2013.10.24

     大分前にフタバ図書で見つけて買っておいた東島誠と與那覇潤の対談「日本の起源」(太田出版)をやっと読み終えた。立ち読みではなかなか面白そうだったのだが、本の趣旨としては首尾一貫した歴史解釈というものではなくて、いろいろな通説を批判して2人の意見を交わすというものなので、興味を持った話題を自分で調べていく切っ掛けになる、という本である。そもそも、どうして日本の起源が問題にされるのか、と言えば、日本という地域は人種的にも文化的にも周辺地域からの流入によって文化圏となっているという事情がある。日頃我々が感じている日本的なもののどうしようもなさが一体何時から、何処から定着したのか、ということを追及することで、逆にその限界を乗り越えたり、あるいは既に失われたけれども意義のある思想に辿り着いたりできるのではないか、という次第である。僕はこの2人とも全く知らないのであるが、対談の内容から見て歴史社会学者という人種に分類できるのではないかなあ、と思った。

      2人の共通する意見というのを大きくまとめてみる。
豪族間の妥協によって成立していた日本地域の権力機構が、持統天皇のあたりから血統による名誉職的な天皇制に移行し、政治の実権が天皇とは別な人たち(これも最初は藤原家という血統が重視され、やがて院制という父権が利用される)で担われるようになり、それが自ら崩壊したのが応仁の乱の頃で、戦争の実質が部下としていた武士達の私的争いとなり、京都が寂れてしまい、副産物として公家文化が地方に移植され、やがて地方で武士達が乱立するようになる。しかし、その間も天皇は空虚な中心として存在し続ける。鎌倉幕府が崩壊したころ、一時的に建武の中興となり、天皇親政を試みたが無駄な抵抗であった。天皇は現在に至るまで日本人の最大支持を得られていながらも個人的には無為は存在、つまり「空虚な中心」であり続けている。そのような社会意識のあり方は、例えば一揆におけるリーダー(責任者)を特定させないための戦術としても積極的に用いられた。連判状は円形となって、誰がリーダーかが不明であった。

戦国時代を終わらせたのは自ら責任を取った織田信長であったが、直ぐに暗殺され、最終的には諸大名を巧妙に操った徳川家康が纏め上げた。徳川時代の前半が日本的な秩序の最盛期であった。儒教と禅が日本的武士的な変容を経て支配的なイデオロギーとなり、権力機構は個人ではなく、を基本としたものとなる。ほぼ世界から孤立した状態で自足した文化が長く続いた後、ヨーロッパやアメリカの外圧を切っ掛けにして政権が崩壊し、明治維新を経て「近代化」されるが、徳川時代の日本的な家を単位とした社会は形を変えて温存されたままであった。日本の権力機構の特徴は実質的な中心が無いことである。天皇の権威をそのままにして、その周囲にいくつかの権力中枢があってお互いに牽制し合っている。その事が無謀な戦争への突入と敗戦の主要な原因であったにも関わらず、その特徴は変わっていない。「無理な背伸びをせず、安定した停滞状況をまったりと生きたい」というのが平均的な日本人の願望である。1970年代の高度成長時代はこのような理想的な江戸時代の再現であった。しかし、そこには社会的負担のしわ寄せが隠されていて、やがてそれが大きく表面化してしまう(労働人口の減少等)し、そもそも世界情勢の変化が安定した停滞状況を許さない。21世紀は日本が再び明治維新のような対応をせざるを得ない時代となるだろう。という感じであるが、どうも2人の著書を読まないとすっきりとは理解できない。

      與那覇さんは「中国化する日本」で、日本は官僚機構の整備として中国の科挙に倣ったのだが、中国のような能力主義の官僚と専制君主に集中した権力、という体制は日本に馴染まなくて血縁地縁と権力の分散に揺り戻されてしまう、という視点でまとめているようである。東島さんは、唐代の禅宗の僧の話に出てくる「江湖」思想に着目しているようで、これは社会の変革期にあたって、自由で開かれた社会を実現しようとする運動の旗印になった。日本では南北朝の一時期(武家政権からの自立)、戦国時代(無所属の独立民)、明治初期(自由民権や公害糾弾)にあった。その他、個々の面白い指摘に溢れている本ではあるが、僕の教養の範囲ではそれらを楽しめないのが残念である。一番感じたのは、社会学者というのはこういう風にして想像力を膨らませて楽しんでいるのだなあ、という事である。あながち無駄とは言い切れないが。
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