2020.06.28
同じ時代を生きてきた似たような人の話は、共通した世界意識を持っていても出会いの順序によって、違う人生航路となるところが非常に興味深い。以下、西垣通の文化講演会『情報とポエジーをめぐる旅』(2020.02.18)のメモである。https://www.nhk.or.jp/radio/ondemand/detail.html?p=0969_01

      僕より2歳年下。小・中学生時代から東京少年合唱団で西洋人の基本信念である「世界は論理で出来ている(始めにロゴスがあった)」を体感(調和の感覚)として身に着けた。物理が得意であったし、当時の日本社会では技術による国作りが奨励されて理科系ブームだったから、東大の理科I類を受験したのである。しかし、大学時代に物理の世界はあまりにも日常世界から離れていると感じた。また、全共闘の考え方は理解しながらも、彼らの直観的、感覚的な行動や思想的狭量さにはついていけなかった。世の中を変えるには、合理的なやり方があり、それは理科系の論理と文科系の論理の融合である、と考えて、日立製作所に就職した。当時大型計算機が開発されていて、日立はその計算機を実際の社会に応用すべく、自治体等と共同研究をしていたからである。しかし、配属先はOSの開発室であった。OSの世界は合唱で経験したロゴスの世界であった。バグは不協和音に対応する。OSの世界に熱中した結果として、スタンフォード大学に留学することになった。1980年台である。そこで出会ったのが人工知能(エキスパートシステム:専門知識集約による診断)であった。しかし、正確な論理と知識だけでは現場では役に立たないと思った。

      1986年に会社を辞めて、情報社会論を始めた。文科系の勉強を始めた。マルクス主義が退潮。構造主義、ポスト構造主義の時代。フランス語を勉強してフランスに留学。ランスの修道院から、子供の頃歌っていた『スターバト・マーテル』が聞こえて、キリスト教の本質はロゴスではなくパトス:生きる苦しみへの共感であることに気づいた。1990年代、東大の社会学部に招かれた。情報学部が出来た。文科系と理科系の融合を目指す。文理にまたがる学問のベースを作るべく基礎情報学科を作った。これは、ロゴスだけでなくパトスを大切にすることである。オートポイエーシス理論に基づく。自分で自分を作る。心は自分自身で作っている。主観の世界に住んでいる。客観世界は共同主観というフィクションである。人工知能は「私」を持たない。客観的データを処理する装置にすぎないから、そのまま信用すると人間が単なるデータとして扱われて自由を失う。マルクス・ガブリエルと同じことを言っている。

      僕の場合、「世界は論理で出来ている」という実感を持つ切っ掛けになったのは、中学生時代に元素の周期律とその原子モデルによる説明に出会ったことである。そういうことで、やはり物理が得意ではあったが、関心はもっぱら化学にあり、物理学の先端が日常生活から遠いという印象と、小林秀雄に出会って近代科学への批判意識が芽生えたことから、化学の理論化を目指すことになった。大学に入ったのは西垣氏より一年早かったから、まずはベトナム反戦運動に遭遇し、反スターリン主義の諸派(新左翼)と出会うことになり、彼らの世界認識に新鮮さを感じたが、運動に付き合うに連れて、そのエリート意識と党派主義に嫌気がさして、文学の世界にのめり込んでいた。

      その頃に全共闘運動が起こった。僕の目には全共闘運動はやや幼稚に見えたが、適当に付き合っていて、その後本来の目的である化学の理論化の道へと進んだ。ただ、量子化学はあまりにもご都合主義的に見えて、統計力学による理論化の方向へ進んだ。水と水溶液については格好のテーマあったが、うまく攻め口が見つからなかった。結局教授の指導で学位を取ってカナダの大学にポスドクで行った時にたまたま出会ったのが、「ニューロンネットワーク」という考え方である。心理学科の学生がネズミの脳の解剖をやっていて、彼女に教科書を教えてもらったのである。世界は予め決められた論理で出来ているのではなく、偶発的につながり合う非線形応答素子(神経細胞)が全体として作り出す主体が創発していく、という思想である。僕は新しい分野に魅力を感じたが、どこから入っていいのかが皆目判らなかった。カナダには2年居て、それなりに成果を挙げて、研究室の後輩2人に交替して日本に帰ったのだが、僕の選択した分子集合体世界の理論については展望が見えなくなってしまった。

      そこで、界面活性剤の溶液理論が出来たらと思って化学会社に就職したのだが、配属されたのはパソコンに使われる記録媒体(フロッピーディスク)の開発部隊であった。磁気記録の専門家になってしまった。磁化素子の非線形性応答の解析や計算に分子集合体の相転移で使った計算方法がそのまま使えたのが不思議ではあった。このような非線形応答素子の計算は事業が失敗した後に取り組んだ社内での化学プロセスの解析においても有用であった。今考えてみれば、その延長上にニューロンネットワークもあったのだろうと思う。僕の場合、文科系の勉強は殆どが退職後であるが、むしろ、文科系学問の理科系的理解に努めている、と言ったほうが正確だろう。パトスという意味では、バッハの音楽における合唱曲、更には中島みゆきといった処か?

      西垣氏が何回も言っていたことが多少気になる。いろいろな分野の勉強をしてきたけれども、書物だけからではなかなか難しい。やはりその思想を生み出した当人に会って、直接感情的な交流をしてみないと、思想の本質は会得出来ない、という。僕の場合、確かにそういう機会はあまり無かった。。。数少ない出会いと言えば、水と水溶液の研究の大家である、Walter Kauzmann だろうか。サバティカルでやってきたので、数ヶ月付き合って、実験科学者の何たるかを知った。理論やモデルは重要な道具として使うのだが、何よりも実験データに対しては全感性を注いで考え得る限りの試みで解析することである。。(これに対して、理論家は実験家に整合性の取れた一つのモデルを提供するに過ぎないのであって、決してそれに固執してはならないのである。 )それが退職後の医療統計の仕事に生きたというのも不思議な感じではある。

      今 Wikipediaで調べてみると、Walter Kauzmann はマンハッタン計画で重要な働き(起爆装置の開発)をしていた。"But there was another, even stronger reason that many of us felt justified our working as hard as we could on the bomb. It was felt that if it were possible to make atomic bombs, somewhere, someday, someone would figure out how to do it and some country would proceed to make them. If this were done after World War II was over, the bomb would very likely be made as a secret weapon. This would inevitably lead to World War III. Therefore, there were strong reasons for trying to make the bomb - and use it - before the end of World War II. The people of the world would then know the terrible thing that could be unleashed if there were a World War III. And the politicians could then be encouraged to try to do something about preventing World War III."Protein Science (1993) Vol 2, pgs 671-691 ということで、戦争が終わった後に原爆が開発されると、それが次の戦争に使われて大惨事になる可能性が高いが、戦争が継続している内に(敵が存在する間に)原爆を使う事で、二度と使わないという気持ちになるだろう、という。広島と長崎はその実験台となったのである。。。

      またガラス転移における Kauzmann パラドックスの提唱者でもある。結晶相とガラス相のエントロピー差を外挿して 0 になる温度を TK と言って、原理的には無限にゆっくり冷やした時には TK 以下において、ガラス相の方が結晶相よりもエントロピーが下がることになる。だからその前に凍結されるということである。
 
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