2017.11.05
      寺島実朗の番組によく登場する西垣通の「集合知とは何か」(中公新書)を半分位読んだ。この人は日本の「第5世代コンピューター」開発に携わっていた。論理的推論が知能の全てと考えて、PROLOGという言語を作り、それをそのまま並列処理でハードウェアーに組み込んだ新しい計算機(並列推論マシン)が開発されたのだが、現実世界は予め想定したものではなく、むしろ逆に、量産可能なパソコンと多様性に富んだ人々の知を結びつけるインターネットの方向に進んでしまった。知能にとって客観的世界というのは絶対的なものではなく、単なる有用な約束事にすぎないのに、そんなものが記号化されることを大前提として、そこから論理的推論をしてみたところで、どこかで破綻が起きる。第5世代コンピュータというのは極めて限定された環境の元では有能であっても、生命的な知を実現するものではなかった。だから、現在有望視されている深層学習による人工知能は客観世界を記号化することを諦め、与えられた膨大な実例から、もはや人間の概念処理では把握できない神経回路を学習的に築き上げることで、特定の分野において有用な「知能」を作り出しているけれども、それは自らの生存を賭けた主観的存在としての生命の知とは別のものである。人間の知能の働きを補う「道具」としての役割しかない。

      生命的な知能とは何か?客観知ではなく主観知(クオリア)であり、脳にはなくむしろ身体生理の中にあり、「暗黙知」である。ポラニーは諸細目と包括的存在(意味)というお互いに意識としては共存しないけれども支え合っている働きとして知性を捉える。人間同士が出会うとき、この包括的存在を疑似的にでも共有できる可能性があり、そこから集合知が生まれる。機械と生命の相違は、後者が自己創出的(オートポエティック)ということである。つまり設計図を自らが作り、内蔵している。外から見ると生命は刺激に対する反応であるが、その反応の仕方はあくまでもその生命の過去の経験総体から作られたものであるから、唯一無二であり、たとえそれが方程式で近似できるとしても、記号化された論理式ではない。それを単なる「個体差」としてしまうのは、その生命を生命として受け取めていないからである。このように、心は基本的に閉鎖的なものであるが、社会組織には特有の記号体系が外在的に作りあげられていて、その体系に従って表出することでコミュニケーションが可能となる。社会という上位の自己創出的存在から見ると個人という下位の自己創出的存在は一定のルールに従う機械のように見えるだろうが、それは見かけにすぎない。(以上が第3章まで)

      ウィーナーの「サイバネティクス」は、機械を利用可能な形で生命体に組み込むことが狙いであったのだが、逆に生命体を機械と見做し、人間の機械化を推進するものと誤解され勝ちである。これは、生命体があくまでも主観的に環境を認識するという事実を捨象して、その主観的認識を外部観察者の認識に置き換えようとするからである。これを乗り越えようとして生命体を「観察するシステム」として捉えなおす「二次サイバネティクス」が1970年代に提唱されていて、これはオートポイエーシスとしての生命観と符合する。

      これらの理論とは別に、物理の世界から生まれてきたのが自己組織化とそれによる創発現象として生命を捉える見方である。そこでは主観的世界は前提とされず、複雑系・カオスの観点から説明される。そういう考え方に拘ると、環境世界のIT化の進化発展によって生まれる電脳空間によって「人間主体」が飲み込まれていって、「ポストヒューマン」になってしまう、という未来予測に辿り着くしかない。
 
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