2013.11.09

((前半))
    市立図書館で借りてきた「中国化する日本」であるが、前半と後半に分けて考えたほうが良いだろう。前半は日本と東洋の歴史の再解釈であって、どうやら学会では既に常識となっているようであるが、僕はこれまでちゃんと理解していなかったので、纏めておく。初めて提唱したのは京都学派の内藤湖南であったらしい。中国の歴史を区分するとすれば、宋の時代である、という(なお、宋以降が近世)。なぜならば、それまで(古代)皇帝は中国各地に基盤を持つ貴族達を従えると共に彼等との妥協を必要とした所謂「封建制」であったのだが、宋の時代になると、貴族の基盤となる地域単位の人的経済的纏まりを解体して、経済活動と人の移動を自由化した。階級制度の廃止である。皇帝の権力を支えるために、全国から科挙によって官僚を選抜した。官僚は地方の支配者として派遣され、地方には根を下ろさないように交代制とした。これが「郡県制」である。経済の自由化のために、貨幣を浸透させ、税も貨幣で徴収した。経済の自由化と政治における専制によって特徴付けられるこのような国家体制を与那覇氏は(彼だけの用語であるが)「中国化」と定義している。このような改革が世界で初めて中国で実現した背景には、漢字の使用と印刷術の普及があった。科挙の試験をしようにも教科書(これは儒教である)が無いとできないのである。強力な官僚なしには専制権力の維持はできない。ただ、それだけでは長続きしない。皇帝が皇帝であり続けるためには権威付ける思想が必要であった。それが儒教による「徳」である。徳を備えるからこそ皇帝として権力を任される。裏返せば徳を失ったと判断されれば、「革命」によって徳のより高い者が皇帝になる。こうして朱子学が皇帝への牽制として普及した。科挙の試験のもっとも重要な項目はこの徳であった。経済の自由化は当然貧富の差を拡大するから、飢える人たちが増加する。今までは地域に縛られ職業を縛られていたが、それは生存の保証ともなっていたのである。貧民の救済は皇帝の責任ではないから、自ら助けるしかなく、その為に発達したのが宗族であった。中国では夫婦別姓が普通であり、子供は父親の姓を貰う。父性でつながる一連のネットワークが宗族である。宗族の中では成功したものは食いはぐれたものを助ける義務がある。

     さて、階級と地域閉鎖を開放し経済を自由化することで、宋代には経済が急成長する。その影響は平安時代の日本に及ぶ。日本は随、唐の中国古代文明を参考にして権力体制を構築していた。それはよく知られるように有力豪族の連合体であった。大陸との緊張関係から何度かの改革によって次第に天皇の権限が増大してはいたものの、政治の実権は周囲を固める貴族間の争いや妥協の産物であった。官僚制度を作ったものの、印刷技術も無かった日本では科挙のような選抜も有効でなかったから、結局のところ官僚そのものが世襲化されてしまった。こうして天皇家と藤原家の権力バランスが複雑な婚姻関係によって保たれるということになった。天皇の地位は血の繋がりが根拠であって、徳の高さは関係なかったし、だからこそ必ずしも政治権力を持つ訳でもなかった。そもそも、客観的に徳の高さを比較する基準(あるいは法の支配)がなかったのである。やがて宋との貿易が始まるが、天皇が外国と交易することは伝統にはなかったから、引退した天皇(上皇や法王)の方が天皇よりも経済力を持つということになり、父権による天皇支配(院制)が藤原家に対抗するようになる。そういう背景で現れたのが平清盛で、武力と経済力で後白河上皇と組んで我が世の春を謳歌する。そのまま順調に進めば、日本もまた宋のように自由経済が浸透しただろう、と言われているが、後白河上皇と平清盛が死亡した後、天皇を操れなくなり、交易の分前に与れなかった貴族達と東国の武士(源頼朝)のタッグに屈して農本国家という中国とは逆の方向に流れていった。ところで、天皇を誰が操るかというのが日本史では最後の鍵を握っている、という例が多く、冷静に考えると不思議な事なのであるが、それだけ、抽象的というか絶対的というか戦いの根拠となるべき共有基準が持てないから、誰もが認める天皇という伝統的権威に従ってしまうということなのだろうと思う。

     さて鎌倉幕府は農業を基盤とした東国武士の道徳の上に成り立っていたから、西方から押し寄せる貨幣経済の波に洗われて不安定化する。北条家が守護職を利用して経済力をつけて実質的な政権を握る。大陸では宋を滅ぼしたモンゴルが言わば「中国化」をユーラシア全体に広げたような自由経済圏を築き上げた。その中に日本も組み入れるべく元が迫ってくるが、(黒船来航の時の京都の貴族達と同じく)北条時宗はその意図を理解できない。占領するつもりもなかった元との戦いで疲弊して混乱し、後醍醐天皇がその混乱に乗じて中国皇帝のような天皇制を目論むが、部下の足利尊氏の裏切りから次第に権力を失い、次の代の足利義満によって室町時代となる。鎌倉時代に幕府によって地方に置かれた治安担当の守護職が次第に地方に定着して経済力をつけ、応仁の乱を経て戦国時代となる。その間に元は版図を広げすぎて銀の不足から紙幣を発行し、その信用不安から崩壊した。交代した王朝、明ではその反省から「縮小社会」を目指した。戸籍により自由な移動を禁じ、海外との交易も禁じた。海外遠征も禁じられてヨーロッパに先を越された。銀を世界中から集め、それとともに銅銭も使用したので、日本には銅銭が入らなくなり、一旦貨幣化した納税が米に逆戻りした。ヨーロッパでは中国から銀を奪いかえす為に商品開発が行われて、産業革命が起きて銀が逆流し、インフレとなり、これを引き金に産業資本主義(将来価値の上昇を確信した資本の投資)が芽ばえる。明は豊臣秀吉の野望を砕いたが、そのことが権力基盤の弱体化を齎した。

     清の王朝は満州族であるが、徳の原理を唱えて漢民族を納得させた。徹底した「小さな政府」を実現して経済を発展させたが、当然貧富の差も拡大し、宗族制の原則(成功者の確率を増やす)にしたがって過剰に人口が増大した。軍隊としては、小さな政府の軍隊には本来士気というものが無いから、装備に似合わず弱かった。その間に日本では戦国時代が終わり、長い江戸時代がやってくる。戦国時代から江戸時代にかけて、地方の戦国大名達は地域の農民を保護し、産業も育成した。初期には農民は自ら武装したし、農民と武士の区別も曖昧だったが、農業生産性の向上と共に農民が農業だけで自活できるようになると、武士と農民が区分されるようになった。徳川時代初期の新田開発によって、日本米の栽培が一般化した。日本の田園風景が誕生した。それは手間がかかりノウハウの蓄積を必要とする独特の農法であったが故に、地方独自の永続的生産主体「ムラ」と「イエ」の発達を促した。徳川幕府は農民の生活を保証するために、身分を固定し、相続を長男に限定し、耕地の分割を止めた。しかし、このことは相続しない次男三男が放り出されるということでもある。彼等は都市に出て飢民となり早死したから人口増大も抑えられた。要するに江戸時代というのは戦国時代をそのまま塩漬けにしたような体制であった。専制君主を目指した織田信長は部下に暗殺され、自由経済を推し進めた豊臣秀吉は早死した。最後に残ったのがまたしても東国武士であった。徳川家康は地方の大名達を手練手管で抑えこんで安定政権となったのである。地方の大名にしても、農民とは運命共同体であるから、専制君主とはなれない。専制君主として振る舞えば家臣に強制隠居(主君押込)させられ、中央政府(徳川家)もそれは容認していた。武士は代々武士であり、彼等が官僚として日常を仕切っていた。給料は石高であったから、当然国内経済の発展と共に実質賃金の低下を招き、下級武士は次第に貧困化する。さらに、松平定信による「朱子学」の導入が下級武士の不満に火を点ける。政権安定の為に目上の人や父母を敬う道徳として導入した筈であったが、原典には明確に中国の徳の思想と徳に基づく革命思想が説かれていたからである。徳川家を見下す視点として正義があり、実のところその思い当たる実体として天皇が浮上したのである。鎖国下でも交易をして財力を蓄えた西国大名達は、同じく天皇を頂いて日本を治める為に有力大名合議制を唱え、下級武士たちはそもそもの徳川政府の打倒を唱え始めた。ペリー来航と幕府の対応への不満がその捌け口となり、初期には尊王攘夷運動となったが、やがて開国倒幕運動となる。この本では触れられていないが、武士以外の身分では、交易に携わっていた商人達、村の管理を任された庄屋層、街道宿場町の本陣等の主人達が識字層として経済的に支援している。彼らの間に広まって、世直しを想定させたのは朱子学ではなくて、国学であった。

((後半:戦前))
    問題の最初は明治維新である。従来の常識では「西洋化(近代化)」を目指した革命ということになっている。倒幕を目指した人たちも、徳川家を守ろうとした人たちも、当時の西洋(アメリカ、イギリス、ドイツ、フランス)と伍していく為に彼らの文明を取り入れようと考えていたのであり、彼等に侵略されていた中国(清)を見習いたいという気持ちは一切なかった。しかし、明治維新の実体は正に「中国化」であった。明治天皇直下の太政官に権力を集中したし、教育勅語は儒教倫理そのものであるし、高等文官試験によって広く人材を集めた。因みに、福沢諭吉は平等を説いたとされているが、それは結果の平等ではなくて機会の平等であった。学問を怠るものは飢えても当然、と言っている。地方の支配は官僚の派遣で行い郡県化した(廃藩置県)。その結果大量の士族が失業した。さらに、地租を改正し、土地売買が自由化された。民間では資本の論理が貫徹し、政府の殖産興業政策が失敗し、民間に紡績工場が払い下げられるや、インド以下の低賃金労働によって国際競争力を得た。しかしそういった悪条件の中でも成功するものは成功して村に錦を飾ったのである。江戸時代の都市棄民よりはずっとましであった。

     さて、それでは「中国化」と「西洋近代化」はどこが違うのか?については、本の中では大分後になって少し出てくるのであるが、それは経済の領域ではなく、司法と政治の領域ということになる。つまり、法の支配、基本的人権とこれらを守るための議会制民主主義である。中世の長かったヨーロッパは経済的にも社会的にも封建制であり、イスラム圏や中国に「遅れ」をとっていた。しかし、イスラム文化に触発されたルネッサンスや宗教改革を経て、次第に経済活動が自由化されていった。その過程で教会と貴族のバランサーとしての絶対王政が生まれ、残存していた貴族階層が王権に対して獲得したのがそれらの権利であった。西洋の近代化というのは、これらの権利を貴族から平民に拡大したにすぎない。だからこそ「市民革命」となった。その過程で、原理上王権の上にあった神権のシステム(神学)が換骨奪胎されて、人権思想と科学が芽生えた。貴族階層が早くから消滅していた中国ではそもそもこのような権利は必要がなかった(意識されなかった)。生存権は宗族で代替された。日本ではどうか?それらの代替として「ムラ」と「イエ」があったから、同様に意識されなかった。中国と日本で「西洋化」の進展に大差がついたのは、江戸時代の寺子屋による識字率の問題などではない。そもそも読み書き出来たのは庄屋や街道沿いの人々だけであり、彼らが維新後の自由競争社会で優位に立ったことに反発して自由民権運動が起きたくらいである。中国と日本の差は「西洋化」の経済的側面のインパクトであった。中国にとって自由競争は当たり前であり、西洋化する意味は無かったのに対して、日本ではそれによって活性化する(権益を得る)人が多かったのである。だから、「西洋化」の司法と政治の側面はどうでもよかったので、実態が「中国化」ということになった。

     明治政府が再度西洋化を意識して、国の統治方式を定める憲法を制定する時に、西洋近代と中国化と江戸時代化の意識が交錯する。伊藤博文がドイツで学んだのは、皇帝の権利を制限し、更に民衆の代表たる議会からも独立した宰相主導というものであったが、政府内の天皇皇帝主義者(井上毀)と衝突して妥協した。結果として、宰相を議会の多数派ではなく天皇が任命し、その宰相は大臣の罷免もできない、というもので、議会には予算の承認権だけが与えられた。宰相と議会が対立すると、お互いに妥協を待つか、天皇の裁断を仰ぐ他無い。宰相は江戸時代末期の将軍のように天皇のお墨付きを必要とし、大名のように大臣の拒否権で権力を失う。議会は江戸時代の農民のように予算承認権を盾にとって妥協を引き出す。実際、日清戦争以後、地方議員は江戸時代の庄屋のように中央政府の投資を引き出す役目を負う(利権政治)。これに対抗して山県有朋は大選挙区制(実態は中選挙区制)にして、政党があまり大きくならないようにした。にもかかわらず、政友会と民政党という二大政党が幅を利かせて官僚の人事にまで口を出すようになった。これが大正デモクラシーである。デモクラシーとは言え、中身は江戸化であった、というのが與那覇氏の見解である。この辺りから判りにくくなってくるが、それは與那覇氏が「江戸化」という言葉を「中国化」の要素の一部だけにでも反する現象全てに使っているからである。つまり暗黙の内に「中国化」を美化しているように聞こえる。

     ここで、陽明学が出てくる。朱子学も陽明学も儒教の学派であるが、朱子学が正統派で政権に採用されたのに対して、陽明学は反体制的な側面を持つ。主観的であり、動機さえ良ければ結果は問わない、という傾向を持つ。明治維新の志士に大きな影響を与えている。西洋の近代は思想的には宗教戦争への反省に基づいている。お互いに正義を主張して長期の戦争(30年戦争)を続けて疲弊したことを反省し、政治を宗教から分離する、つまり価値は唯一絶対ではないという「リベラリズム」の立場である。議会制(対話の精神)もそこに由来する。維新の志士の気分は自由民権運動に引き継がれ、新聞記者にも繋がるが、その伝統にはリベラリズムに基づくというよりはむしろ陽明学の主観主義が残っていた。在野の民主化勢力が対外的にはタカ派(理想主義)となって、軍部を対外戦争に煽りたて、政府中枢が合理主義的マキュアベリスト(現実主義)としてそれを抑えようとした、というのはこのような事情による。

     さて、與那覇氏によれば、第一次世界大戦後からソ連崩壊までは世界は基本的に「江戸化」した、ということである。あまり良い表現だとは思えないが、要するに、革命後のソ連が世界同時革命の理想主義者トロツキーを追い出し、一国内共産主義のスターリンが(国という世界では地方に相当する領域に限定するという意味で)江戸化を目指し、その計画経済(これは自由経済の逆ということで判りやすい)での一時的成功を見て、自由主義圏でもケインズ政策(公共事業というのは江戸化ということになる)が席巻した、ということを意味する。ヒットラーもルーズベルトも公共事業で失業を減らした点では変わらない。ただ、その先駆者は高橋是清ということである。他には農村に依拠した毛沢東もポル・ポトも江戸化ということになる。

     幸徳秋水などは自ら江戸時代は社会主義と見立てている。この系譜は北一輝から岸信介まで辿ることが出来る。戦前の議会では実際に社会主義政党が伸長したが、彼らの理想を実現したのは軍部であった。日本共産党は社会主義の為ではなく天皇を拒否した為に弾圧されたのである。終身雇用制や年功賃金といった慣行は昭和の戦争の時代に国民全員を平等にして挙国一致にするために採用された。江戸時代には農民を身分保障して生存権を与えたのであるが、昭和の終身雇用制は都市のサラリーマン、後には産業報告会によって、ブルーカラーも含めてそれが拡張されたものと見る事ができる。労働者も家族を養うことができる。しかし、これは女性を単なる家計補助員の地位におとしめるものでもあった。また、既にムラが崩壊していたから、一家の主人が無くなれば一家心中するしかなかったのである。全員一様に我慢して最後は飢え死にであるから、要するに北朝鮮化ともいえる。

     ともあれ、征韓論以来の士族・自由民権運動論者の末裔たるマスコミの勢いに乗って、また宰相が陸軍・海軍大臣を罷免できないことを利用して、陸軍は朝鮮半島と台湾と中国大陸に侵攻した。満州国統治は社会主義者(新官僚)の実験場となったが、ヨーロッパの国々のように手馴れてはいなかった。植民地というのは戦国時代の領地とは勝手が異なる。父系ネットワーク社会の朝鮮半島や台湾の人々に日本人の「イエ」制度を押し付けて創氏改名を強いたことはいまだに怨念を残している。公共事業を起こして確かに生活水準を上げたという面があったが、国内の経済には寄与はないし、軍事的負担と国際的孤立だけが残った。石橋湛山はその矛盾に気づいていて植民地放棄を主張した。最初の占領地、満州はたまたま少数の都市に経済機能が集中していたために拠点占拠で支配できたが、そこから先は困難だった。徴兵制が機能していない清国の軍隊は弱かったが、住民は把握できなかった。南京や重慶といった拠点を徹底的に破壊しても広い国土は制圧できない。国民党政府は長期戦略から軍事よりも情宣に力を入れていた。普遍的な正義を振りかざさない限り中国では勝利できないことをよく知っていたからである。その成果がアメリカを味方に引き入れたことである。結局これが決め手になった。戦局が思わしくなくなってから中国の情宣に対抗して編み出されたのが大東亜共栄圏という「正義」であるが、これは欧米諸国を敵に回す結果になった。その大儀に奮起したのは東アジアの人達ではなく、国内の知識人達であった。陽明学者安岡正篤が政権に入り、ますます戦略が主観的となる。アメリカ相手に戦争を始めた時点で収拾不可能になった。政権内に冷静な人達が多く居たにも関わらずこれらの動きを止められなかったのは何よりも世論の支持があったからだということを忘れてはならない。天皇はリベラリストだったらしいが、間違った選択であっても、国民の選択であればそれに従う。

     余談が一つ、戦時下の上海で生まれた反戦とも受け取れるアニメ「鉄扇公主」が大流行し、日本で初の「桃太郎の海鷲」が続き、それに影響されたのが、手塚治や宮崎駿である。アニメにも関わらず人生や戦争といったテーマが取り上げられるようになった。実際「風の谷のナウシカ」は日本近世(王女クシャナ)と中国近世(ナウシカ)の戦いの戯画になっている。アメリカの「アバター」も「ナウシカ」と「ラピュタ」と「もののけ姫」の継ぎはぎで出来ている。

((後半:戦後))
    戦前から戦後で変わったものは軍隊の消滅だけであった。統制経済は勿論持続し、戦前は軍隊が担っていた国家社会主義は官僚によって担われた。満州国の理想を日本で実現しようとした。占領軍は当初日本の民主化を目指して、憲法を制定させた。戦時中投獄されていた共産党は戦後の正義を代表していた。食料メーデーや徳田球一の首相を相手にした団体交渉など、目覚しいものがあった。右から自由党、民主党、社会党という3党が2党連立で政権を交代した。しかし、芦田均が昭電疑獄で潰され、朝鮮戦争でアメリカの戦略が転換され、社会党がアメリカから政治的敵とみなされる様になった。自由党と民主党が保守合同して、社会党は政権を諦めて1/3以上の議席を確保して護憲に専念するようになった。こうして出来た55年体制は、護憲という理念(これは中国的)によって「政治的・軍事的鎖国」を作り、それに守られて国内では自民党が「再江戸化」を推し進めた時代である。農地改革によって土地を得た農民は農協に組織されて自民党の支持基盤になった。封建制度そのものである。アメリカに庇護されながら、戦争には参加しなくてもすむのであるから、日本にとっては最良の選択であった。1960年からの所得倍増計画によって、農村から都会への人口移動が起きた。地方の「ムラ」から都会の「ムラ」つまり会社への移動である。生活水準向上によって三井三池闘争や安保闘争に代表される国民の不満が低減した。他方では農村人口の減少により自民党の議席が過半数近くまで減少した。この動きを止めたのは田中角栄である。日本列島改造計画とは地方に公共事業と交付金をばら撒いて保守政治家が地方を永代支配する計画(再江戸化計画)である。原発もその一環となった。都市への人口流入が止まり、経済成長も鈍化した。日本の中選挙区制(多数の候補者と1人1票の投票)は自民党内部での争いを生み、派閥と世襲と利権の温床となった。田中はそれをうまく操ったのである。

     冷戦下では大国主導で国単位の政治が主体となっていたから、與那覇流には「江戸的」であり、その中で日本がアメリカの庇護の元で経済発展を遂げたが、世界は再び「中国化」し始めた。どうもこれらの用語はしっくりこないが、要するに経済面のことであって、新自由主義である。その切っ掛けはオイルショックで、このときに先進国はスタフグレーションに見舞われてケインズ主義が通用しなくなった。チリのピノチェト政権は独裁と自由経済で成功した。1979年に、ケ小平、サッチャー、遅れてレーガンが新自由主義に染まる。アメリカの封建制的な外交戦略が相次いで失敗する。つまり、ソ連のアフガニスタン侵攻を止めるために助けた過激派ムスリムに裏切られ、イラン革命を抑えるべく助けたフセインにも裏切られる。宮崎一定さんによれば最初に「中国化」したのはムスリム国家だそうで、中国での漢字に比せば、コーランこそその手段であったという。確かに遊牧民の族支配を乗り越えたのが商人のマホメットではあったし、それを広い版図に広げてイスラムネットワークを作るのにコーランは欠かせなかった。ムスリム共同体が中国の宗族に相当するのだろう。だから封建時代のように国を単位に諜略しようとしても難しい。

     世界の「中国化」新自由主義の影響は日本にも及んだが、当初はそれほど深刻ではなかった。その理由として、終身雇用制の元で不況の時には残業を無くし、好況の時には無理をして残業することで失業率の増減を押さえ込めたこと、戦時動員時の慣習から企業が株式よりも銀行借入を主体にしていて、株式市場が未成熟であったこと、が挙げられている。1989年には社会党政権(土井たか子)すら生まれた。この江戸時代化に反逆したのが小沢一郎であった。「日本改造計画」である。自公民連立によって政権を奪取して宮沢内閣→細川内閣と繋いだ。彼は小選挙区制と政治資金規正法によって、派閥の根源を断ち、党中央の統制力を強めた。これにより、地方や業界に基盤を置く議員の「封建制」から党中央の派遣による「郡県制」に移行した。しかし、献金を失った自民党と自衛隊の海外派兵に反対した社会党が野合して小沢を追い出して、彼は新進党を作った。小泉純一郎は小沢よりもうまくやった。党や議会といった中間階層を無視して直接選挙民に訴えるという正に専制君主の手法を採った。派閥を無視して内閣を作った。民意に訴えるのに経済的餌よりも「大儀」を立てた。もっともその中身は変幻自在であった。結果よりも動機の「美しさ」に訴えた(陽明学)。靖国参拝においても、A級戦犯問題は認めつつ参拝の動機をそれとは別に主張した。格差の拡大は小泉政権のせいではない。日本人の家族構成の変化が背景にある(大竹文雄説)。家族の単位が小さくなると共にセーフティーネットとして機能しなくなったのである。イエによる保護は日本史において、(平安時代)貴族のみ→(鎌倉時代)貴族と武士→(江戸時代)貴族と武士と農民(長男)→(大正時代)家庭を持つ男子→(昭和以降)ほぼ全国民、と来て、現代に至り、ついに「イエ」そのものが崩壊し始めている。これは政治家が意図的に成し遂げた変化ではなく、むしろ政治家はそれへの対応としてさまざまな政策を打ち出してきたのである。その後、安倍晋三が「中国化」を推し進めようとしたが、その弱点を突くために農本主義に転じた小沢に負けた。しかしタッグを組んだ民主党とは呉越同舟であったから、再び安倍晋三が政権を握った。安倍政権は経済における「中国化」(親米)と理念における「江戸化」(反米)の極端な組み合わせを選択している。

     なぜ西洋化ではなく中国化なのかは、議会制度がうまく機能していないことと、政教分離が不完全(スキャンダルが政治の道具になる)だからと言う。現在、企業や家族によるセーフティーネットが崩壊し始めており、国内資本は残存する「封建制」を嫌って海外に逃げつつある。更に女性が専業主婦でやっていけなくなったので、むしろ結婚しなくなっている。地方自治においては既に独裁者が登場し始め、公務員の待遇を引き下げている。これは汚職の温床となるだろう。個人へのセーフティーネットは生活保護である。年金を全廃すれば原資が出るからそれは可能となるが、それは同時に国民の国家への隷従となる。強制的に江戸化すればそれは北朝鮮化である。與那覇氏の提案は2つある。一つは外国人参政権と優秀な移民の活用、もう一つは日本として「理念」を掲げることである。「中国化」する世界で重要なのは理念である。日本には憲法9条がある。これこそ現実の中国に対抗するに最も強力な武器ではないか?という。

     それはともかくとして、こうやって纏めてみると、中国化とか江戸化という言葉で整理したという以外にはそれほど新しい歴史解釈でもない。現代に近づくほどこういう大まかな視点だけでは整理しきれない問題、というか歴史の動力学的理解の問題が残るように思われる。ただ、日本は本当に近代化したのだろうか?という疑念に対してはかなり明確な解答を与えてくれるから、そういう意味ではすっきりする。封建遺制という言葉の意味もしばしば誤解されていて、左翼が必ずしも封建遺制から自由でないことも良くわかる。
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