3001.03.01

       橋本治「人はなぜ「美しい」がわかるのか」(ちくま新書)を読んだ。なんだか個人の告白のようでもあり、だらだらしていて読みづらいが、身の回りの物事にはそれぞれの必然があって、自分の都合には従わないということを認めるだけの余裕がないと「美しい」は判らないということらしい。背後にあるその「必然」を感得するとき「美しい」と感じる。人と人の関係が闘いであるとすれば、それは弱みを見せることであるが、理解しあうことであれば、そのような能力は必要条件である。成長途上の子供にはなかなか「美しい」は判らないし、それはそれでよしとする。初めてそれを感じたときのことはよく覚えているものである。この人は幼稚園の頃の春先、水仙の芽が出たときだそうだ。僕は小学生の頃兄の持っていたレコードでメンデルスゾーンのバイオリン協奏曲を聴いた時である。例えばその頃、兄弟の間で庭に花壇を作るのが流行していて、僕も作ったのだが、花を美しいとは感じていなかった。また、例えば兄は板を削っておもちゃの船を作ったりしていたが、とても器用であった。しかしそれは単に手先が器用という問題ではなくて、出来栄えに何か心を満足させるものを感じていたからこそ機能的にもバランスのとれた船が出来たのだろうと思うが、僕にはその心がまだ判らなかった。

       橋本さんは更に進むと、青空に動き回る白い雲の流れを飽きずに眺めていた、という。やがて子供なりに一日が充実してきて、夕焼けの美しさを知る。僕はあまり自然に美しさを感じたことはなかった。音楽以外では、むしろ兄に教えてもらった論理学と集合論の関係や、未知数を導入した算数の考え方や、元素の周期律やら、そういったものに美しさを感じた。視覚的な美しさを感じ始めたのはやはり初恋の頃である。それまで女はみんなおばさんでしかなかったのに、ミロのビーナスやら、兄の持っていた写真雑誌にあったプールの真ん中でエアークッションの上でゆったりと寝そべっている裸の女性を美しいと感じ始めた。更に、詩やら絵画やら自然やらの美しさを感じるようになったのは大抵女性の影響であるので、高校生から大学生のころである。橋本さんの言うように「美しい」が判ることは実用上あまり意味がない。却って競争社会の中では落ちこぼれる原因となりかねない。しかし素直に自分の生きる意味を問いただしてみると「美しい」は一番大切な項目であるし、そこから外れることにはなかなか乗り出せないのも事実である。僕が人との関係でうまく行かないと感じたり、会社の役に立たないと感じたり、更には、そもそも世の中の役に立たないと感じたりするのは、根本的にはそこに原因がある。ある意味では自分中心主義である。しかし、自分しかなければ「美しい」は判らないのであるから、本当のところ人や物との関係を求めている。だから人の役に立つと思うことは何でもやるし、うまく出来ればそれを美しいと感じる。しかし喜んでもらえる人の顔が見えないか、あるいはその人があまり好きではないような状況ではなかなかその気分になれない。多分こういう生き方だと資本主義的な意味での戦略が立たないし、そもそも資本の論理には美しさを感じない。

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