2013.10.30

      江守正多という気象学者の「異常気象と人類の選択」(角川SSC新書)を読んだ。大分前にフタバ図書で見つけたものである。国立環境研でIPCCにも関わっている若い研究者である。当然人為活動の二酸化炭素による地球温暖化論の支持者である。一時期この論理の正当性に疑問符が付いたが、その後IPCCの内部調査や運営方法の透明化によってほぼ払拭されているということである。まず、産業革命以来温暖化が進行している、ということ自体については近年その傾向が緩やかになっているので、あと数年も続けば疑問符が付くのであるが、今のところ一時的な揺らぎとして充分説明可能である。(現在は海水の温暖化の方が進行している。)いくつか僕自身が疑問としていた点であるが、経年でグラフを見ると二酸化炭素の変化が地表の平均気温の変化よりも遅れて追随しているので、因果関係が逆ではないか?という疑問に対しては、確かに短期的にはそう見えるし、実際そういう因果関係もあるが、これは海洋温度の経年変化(エルニーニョやラニーニョ現象)によるものであって、長期的に見た時には二酸化炭素の増加による、ということである。つまり、両方の因果関係があるのであるが、その時間スケールが異なる。二酸化炭素→温暖化という因果は即時であるが、温度変化→二酸化炭素という因果は年月という時間だけ遅れてくる。シミュレーションでもそれは再現されている。もう一つ、縄文海進の頃にも温暖化があるのでこの程度は自然に起きるという反論であるが、確かに地球規模で温度は1℃位高かったが、それだけで6mもの海面上昇は説明できない。むしろ、その後の日本近辺で起きた局所的な変化として、氷床が融けて陸地が隆起し、海水が増えて海面が低下したという重力由来の現象が起きた為に、当時の海面が現在と比較して異常に高いのであって、それを地球規模の温度変化が原因とするのは間違いである。水蒸気の寄与についても、確かに温室効果には大きな影響を与えるが、水蒸気自身は人為的な排出ではなくて地球内部で平衡論に従って増減するものであるから、計算には考慮するが、原因とはならない。つまり、地球自然圏の外部(人為的なもの、太陽活動、火山活動)の何が原因なのか、そしてそれは長期的にみた場合どの程度影響なのか、を評価すると人類活動による二酸化炭素が最大の原因となる、というのがIPCCの報告である。人為的なものの中には直接的な廃熱(原発も大きい)があるが、これは寄与が小さい、という。これらに対して以前読んだ広瀬隆の本「二酸化炭素温暖化説の崩壊」 では勿論反論が書かれてあって、素人から見るといずれを正しいとみるかに迷うが、現象自身が相当複雑に絡まった因果関係と考えられるから、ひとつひとつ正当性をつついてみても答えは出ない。幅広い専門家の検討に任せざるを得ないのではないだろうか?広瀬氏も二酸化炭素温暖化説が間違いだと言っている訳ではなくて、複雑すぎて単純に二酸化炭素を主要な原因としてしまうのは危険である、ということなのである。彼が反対しているのは、それを根拠にして危険性が明白な原発を推進する事なのである。この本では触れていないがシミュレーション自身の信頼性にも疑問符が付けられている。僕自身の感想で言えば、シミュレーションというのは本来そういうものであって、全ての仮定に充分な根拠がある、ということは有り得ない。それでも、ベストを尽くして経験的な方程式を入れて計算してみることには意義がある。少なくとも現象を理解する考え方自身の内部検証になるからである。それが現実を再現したからといって正しいとは限らないが、明確に間違っているとは言えなくなるし、操作因子を抜き出すことが現実の問題の解決のヒントになるからである。

      それはそれとして、後半では「それではどうすべきか?」について論点を整理している。温暖化対策をすべきであるという立場の人は、将来人類が蒙るであろう悲惨な状況(極端な自然災害や海面上昇)を何が何でも避ける、という立場であり、慎重派は経済的その他のコストとのバランスで考えるべきである、という立場である。これでは拠って立つところが異なるので議論が噛み合わない。何とか共通のフレームワークが無いものか、ということで、リスクという観点を提案している。現状での予測に従えば、概ね2℃上昇すると不可逆的な変化が始まって、温暖化を止めることが不可能になる。具体的にはグリーンランドの氷床の融解が止まらなくなるが、融けおわるには数百年から数千年かかり、結果的に海面は6m上昇する。勿論気候変動も激しくなる。それを防ぐような温暖化対策をしても相当なコストが必要であり、あまり現実的とは思えない(二酸化炭素を固定化して地中に埋めたり、食料よりもエネルギー用の作物を増やす事が必要になる)。既に手遅れなのである。むしろ温暖化を放置して人類の側で積極的に適応するという立場もある。(人類が絶滅することはないが、多くの国家間で人口移動が必要で、卑近な例では、原発の廃棄物などは相当内陸に埋めなくてはならない。)従って、いずれの選択肢を取るにしても、相当なリスクを覚悟する必要がある。リスクを覚悟してそれを選択する、ということになると、誰が責任を持って選択するのか?ということを考えざるを得ない。科学者や政治家といったエリート(テクノクラシー)なのか、それとも大衆(デモクラシー)なのか?テクノクラシーのサイドでそれを行うことはさまざまな政治的要因も絡まってくるが、原理的には出来る。確率論的に選択することも可能である。しかし、それで良いのか?たとえ確率的に低い選択であっても、社会がそれを選ぶという自由は認めるべきである。ただ、それが責任ある選択と言えるためには、その可能な帰結について充分認識している事が必要である。ということで、江守氏の最終結論は社会と専門家との相互対話が不可欠であり、その対話を通してお互いの不十分な理解(可能な選択肢の帰結)を克服した上で、専門家ではなくて、社会の側が判断すべきである、ということである。

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