限界にあり、創発的な現象として「解釈」する、ということ(哲学や心理学)しか出来ないのである。そこでは生理現象の替わりに言語を代表とする種々の象徴が主役を務める。

    グレゴリー型生物においては、模倣が可能となるが、それは、見習い学習(他者が成した結果を見て見習って同じ結果を得ようとする)、あるいは、他者の動作を真似ようとする物まね、とは区別される。模倣においては、「他者の意図を理解」していて、一連の複雑な行為を組み合わせ(プログラム)として獲得する。計画も可能となるが、それは単なる計画(分離した表象をシミュレーションによって順序付ける)ことだけでなく、予期計画(将来における自分の欲求を目的として現在の欲求を抑制する能力)である。道具作りも目的を持った訓練を必要とするから、将来の姿を想像する必要がある。チンパンジーの使う道具はその場限りのものである。石を使うが石を加工することはない。これらの能力は人たる所以に重要であったことは言うまでもないが、グレゴリー型生物のこのような能力は現在の欲望と将来の欲望との葛藤、という特異的な問題を引き起こしている事も指摘されている。

    「他者理解」ということが、次のキーワードである。段階を追うと、 1.内面世界を持つ→2.同情(共感のレベルまでは行かない)→3.注意しているものを理解する、二次注意、動物の欺き行動、更に進むと、共同注意、他者が世界をどう見ているかを理解する(心の理論)→4.他者の行動の背後にある目的(意図)を理解する(因果推論:自分の行動の結果を予測する→他者の行動の結果を予測する→他者の行動の原因を理解する→物理的な出来事の原因を理解する→5.他者の心の理論:他者が信じ、欲するものの理解→6.自己意識:自分自身の内面世界の表象、自分が信じ、欲するものについて考える、ということになる。要するに、これらは「因果推論」という環境への適応態度の枠組みの中に組み込まれた「意図性」のモデル、ということである。そういう意味で、本質的には「内面世界」を持つことによってのみ可能となった進化である。もう一つの側面は、多くの仲間との共同作業という淘汰圧の賜物ということでもある。ただし、最後の「自己意識」は派生的なものであり、現在と将来の葛藤によって強化されたものと思われる。自己意識における自己は幻想でもある。内面世界の知覚、仮想現実。それは脳の多くの機能が複合されて生じる意図を他者として人格化したものである。入力が出力でもある自己省察的循環であるから、「入れ子構造」のようなものではない。

    自己意識のレベルにおいて、以下のような付随的な区別が生じる。「我」というのは、意識の仮想調整機能であり、意識の諸機能による創発的な現象である。記憶によって「我」の連続性が感じられる。視野の盲点と類似していて、死角があり、それは補われている。「死」と埋葬と宗教は、意識を持っていることに気付き、意識がある時点で終わることを知っているということから生まれる。自由意志については、最良の結果を生むように計画を立てるだけでは自由意志とは言えない。自己の意思について省察し、その願いが他者と違っていることを望むことこそが自由意志である。道徳は、将来を予測できるために、行動の選択肢が膨大になり、不安を齎す、その解決手段である。社会生活を営む動物は集団の規則に従っているが、規則は分離型表象とはなっていないから、道徳ではない。分離型表象として、それを意識的に選択することが条件である。他者の状況に身を置く事が出来るから、なすべきことを言語化することが出来る。長期的な利益(信用)のために短期的な欲求を抑制する。道徳ではないが、進化的な適応産物としては、恥という感情がある。

    ここまでの議論には「言語」は登場しない。コミュニケーション(お互いの注意に注意を向けること、他者の注意を操ること。視線への注意、指し示すこと、必ずしも「心の理論」を必要としない)は当然必要であるし、それは、指し示すことが基本であった。その発展順序は、1.欲しいものに手を差し伸ばすが、視線を他者には向けない段階から、2.他者の視線を見る段階になることで、意図的なコミュニケーションとなる(行為指示的コミュニケーション)、3.指し示しの意図を理解する段階(他者の意図を理解する、自閉症では困難)単に注意を向けさせるだけのために指し示すことが出来る(宣言的指し示し)、であり、この延長として、4.宣言的指し示しに音声が伴うと、音声が指し示しの代替手段となり、言語発生に繋がると考えられる。言語能力の獲得によって、脳の言語野が発達し、喉頭部の下降(誤飲の危険)、これらのための脳の増大、膨大なエネルギー消費、脳と消化器を同時に活性化することができなくなる、などの犠牲を払う進化上の淘汰圧は何か?単なるコミュニケーションに言語は必要ではない。ここで、ゴシップ理論が登場する。チンパンジーは仲間であることを確認しあう必要性から、グルーミングを行う。エンドルフィンが分泌されるのだそうであるが、ヒトが2足歩行で集団生活を行う段階ではかなりの大集団となり、グルーミングの効率が悪く、その替わりに発語を使った、というのである。つまり、内面世界のグルーミングということになる。ゴシップや方言は仲間かどうかの試金石ともなる。その最初は、母親語であったと考えられる。これは感情を伝える言語であり、上昇基調(促す)、下降基調(褒める)、 短く切る(警告、禁止)、波打つ調子(慰める)、といった特徴は何処の民族でも共通している。やがて分離型表象の表現として、2語文が使われる。これは、訓練された類人猿、2歳未満の子供、幼い頃に言語を奪われた大人、ピジン語に共通している。それ以上の複雑な文法構造は必要に応じて後から発達した。文法規則のように見えるのは、人間のコミュニケーションの基本的な認知条件の結果として現れたアーチ、自己組織化構造にすぎないのであって、文法が生得的に埋め込まれている(生成文法)のではない。後から生まれた「語り」や「神話」は因果関係や道徳規範を集団で記憶するための適応である。現在の言語野は手の動き(継起的な動作構築)と同じ(大多数で)左脳にあり、元来の母親語から受け継いだイントネーションによる感情表現は右脳支配である。文法構造は更に、前頭葉で解析され、意味構造は頭頂葉で脳全体の記憶と照合される。もっとも文法構造も意味構造も意識される事はなく、意識に上るようになったのは文字の発明以降である。

    最後に、「内面世界の外面化」によって、「文明」が発達する。ここから先は遺伝情報の進化ではない。この<<ドナルド的生物>>(文明人)においては表象を人間の心から分離するのである。少し遡って進化を辿れば、ヒトは学習能力の賜物として食事の柔軟性を獲得して地球上に広がり、言語によって文化を世代を超えて伝達することで生活を向上させ、最後に文字を発明することで知識を外部世界に蓄積できるようになり、個人の頭を超えた能力を獲得したのである。これは必ずしも文字でなくてもよかった。例えば、ボルネオ島のペナン族はジャングルの風景を象徴的に使って、そこに神話を埋め込んでいる。その場所を訪れることで因果関係や教訓が再現されるのである。しかし、今日では文字がもっとも強力な情報担体なのである。考古学や歴史学から、彫刻→絵画→楔形文字→象形文字→音声的表象としての文字、という風に発展してきたことが判る。
    文字の思考への影響という観点から文明人<<ドナルド的生物>>を語ることができる。文字によって、音声学的構造と文法構造に気付き、新しい方法で言葉を聴けるようになる。事物について考える事からその事物の表象について考える事への転換が起きる、つまり、思考がコンテクストから分離される。文字が記憶の補助から記憶の代用へと変化し、書かれたものが自立的な意味を持つようになる。こうして印刷された本との関連において初めて書き言葉が「語りの形式」を発達させる。因果関係の把握、特に時間の長いもの、暦やストーンヘンジによる天文学的観察、などはこうした外部記憶なしには考えられない。

    西洋史では、古代ギリシャにおいて、アルファベットに子音と母音の区別が出来、数学と幾何学の体系、抽象思考、神話的思考と論理的思考の区別、宗教と科学の区別がなされた。知識の理論:議論、論理、証明について話せるようになり、討論というやり方が創設される。神話では「宣言的提示」で終わる(「原発は安全である」という良い例がある)が、討論では主張と反論が提示される。つまり、知識判断に「あなた」との「対話」が持ち込まれる。その最初の成果が中世のトマス・アクイナス「神学大全」である。ルネッサンス期には対象が宗教から自然へと向う。ここでは「あなた」は自然となり、反論は実験的検証に置き換わる。神学においては、テクストにおける字義的な意味と隠れた意味と区別するが、科学においては、事実と隠れた原因を区別する。この時期、言葉だけでなく、地図と図表の役割が大きかった。つまり、世界が対峙するものとして意識される。ガリレオの幾何学的道具、デカルトの座標系はその成果である。思考そのものが人間から独立し、理論モデルが内面から外部へと移される(コンピュータ)段階が現代である。

    こうして、この本に沿ってヒトの「知恵」の発達史を辿ってみると、葛藤が2つあることに気付く。第1に、将来の目的の為に現在の欲望を抑圧する、という社会から強制された個体内部の葛藤であり、第2に、欲望の対象が世界の隅々にまで分岐していったために、もはや自分の頭でも考えられず、他人との討論でも追いつかず、コンピューターや専門家や官僚機構に「思考」を譲り渡してしまわねばならない、という葛藤である。われわれの社会は、前者の葛藤をやり過ごす方法としてそれぞれ固有の民族文化を育んできたのであるが、後者の葛藤に対しては有効な対策を持ち合わせていない。一言で言えばそれは「政治」であるが、絶えざる「討論」無しには、政治は「宣言的提示:神話」と化してしまう。

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