2014.11.04

      この間借りてきた「日本思想という病」(光文社)は、図書館で片山杜秀の本を探していて見つけたものである。中身は講演会の纏めであった。芹沢一也という人が荻上チキという人と一緒になって、SYNODOSという活動をやっていて、いろいろなテーマについて異分野の面白い人たちを集めて議論させたりするのだが、その第3回目ということである。趣旨としては、思想上の重要な問題でありながらも大きくは採りあげられていなかった問題を発掘して読者に考えさせる、ということのようである。それはともかく今回の問題意識は戦前戦中における日本思想の位置づけ、というかそれと現在との関わり、ということである。僕自身もつい最近片山杜秀の本を読むまでは戦前戦中の知識人達や政治指導者達の考えていたことに対して無知であった。太平洋戦争に至る政治の失敗(つまり敗戦)と戦後におけるアメリカ支配、という昭和の歴史に対して、右翼は戦争の意図を(東洋対西洋という図式で)礼賛し、自民党の主流(吉田茂の系統)は(天皇も?)戦争を反省しつつも軍の暴走と総括してアメリカとの同盟に頼り、左翼は全てを否定している、という風に整理しておいて、最近の自民党は右傾化しつつある、と捉えるのである。(もう1人の典型として司馬遼太郎は明治に理想を求める。)しかし、事はそれほど単純ではない。

(1)「保守・右翼・ナショナリズム」中島岳志
      最初に彼の視点(保守思想)が明示されている。保守の定義は、特定の理想や思想や理論で現実を切ることへの懐疑である、という。つまり、現実主義とでも言える。リベラルという言葉のニュアンスに近い。現実は複雑であって個人あるいは集団の信念に従った盲目的な行動は危険であり、それよりも過去の歴史で揉まれてきた伝統的社会体制や思想を信頼するが、それさえも万能とは考えず、絶えず懐疑を抱き現実との整合性を検証する。保守の典型が文学者の中から生まれてきたというのは偶然ではない。文学というのは理屈では割り切れない世界を何とか表現しようとする分野だからである。具体的には福田恒存や小林秀雄や江藤淳である。全く嫌な連中の名前が挙げられたものである、と思うが、確かにそうかもしれない。以下、さまざまなレッテルとの違いを説明することで「保守」の概念を明確にしている。

      まず進歩主義ではない、というのはそもそも進歩ということを信じないからである。ヨーロッパにおいて保守主義は啓蒙思想に対する反発として生まれた。「理性」に全幅の信頼を置くのは危険である、と。現実世界は永遠に不完全であって何かの理想に近づくようなこともないと信じる。けれども状況の変化に対応すべきことは肯定するから、「反動」ではない。また逆に古に理想を求める「復古」とも異なる。「保守」が自らを保守として律するということは自らの思念に対しても謙虚でなくてはならない。ヨーロッパでは人間が絶対に到達し得ない「神」を信じることにおいて、神に対する謙虚さを保障しようとしてきた。つまり「原罪」である。日本ではこのような伝統が無いから、福田恒存は「絶対者」という観念を持ち出して自らの保守の思想を敷衍せざるを得なかった。保守主義者は、社会秩序については「設計主義的合理主義」を疑い、むしろ「自生的秩序」を信じる。具体的には、ファシズムにも共産主義にも背を向けた。大東亜戦争を支えたものは過剰な設計主義(満州国を作った革新官僚や二二六事件を起こした青年将校等)であったから、保守思想とは相容れない。福田恒存、田中美知太郎、池島信平(文芸春秋社)達は「厭戦」の立場を採った。(反戦は進歩主義である左翼の言葉であったから。)彼らは戦争を推し進めた戦前の軽佻浮薄さは戦争を全面否定した戦後の軽佻浮薄さの延長としてみる。

      保守思想が重んじる「伝統」は「慣習」とは異なる。慣習は無意識に人々が従うものであるが、伝統とは慣習を意識的に反省してそこから「精神の形式」を引き出した結果である。その契機の多くは啓蒙主義やフランス革命のような「熱狂」への違和感である。小林秀雄は「歴史はいつも否応なく伝統を壊す様に働く。個人は常に否応なく伝統のほんたうの発見に近づくように成熟する。」という「名言」を残している。戦後の保守思想家は「絶対平和主義」というような理想への熱狂に冷や水を浴びせてきた。しかし、その人達が、国際問題に反応して日教組のような左派を仮想敵としてしばしば「熱狂」しているのは、日本における保守思想が衰退している証拠である。

      保守は小さな政府による市場主義も大きな政府による福祉国家も疑う。小泉改革に日本の左派が乗ったのは小さな政府が小さな権力に結びつくと考えたためであるが、それは大きな誤解であった。小さな政府の結果は事業のアウトソーシングに過ぎない。政府は事業の権限を維持して事業の責任だけを民間に投げたということであった。なにしろ戦争さえアウトソーシングされる時代である。

      保守もリベラルも国民は間違いを犯す可能性があるとして、国家に暴力装置の独占を委ね、逆に国家も間違いを犯す可能性があるとして憲法で規制する。憲法とは、つまり国民が国家を規制する根拠である。国民という概念に含まれる内容が、リベラルでは現在の国民であるのに対して保守では過去の国民も含む、つまり、憲法は歴史にも立脚すべきだと考える。つまり「伝統」である。何を以って伝統とするかは定かでないから、当然保守と言っても千差万別であるが、その間の調整過程(落とし処)も含めて保守なのである。

      右翼は保守と区別される。保守は理想社会を信じないが、右翼は理想社会の実現を信じる。左翼も理想社会を信じるが、それは理性によって設計された未来社会である。右翼の信じる理想社会は遠い過去に想定された神話的な古代社会である。ヒンドゥー・ナショナリズムやイスラム原理主義が右翼である。日本の右翼は国学思想に代表される。天皇の大御心に従うということで、国民は余計な謀を慎むべきである、ということになる。そのためには天皇との心を通わせるための和歌が重要な素養となり、かくして神々と一体化することになる。日本の右翼思想では、天皇を除けば国民は平等である。「一君万民ナショナリズム」である。これは明治維新の思想的背景でもあった。ここでナショナリズムについて説明される。ヨーロッパでのナショナリズムは絶対王政の思想である「王権」、つまり王は国家の単位を超えて「神」から権利を授かっている、という思想に対する啓蒙主義の反発から生まれたものである。啓蒙主義者達は国家は国民のもの(国民主権)であり、国家の内部において全ての人民は平等(国民平等)である、という形でナショナリズムを唱えたが、これは一君万民ナショナリズムとうまく整合した。天皇が人間的な直接支配を避けて、自らを「神」として自己同定したためである。明治維新は建前上それを目指した筈であるが、実態としては、平等ではなく藩閥政治であり、復古ではなく西洋化であった。そこから佐賀の乱、新風連の乱、萩の乱、西南戦争が起きた。それらは全て政府軍によって鎮圧されたが、鎮圧された人達は「自由民権運動」を起こした。そこから日本の右翼の源流「玄洋社」が生まれる。彼らの平等思想はアジアにも向けられ、国内の封建制とヨーロッパ列強による植民地支配に苦しむアジア諸国の人民を救済すべし、というアジア主義に発展し、実際現地での独立運動を支援していた。

      大正期、1919年に北一輝、大川周明、満川亀太郎によって猶存社が設立された。これは革新右翼と呼ばれ、本流の右翼とは異なり、設計主義者である。実際彼らの考えはマルクス主義であった。大川周明はレーニンに欠けている宗教性を持つガンジーを理想としている。北一輝は私有財産の制限や大企業の国営化などの構想を発表している。本流の右翼はこのような「計らい」を近代理性主義・合理主義と捉えて邪悪なものと考える。「設計」が天皇の上位に置かれてはならない、ということである。革新右翼の時代的背景は、日露戦争の「勝利」である。それまで明治の青年達には西洋列強という目標があったのだが、ロシアに勝利することで達成感を得ると、目標を見失ったのである。個人のレベルで暴発して次々と事件が起きた。1903年には藤村操の自殺事件、1921年には朝日平吾の原敬首相暗殺事件が起こり、引き続いて濱口雄幸暗殺事件、五・一五事件、血盟団事件、二・二六事件と続く。血盟団は日蓮宗に帰依した特異な思想を持つ。全人類が天皇を中心として宇宙と一体化するために、「君側の奸」に対して「一人一殺」を唱えて実行した。革新右翼もまた世界の同義的統一を唱え、北一輝も「世界連邦」を構想している。その「道筋」として、アジアの植民地支配を推進することになった。やがて、石原莞爾がアメリカとの最終戦の為に国力が必要であるとして満州国を構想することになる。戦後、革新右翼の生き残りは世界連邦運動に寄与した。1952年第1回世界連邦アジア会議が広島で開催され、「再軍備反対」「絶対平和主義」を唱え、超国家主義者達が呼応した。戦後右翼の代表である笹川良一も「人類皆兄弟」と唱えている。

      ということで、中島氏は自民党にここでいう「保守主義」の復興を期待している。極論に流されず、伝統に即して、冷静に、、、とは言っても、具体論になると、どうしようというのかさっぱり判らない。そもそも、ヴィジョンというものを拒否している。まるで責任を放棄しているようにも見える。人間というのは年齢と共に経験を重ねれば自然に保守主義になるものであるが、中には凝り固まってしまう人も居る。軽佻浮薄な議論や一時の熱狂に惑わされる無かれ、ということなのだろうが、そんなことなら誰でも言うことである。具体的に何か運動を起こそうとすればそんな事は言っておれない、というのも確かである。僕自身は高校3年生の時に江藤淳と小林秀雄に傾倒している級友に影響されて予備校時代までは随分と小林秀雄を読み込んだが、結局のところ、彼は修辞の達人に過ぎないということに気づいた。自身の無為を誤魔化しているだけである。級友はその後三島由紀夫に傾倒していったようであるが、その後は知らない。僕は大学に入ってからトロツキーの末裔達と付き合い議論する中で図らずも「保守」になってしまった。とはいえ、この講演は史実の整理として有用であった。

(2)「忠今・無・無責任」片山杜秀
      内容的にはある程度「未完のファシズム」 と重なっている。戦前戦中での日本政治の壮大なる失敗を反省して、しばしばその原因が本質的に日本的な「何事も決められない」社会とされてしまうことがある(丸山眞男)のだが、そうではない、というのが言いたかったことである。そのような普遍的な考え方としての日本思想を持ち出さなくてもよい。失敗の原因は明治維新における政治体制設計の欠陥にあった、ということである。東條英機はその欠陥を乗り越えようとして首相、陸軍大臣、参謀総長、等々を兼務することになってしまったが、四面楚歌で結局中途半端になって失敗してしまった。

      現在の日本の政治体制は三権分立と議員内閣制である。三権分立では纏まらないから(イギリスに倣って)国民の信託を受けた立法府が内閣を組織して行政府をコントロールしようという発想である。しかしながら、実態では、いざ大臣になってしまうとその原則は忘れられて行政府を仕切る官僚の言いなりになっている(と言われている)。どうしてそうなるのか、その起源は戦前の政治体制にある。明治憲法が出来た当時は民選議員が政党として纏まってきて、それが政党内閣を形成する、となると、日本の国体たる天皇大権に抵触せざるを得ない。民意と天皇が敵対する、という事態は「あってはならないこと」である。従って、内閣は天皇が直接任命することになり、しかも軍隊は三権とは独立して天皇に直属することになった。形式上は天皇が全てを直接配下に置くことになるが、その天皇は(ご本人の弁によれば)「立憲君主制」の原則に拘って、奏上される意見に逆らわなかった。(例外は二・二六事件とポツダム宣言受諾だけである。)明治時代には実質的には明治維新の生き残りたる元老が超法規的に政治を(つまり天皇を)支配していたが、彼らが死に絶えると、日本は各組織が覇を競う状態になってしまい、結局は関東軍が先導することになった。敗戦後は戦前に途中で追放された統制派の流れが戦後の官僚を構成している。戦後、丸山眞男はそういった無責任体制の起源を古事記、日本書紀の時代から綿々と引き継がれてきた日本人の精神構造に帰した(「歴史意識の古層」)。彼が青春を過ごした大正時代には、日露戦争が契機となって、これからの戦争は総力戦になるから、日本は強力なリーダーシップに基づいた政治が必要である、として様々な試みが為されるが、それらは全て失敗し、結局は原理日本社の「中今」とか、京都学派の「無の政治」といった、ヴィジョンは無用でありあるがままに天皇の御心に従うべし、つまり考えることの放棄へと流れていった。それを痛切に感じていた丸山眞男が諦めの境地に至ったのは無理も無い。

      明治憲法の当初の案では「天皇が日本をしらす」と書かれていた。「しらす」というのは古代語で、強権政治を意味する「うしわく」に対置して、以心伝心で天皇と国民がお互い合い通じることで自然に政治が行われる、という意味である。天照大御神以来の日本の伝統(というよりも天皇家の伝統)とされる。しかし、これでは西欧諸国に通じないために、「統治する」という表現に変えられた。明治の頃にはそれがコンセンサスであったのだが、大正・昭和に至って忘れられ、天皇にリーダーシップを求める考えが出てきた。(その起源は西南戦争の反省にあるということである。)しかし、そのような運動は結局失敗して、一部の軍部が主導権を握ってしまった。これはしかし、太古の昔からリーダーシップを嫌ったからではなくて、明治時代に機能していた元老のリーダーシップが失われただけの話である。つまり憲法に規定された権力構造がそれに適応していなかったのである。憲法を変えれば良かったのであるが、それは何しろ欽定憲法であるから天皇にしか変えられない。だからこれからの総力戦に備えるために国家社会主義の運動(統制派)が展開される。近衛文麿の大政翼賛会である。しかし、伝統的な右翼(原理日本社)はそれはヒットラーやスターリンのやり方である、と批判する。皇道派は別種の国家社会主義、つまり農本主義を唱えた。農民の平穏な生活と天皇の慈悲が彼らの理想であった。だから、貧しい農民の側に立って見たときに財閥と天皇の側近達や大臣達は抹殺すべき対象として見えた。実際暗殺事件を繰り返して軍部のリーダーシップへと道を開いた。

      世界最終戦に備えて日本を成長させようとした石原莞爾が追放されて統制派が凋落した後、皇道派は何を考えたか?いろいろな人が居た。合理的に考えると、これでは戦争が出来ない、少なくとも長期戦は無理で、短期決戦ですばやく講和に持ち込むしかない、ということになる。それが酒井鎬次である。(山本五十六もそうである。)しかし、陸軍を実際に導いたのは東條英機であった。彼は石原莞爾にも酒井鎬次にも従わなかった。確かに物理的に考えれば今の日本には総力戦はできないが、その代わり日本には「精神力」があると考えた。そのブレーンが中柴末純である。彼は「真鋭」、つまり相手が圧倒的に強大であろうとも、勝つ負けるは考えずにただ最後まで戦う、という「戦術」を昔の文献に発見する。天皇と臣民は一体であって、天皇が生きている限り臣民が死んでしまっても国体は維持されるから、最後まで戦えばよい。敵はその勢いに気おされるであろう、という。玉砕と特攻の正当化に繋がった。

      太平洋戦争初期に日本が華々しい戦果を挙げていた頃、京都学派の高坂正顕はリーダー不在のまま政治(戦争)が暴走する様を「無の政治」として賞賛した。彼の唱える世界史4段階説は、自然神→キリスト教(絶対神の支配)→ヨーロッパ近代(人間支配)→日本で始まる無の世界、である。これに対抗して佐藤通次などは「無」という西洋概念を批判して「生身の有」がすでに現在の日本であり、その美しさを生きることが素晴らしい、という。美しいままで死んでいくのだから、玉砕や特攻が賞賛される。戦後、丸山眞男はそれらを「無責任」とし糾弾し、その背景に日本独特の「中今」(いつでも現在に溺れていればそれでよい)という思想、つまり理性の否定)がある、とした。しかし、「中今」というのは昔から日本にあった概念ではなくて、原理日本社が「しらす」政治を理想化するために作り上げた思想である。いずれの側も古代日本にそれがあったと主張し、その評価だけが真逆になっている。そうではなくて、悲劇の本当の原因は、元老たちが帝国憲法制定に際して自らの役割を天皇の後ろに隠したからである。現在の憲法で元老に相当するのは勿論初期の占領軍としてのアメリカである。背後から操るアメリカが衰退するときに憲法の欠陥が表にでるだろうか?既に軍隊の放棄は変身したアメリカの冷戦対応に合わなくなったから、自衛隊の位置づけが難しい。戦争放棄の方はどうか?これもアメリカが軍備削減に向う中で都合が悪くなってきている。これらが憲法の欠陥なのか、それともむしろアメリカの変身に対する日本の武器なのか?が問われている。

(3)「文系知識人の受難−それはいつから始まったか」高田里恵子
      西欧では知識人や軍人はエリートとして大衆から認められて育てられ、その自覚を元に政治に関わる。しかし、日本では特に文系知識人は大衆から侮蔑され、自らも日々の生活の中で生きている大衆に対して劣等感を抱いている。文と武、文系と理系、文科と法科、という区分けにおいて、文は全てにおいて「敗者」の意識を植え付けられている。

      西欧の制度からいうと、イギリスの場合、軍隊は志願制でパブリックスクール出のエリートが国家の為に志願した。ドイツ帝国では徴兵制であるが、学歴が高くで経済力のある(兵備が自給となるため)者には徴兵期間が短く設定されていた。そして彼らから試験によって将兵を選んだ。社会の知的上層部や官僚が軍隊を構成し、それによってナショナリズムを醸成した。日本は当然ドイツ帝国の真似をしたのであるがうまくいかなかった。士族の子弟たちは軍隊よりは帝国大学のほうに流れていって、ドイツ程志願にお金が必要なかったために志願した旧制中学卒業者たちも将兵になるための試験にわざと落ちていた。というのも将兵になると準備のための資金が必要となるからである。つまりドイツにおいてエリートを軍隊に引き寄せる制度であったものが、日本においては合法的な徴兵逃れ(短期化)の手段になってしまった。ナショナリズムは旧制高校や大学で醸成された思念的なものと軍隊が当然抱く即物的なものとに分裂してしまった。

      大学も同様であって、西欧では高校卒業資格=大学入学資格というものが社会的に認められていて、それが同時に一年志願兵の資格になっている。だからそのまま直ぐには大学に行かない人も多い。日本では大学毎に入試があり、高校はそのための予備校としてしか評価されていない。だから経済的成功の為に進学熱が起こり、さまざまな中間段階の学校が出てきて、エリートと大衆の間が隙間無く連続化されてしまった。このようにピラミッド構造でありながらも境界が曖昧な階層構造は、人々に、本当は俺だってあいつと違わないんだ、とか、自分の現在の階層もちょっとした偶然ではないか、という疑念を膨らまさせる。これが劣等感や優越感や恨み(ルサンチマン)の土壌となる。

      文系と理系の問題は1886年に出来た帝国大学に工学と農学という実学を入れたことに始まる。ヨーロッパではそれらは技術ということで大学には入れなかった。しかし旧制高校においては人文系と西欧語という教養科目が中心であったから、戦争末期になって、学生の内文系だけが徴兵され、エリートでありながら二等兵にされてしまった。文系の中でも法科の方が官僚養成であるから強い。全てにおいて文系知識人は敗者であったからこそ、自己尊敬度が高く、批判精神が強い。それでいて大衆からは尊敬されない。戦前、軍国主義に抵抗したのは旧制高校と帝国大学、特に東京帝国大学の法学部であった。いわば自由主義の牙城である。しかし、彼らは民衆の支持を得なかった。民衆は軍隊を支持したわけではない。彼らは、高等教育から直接の恩恵を蒙っているとも、大学が自分たちの生活の利益を守るものとも考えない。それに対して、軍隊は彼らの生活に直接触れているが為に親しみを覚えていたに過ぎない。(竹内好「学歴・階級・軍隊」)このようにエリートが大衆に信頼されていない、という事が日本社会と西欧の大きな相違であった。

      彼女の観察は確かに当っているような気がする。僕の海外生活はカナダでしかないが、職能とか階層は明確である。また知的エリートは政治に責任感を持っているし、大衆はある程度知的エリートを信頼している。日本では、というか僕自身を振り返ってみれば、郷里に帰って周囲を見渡したとき、彼らの生活意識というものがいかにも古臭く感じてしまう。そういう意味で優越感があるのだが、他方僕自身が持つその優位性というのは何の実際的意味もない、ということや、本当のところ現実生活に適応して幸せなのは彼らの方だし、社会を支えているのも彼らのほうである、ということにやや後ろめたさのようなものさえ感じる。自分がやってきた学問や技術や商品開発は結局資本の自己運動の補助であり、社会生活の基盤にとってそれほど意味のあるものとも思えない、という意識がどこかにある。理系ですらそうなのだから、文系の人たちは余計にそうだろうし、そういう意識が多くの学生を「擬似」政治運動や「擬似」宗教に引き寄せる傾向があるのも確かであろう。僕がそのような運動と日常的に接していながらもそれから逃れえたのは、高校生活の中で中島岳志流の「保守」思想に触れていたからかもしれない。つまり、そういう自分自身の意識をすでに対象化していたからである。

(4)「思想史からの昭和史」上村和秀
      明治期日本は云わば個人商店経営の国家であったが、大正期には大企業級の国家になってしまった。そこでは個人の働きよりも組織が表に出てくる。政治が生活のあらゆる側面に侵入してくる。アナーキズムやリベラリズムは衰退する。思想的には明治時代に残っていた江戸時代の思想が過去の遺物となり、新しい思想を構築する必要が出てくる。その中で日本を見直す動きが出てくる。欧米でも同様である。ドイツもイタリアも統一されてナポレオン戦争が過去となる。アメリカでは南北戦争を経て建国時のアメリカが過去となる。ロシアはクリミア戦争と農奴解放によって土俗的なロシアから近代国家に変わる。いずれの国でも政治が生活に浸透し、国家が国民意識の前面に出てくる。

      日本を見直して国家を論じる思想を右翼と左翼に仕切るだけでは不十分である。もう一つの分類軸は、理念を重んじてそこから現実を演繹する立場と理念よりは気合と重んじる立場の区別である。後者は反あるいは前近代的発想であり、非政治的でもあるから、左右で分けるよりは正負で分ける方が適切である。

      理の軸の右側の代表が平泉澄である。東大国史学の教授で戦後は平泉寺白山神社に籠った。皇国理念を結晶化させ戦前には軍を統率して暴走を止めようとしたが失敗した。戦後は自衛隊に働きかけている。左側の代表が丸山眞男である。国民主権を理想とした。この2人の対立は判りやすいが、しばしば平泉は右翼から、丸山は左翼から批判される。その論点は政治や政策ではなく、彼らの理論的な発想への反発である。つまり気の軸からの批判である。その気の軸ではポジティブの極として西田幾多郎がある。理屈に拘らず創造的なものを追い求めヨーロッパ近代を超えた先に日本が貢献すへきである、と考えた。ネガティブの代表が菱田胸喜である。彼は他人を批判してばかりいた。滝川事件、天皇機関説事件において徹底的にあら捜しをして世論を巻き込んだ。その批判の根拠は原理日本の信仰である。昭和21年に自決した。この2人は論理的に説得することには長けていないが気力で人を惹きつける点が共通している。丸山は成り行き任せということを極度に嫌ったから、気の軸を批判し、特に蓑田を毛嫌いしたが、平泉については語らない。蓑田は西田と競うが追いつけない。西田は蓑田を相手にしない。丸山は西田に冷淡であり、はっきりと西田は判らないという。平泉は蓑田に冷淡で相手にしない。平泉は西田を尊敬していたらしい。

      終戦に対して平泉は賛成した。なぜなら天皇が決断を下したからである。自らの天皇主権を実証したことになる。戦後天皇は主権を奪われたわけであるが、それくらいは何でもない。建武の中興から500年経って明治維新で主権を奪回し、今回失った。何百年経とうと天皇主権は蘇ると信じている。平泉の弟子には、終戦時陸軍大臣阿南惟幾、戦後陸軍大臣として軍を解体した下村定、内務省警保局長の橋本政實が居る。つまり、彼らが終戦において最も危険な役割を担った。陸軍クーデターの首謀者である竹下正彦もまた平泉の弟子であったが、最後に決別してクーデターに走った。

      安保闘争において丸山はそれを勝利と総括した。安保が自然延長されたにも関わらず、岸首相が辞任したからである。国民が自ら立ち上がって首相を辞任させた、ということが国民主権を実証したからである。吉本隆明は丸山の総括に怨念のような反発をし、後に学生活動家に丸山が糾弾される。

      蓑田は戦争が進行していく昭和10年代に日本について語る全ての人達を糾弾した。彼にとって日本は自己そのものであり、他人に語らせてはならない聖域であった。親鸞に傾倒していたが、南無阿弥陀仏ではなくて南無日本と唱えていた。蓑田に似ているのは中国の紅衛兵(毛沢東を絶対とする)や現在のネット右翼、更には三島由紀夫である。彼もまた自分を日本に封印し、日本が滅びていく以上私も滅びる、と感じていたのではないか?一部の学生運動の悲惨な末路もそうである。同じ頃西田は新しい秩序原理を次々と構想して京都学派を形成することになった。

      靖国神社にA級戦犯を合祀したのは松平永芳宮司であったが、彼は平泉の弟子である。皇国理念の亡失した政府に対して靖国神社は妥協すべきではない、と考えて、あえてA級戦犯を合祀した。政治的行動ではなく、何百年かの先を見据えた思想的行動であった。

      日本国憲法の第一条、象徴天皇制は平泉の天皇主権と丸山の国民主権の対立をうやむやにしてしまった。いずれの立場からも中途半端な条文である。

(5)「ニッポンの意識−反復する経済思想」田中秀臣
      20世紀始めの日本は「貧困」「社会」「自由」というテーマを軸として複眼的な経済学を構築していた。21世紀始め(今日)の日本もやはり同じテーマを軸としているということから、何か学ぶべきことがないかと考えた。

      20世紀始めの経済学者として河上肇と福田徳三を採りあげる。2人とも経済上の理想社会を労働時間の短縮による自由時間の獲得や人間の解放に見た。河上肇は内村鑑三(経済学上は人間と人間の関係は神との関係を通じて成立しているという事に要約される)の影響を受けていたが、そこから逃れる。彼はまた吉田松陰のナショナリズム(独自性故の日本の優秀性)にも影響を受けているが、志賀重昂の日本の風景の独自性をナショナリズムの根拠とする考えには批判的であった。河上肇は西洋と日本を対比して、西洋は個人主義であるが日本は国家主義である、とした。個人という人格が存在せず、国家が人格である。本来の社会政策である所得の再分配は貧しい人を救うものであるが、日本では貧しい個人という人格を認めないから成り立たない。だから、国家としての生産性を向上させるしかない(成長戦略)。内村鑑三であれば神を意識することによって個人の生産意欲が生じるのであるが、河上は国家を意識することで個人の生産意欲が生じると考える。つまり国家が神なのであって、天皇であれなんであれその体現に過ぎない。

      他方、福田徳三はドイツのカール・ビュッヒャーに学んでいて、その経済発展論の影響を受けている。物々交換の時代には個人という単位は存在しないが、分業が発展することで大家族が生まれチームに分離していく。生産性が上がってくると経済の規模が大きくなり、他方で職業団体のような単位が発生する。更に発展するとそのような単位の中で個人の力が強くなり個人経済が誕生し、一方では組織が大きくなり国民経済となる。こうした経済単位の大小への分離によって個人と組織の間の緊張関係が生まれて、それが社会として意識されるようになる。こういう考えから社会問題の解決の経済学が構想され、その中に所得分配という考えが含まれる。

      輸入米に関税を設定するか、それとも日本米生産者に補助金をあげるか、という問題に対して、河上肇は関税論(保護貿易論)であった。軍事力を支えているのは農村であり、農村を保護しなければならない、というものである。福田は非関税論(自由貿易論)であった。貿易の利益は個人の経済状況を改善するものでなくてはならないからである。当時、自由貿易論は過激思想として国家から監視されていた。

      渋沢栄一が構想した田園都市は、都市への人口集中を緩和して郊外に住居地区を作ろうというものであった。河上は都市に集まるサラリーマンは農村からやってくる。彼らの健康維持は逞しい兵隊の育成の阻害要因である。だから健康的な生活の為に田園都市を開発すべきである、とした。福田は、そもそも、人々は封建的な主従関係で農村に拘束されているから、そういう構造問題を解決しない限り都市への人口集中は起きない。都市型労働者の悲惨さは人口稠密のためではなく低すぎる賃金のためだから、まずは賃金を上げることが先決である、とした。そうすれば生産性が増す。だだ、事実からいえば人口集中は起きていて、それはサラリーマンではなく経済的底辺のサービス業の人たちであった。

      江戸時代の経済学者に三浦梅園という人がいて貨幣経済と農業について論じている。梅園が貨幣経済が農業経済の衰退を齎すことを憂慮していたが、本居宣長のように貨幣の使用禁止を訴えるのではなく国家(共同体)を破壊しないように貨幣を制御することを論じた。梅園は共同体破壊の主因は貨幣ではなく、それを操る「遊手(有閑階級)」である、とした。梅園はまた有閑階級の強欲によって労賃の低下が生じると考えていた。河上は梅園に日本独特の国家主義を見てこれを評価し、彼の貧困論に触発されてそれを「貧乏物語」に結実させた。福田は梅園の貨幣論に貨幣数量説(物価は貨幣の流通量に支配される)を見たのみである。左右田一郎は福田の弟子であったが、ドイツに留学して貨幣の起源のネットワーク説(近代的な諸個人が評価社会で繋がることに由来する)を唱えた。福田はそれを認めず、貨幣は共同体の権力者が与えるものであり、その発展に従って今日では国家が管理すべきものである、とした。

      河上肇は第一次大戦当時ヨーロッパに留学していて、そこで日本民族の優越性を論じる。日本民族は遺伝的に純粋だから優秀なんだという。しかし遺伝的に強健な人ほど競争に弱いから、戦争も厳しい仕事も避けたほうが良い、という。「貧乏物語」も弱者救済が目的ではなくて、社会強者が健康を壊すのが問題である、といっている。ワーキングプアの問題に河上が見たのは所得分配の問題ではなく、資源配分の効率化の問題であった。河上が問題にした生産の非効率化は、贅沢品を作りすぎている、という点であった。無駄なモノを作りすぎているから過剰労働が起きる。それをやめれば労働時間は短縮されて余暇も増えてハッピーになる、ということである。この「構造改革論」は戦時中の経済政策で蘇った。三木清、笠信太郎、大河内一男等がその影響下にあった。

      福田は高賃金が生産性を高めるというロジックではあったが、その目的は労働者の人格の保全であった。だから、1910年台になってある程度賃金が上昇すると、それよりも最低生活保障を論じ始めた。人は働くから偉いのではなく、人それぞれうまれながらにして生きる権利がある、とした。国家を国民の為にあるものと考えた。しかし、一方で、マルサス的な弱者の淘汰によって経済が発展する、という清算主義を支持していて、その矛盾を解決できないまま生涯を閉じた。その点石橋湛山は清算主義を批判していて、失業を防ぐ方法を考えていた。今で言うリフレ政策(インフレ誘導)を提唱した。

      その後、河上は自らの内部に残っていた内村鑑三の影響によってか、日本独自の国家主義に決別して一気にマルクス主義に傾いていった。福田はマルクス主義を徹底的に批判していて、むしろ資本主義を極めることによって社会主義を超えると考えた。テイラー主義(生産管理主義)も批判し、彼が認めたのはフォード主義(製造工程の効率化により生産性を高める)であった。(戦後、有田広巳は日本独特の産業合理化、つまり傾斜産業方式を唱えて福田を批判した。)

      結局、福田の清算主義的な側面と河上の国家主義的側面が統合されて、昭和研究会(三木清と笠信太郎)に引き継がれ、日本は戦時体制に移行した。三木は「日中戦争というのは現実ではない。それは大東亜共栄圏の構築の為の戦いであって、一つの試練に過ぎない。今正に日中人民の友好が進んでいるんだ。」と言った。日本国内政策の失敗を認めず、東アジアを巻き込む事で解決して行こうとした。これに対して、石橋湛山は、植民地経営のコストよりも自由貿易をした方が同じ対価を得るのによほど安上がりであることを具体的な数値で示した。しかし、多くの知識人はそのような合理的思考を拒否した。

      ここで田中氏の低成長社会や定常型社会を支持する人たちへの批判が出てくる。今の日本は経済成長が飽和しているからそれに適応すればよい。無駄なモノを作ってまで成長する必要は無い、という考えである。高橋亀吉はその無駄なモノを「仮需」と呼んだ。そんなものは無くてもよい、ということである。田中氏はそのような低成長社会論が戦争へと向う清算主義と同根であるという。(ここのところが僕には判らないが。)無理をして我慢すれば低成長によって多くの人が不幸になるだけである。バブルを怖がって押さえ込む必要は無い。それは資本主義の常態である。技術進歩や新しい需要は必ずどこかにある。期待デフレになるのは投資や消費の機会が飽和しているのではなくて、単に貨幣の価値が上昇している、つまり金融政策が緊縮的なスタンスにあるからである。要するに日銀がお金を出さないからである。ということで、アベノミクスを支持している。

      1930年代の日露戦争後、軍事費の増大で国家財政は破綻寸前だった。つまり戦争では勝ったかも知れないが事実上は負けていた。政策担当者は判っていたが、しかし国民の大多数は勝ったと思い込んで経済再建よりも領土の拡張に進んでいった。田中氏はこれが清算主義(定常型社会礼賛)の結末だというのであるが、どうもよく判らない。田中氏は、単なる景気の悪化を日本の構造的な問題であるとして誤解して、経済構造を変えて低成長でやっていけるようにしなくてはならない、という論理を批判しているようである。それよりも目の前のリスク、つまり期待デフレを素早く解決することに集中した方が良い、ということである。経済の現状をより根底的に深部から考察していくことは却って危険な結末を齎すのではないか?という意味で、日露戦争後の日本が経済政策よりも持たざる国日本の克服(東アジア侵略)に向ったということを例として採りあげているようである。どう見てもこれは論理の飛躍ではないだろうか?田中氏は途中でフリードマンに触れて、彼はケインズを批判したマネタリストであり、市場原理主義で弱者の敵と非難されているけれども、社会保障論にかなり精力を割いていて、負の所得税のような事を言っている。経済競争を促進することの保障として最低生活保障の重要性にも触れている、という。アベノミクスを支えているリフレ派が歴史の教訓としているのは、1920-30年の昭和恐慌のようである。時の政府と日本銀行による超緊縮政策によってデフレ期待が生じて恐慌に至った。高橋是清はそれを転換して金融緩和によって恐慌を脱出した、ということである。まあ、いろいろと本も紹介されているのでいろいろな見方を勉強してみようか、と思う。

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