午前中に三越まで電車で出かけて、家内に頼まれたシフォンケーキ等を買って、丸善で目に付いて片山杜秀の「未完のファシズム」(新潮選書)を買ってしまった。それから、東急ハンズで義母用の大きな爪切りを買って、中央図書館に行って「現代宗教意識論」を返して、雑誌を読んだ。「思想」の2月号に台湾の社会学者汪宏倫が東アジアの歴史の見方についての論文を書いていた(翻訳)。「戦争のフレームワーク」という立場から東アジアの近代化を論じる。中国共産党の戦争観(日本帝国主義の残虐性)、大東亜共栄圏構想(日本は欧米からアジアを解放しようとした)、アメリカの戦争観(一部の軍人達が日本人や天皇を戦争に巻き込んだ)、の3つが決して譲り合うことなく、国際政治の形態を借りて未だにあの戦争は続いている、という見方である。確かに戦争という見方を避けていては東アジアの近代化は語れない。

第1、2章:第一次世界大戦と日本
      日本の指導者は何故無謀な戦争に突き進んでしまったのか?というのは現在最も重要な設問であるが、必ずしも納得できる答えは見つかっていないし、そうである限りまた繰り返す可能性もある。ヨーロッパは第一次大戦が始まった当初は、フランスもドイツも日露戦争での日本の肉弾戦の際どい勝利を見て、歩兵重視の戦術を取っていたが、やがてその誤りに気づく。多大な犠牲を払って、以後の近代戦は従来のような軍人の戦争ではなく、国民全員の戦争、国力の戦争であることを学んだ。戦後、日本だけは漁夫の利を得て、日露戦争で国家破綻の瀬戸際まで財政悪化していた国力を回復させ、ひたすら狂喜していた。少数の例えば徳富蘇峰などは、大戦で無傷だった日本は近代戦について何も学んでいないのではないかと警告していた。しかし、日本陸軍は逆に日露戦争を反省して、今後肉弾戦はますます通用しなくなることを学んでいたから、唯一日本が参戦したドイツの青島基地攻略を近代戦の予行演習として、開発したばかりの火器を大量に持ち込んでドイツ軍を物量で圧倒していたのである。ただ、日露戦争勝利の印象に支配されていたマスコミはそれを手間ばかりかけた臆病な戦いとして揶揄していた。

第3,4章:陸軍におけるアイロニカルな没入
      近代戦が物量の戦争であり、民需物資の生産能力はそのまま戦時物資の生産能力でもある、という認識は陸軍では充分認識されていて、大正15年刊行の欧州戦争叢書の中の「世界大戦の戦術的観察」で総括されている。その事の情宣も行われていた。一方で、そうだとするならば、国力において一桁劣る日本には近々の戦争における勝ち目は無いということになる。軍隊の責務としてそれは在り得ないことなので、何とか希望を持たねばならない。そういう背景から、第一次世界大戦でのドイツ軍のタンネンベルグの戦いが神話化されて、陸軍で暗記させるまでになる。それは圧倒的に優勢なソ連軍に対して、少数のドイツ軍が勇気ある遊撃戦を行い、一点集中的に戦力を配備して敵の側面をついて勝利した、という戦いであった。同じ欧州戦争叢書の中に、「殲滅戦」があり、その中では、徹底した攻撃思想、両翼包囲と果敢なる追撃による短期決戦が推奨されている。

第5章:「持たざる国」の身の丈に合った戦争(皇道派)
      もともと日本陸軍のモデルはフランス陸軍であり、フランス陸軍は守備重視の思想であったが、普仏戦争でドイツに敗れたので、日本の陸軍はドイツモデルに鞍替えをした。その思想で日露戦争に勝利したのであるが、実際には騎兵による側面攻撃によって敵を撹乱して危うく勝利したのである。ドイツ陸軍はそれを観察していて、応用して成功したのがタンネンベルグの戦いであった。大戦全体で見るとそれは例外的な勝利にすぎなかったのだが、そもそも国力の劣る日本にとっては余りにも魅力的な戦術だったが故にそこに縋って一般化してしまったと考えられる。1928年には統帥綱領(大規模部隊を指揮するときの心得や規則)が殲滅戦思想に沿って書き換えられた。兵站(補給)の項目は空白となった。短期決戦に補給は不要だからである。政治や外交については、それに左右されていては勝機を逸するからある程度の独断が必要である、と変更された。近代戦については、兵隊や兵器や弾薬は足りないとしても戦うのが日本陸軍であり、気力や創意工夫や作戦で補えばよい、と書いてある。1929年には下位指揮官向けの「戦闘綱要」も改訂され、側面攻撃による包囲殲滅戦という理念が徹底されている。これらの中心となったのは「皇道派」の荒木貞夫、小畑敏四郎、鈴木率道でり、特に小畑は指揮官を教育する立場にあった。誤解してはいけないが、彼らにも充分準備された敵に対しては包囲殲滅戦が適さないということは判っていて、実際そのことは「殲滅戦」の中にも書いてある。そもそもそのような敵国と戦うということは想定されていなかった。ただ、統帥綱領や戦闘綱領に強い敵とは戦うなということは書けないのである。そのような戦争にならないためにこそ外交がある、と考えていた。

      小畑は第一次大戦中3年間同盟国軍人としてロシア軍に随行してドイツ戦を観ていた。資源と国力に勝るロシアに正面から挑むことは無謀であり、ロシアの日本への侵入に対してだけ戦うべきである、との信念を持った。また、彼の目の前でロシア革命が起きたのを見て、これたけの大国ですら持久戦を続けると内部から崩壊する、というのだから、短期的に勝つ戦略を立てなくてはならない、と考えた。兵力的にロシアには勝てないのであるから、それを補うためには精神的な戦力と統帥と戦略と戦術に頼るしかない、と考えていた。つまり、彼の「殲滅戦」は満州に侵入してくるロシアとの戦いに限定したものだった。中国の国民党政府やましてアメリカ等とは戦ってはならないと述べている。しかし、二二六事件により皇道派が追放されて、日本の国力は欧米に追いつけると考えていた「統制派」が陸軍を掌握することで、小畑の殲滅戦思想だけが残ってしまった。

第6章:「持たざる国」を「持てる国」にする計画(統制派)
      さて、統制派である。その原点である法華経は現世の浄土化を目指す。その為には現世の多くの人たちが法華経を熟読して「良い行い、人を助ける行い」をしなくてはならない。日蓮は鎌倉時代を末法と捉えて今こそ法華経を広めなくてはならないと考えた。田中智学は日蓮宗にナショナリズムを加えた。彼は僧侶として寺にこもるよりも在野で世の改革をしようとして立正安国会を立ち上げて1914年にはこれを国柱会とした。(宮沢賢治は奉仕の精神を求めて国柱会に参加し、田中智学の指示により、法華経の布教活動として童話を書いた。)田中智学の日本論では、日本は何も無い国であり、創造性も無いが故に世界の文明を吸収して融合させる事ができる国である。世界諸民族のいずれに対しても同情の心を持つ、これが「ものあわれ」の正体である。日本は江戸時代まで眠っていたが明治維新以来目覚めた。西洋諸国の我欲による世界戦争を鎮める役目を負っている、というものである。「八紘一宇」(世界が一つの家になる)という言葉も彼が日本書紀から拾い出して広めた。賢治より少し前にその国柱会に入会したのが石原莞爾である。

      皇道派が日本を持たざる国と規定して大きな戦争を避けて、短期小規模の殲滅戦に徹して精神主義で国を守る、という考えであったのに対して、統制派は何とかして日本を持つ国にしようとした。これは軍略というよりも産業政策である。軍隊だけでなく経済を統制し社会主義的な計画経済を構想していた。

      統制派の永田鉄山は、いざ戦争となると国家資源が決め手になるわけだから、それを調査しなければならない、ということで内閣の外局を作った。その考え方は1926年の「国家総動員之意義」という国民への啓蒙書にあるが、調査と足りない資源の拡充を主張するばかりで、具体的な計画はなかった。いざとなると精神論に傾く。ところが、石原莞爾だけは本気で考えていた。師の田中智学は、日本はいずれ東洋の代表として西洋を代表するアメリカと最終戦争になるだろうと言った。根拠ははっきりしないが、それは1966年とされた。その戦争に勝利して、「一天四海皆帰依法」(全世界が妙法蓮華教の教えに折伏される)の状態になる、という。それまでに何としても日本の国力がアメリカを凌駕するようにしなくてはならない、と考えた。そのための方策を伺いに伊勢神宮に詣でると、眼前に地球が姿を現し、金色の光が日本から満州に渡って光りわたるというヴィジョンを見たと言う。ここから、中国を支配下に収めて近代化しなくてはならず、手始めに満州を産業国家の基点にする、という具体的な方針を立てた。これはもはや信仰である。

      たまたまと言われるが、ともかく関東軍参謀に任じられた石原は1931年に満州事変を起こし、翌年には満州国を建国した。その資源だけでは国力にならないから、彼は人材論として「五族協和」(日、満、中、朝、蒙)を唱えた。彼の想定した最終戦争は近代戦のような消耗戦ではない。1966年時点では科学技術の進歩により兵器の破壊力も桁違いになっているから、一瞬で勝敗が決すると考えていた。1940年当時、アメリカは大恐慌の影響で経済成長が止まっていたが、日本の成長率は高く、確かにそのまま推移すれば1966年には追いつくという計算も理屈上はあり得た。彼はドイツやソ連の計画経済に着目し、1936年から満州国で「満州産業五ヵ年計画」を実施した。鉄鋼生産量を5年で5倍にしようという計画は5年後の1941年には半分程度しか実現しなかったし、石炭液化事業は採算が取れなかったが、これは奇蹟と称えられたソ連の五カ年計画に匹敵する位の成果であった。次の10年でソ連の侵攻を防衛できるだけの国力が備わると考えていたが、その年1941年に、余りにも早すぎた日米戦争が始まったのである。石原莞爾は政治に首を突っ込もうとして参謀本部に厭われて、ついに現役から引退させられていて、第二次五ヵ年計画は消え、満州国自体も敗戦で消えた。1945年に為す術もなく生き残った石原は「最終戦争決戦兵器研究」を目的とする技術者連盟の結成を訴えているが、4年後に亡くなった。

第7章:未完のファシズム
      1937年盧溝橋事件を口実に中国との戦争が始まり、当初の予想を裏切って1940年に至るまで泥沼化した。戦争の目的「東亜新秩序」が表明されたのは一年半後で、その意義付けは興亜院を作って審議したのち、更に一年後に公表されたが、神がかり的で意味不明、ということで、民政党の齋藤隆夫はそのことを理路整然と質問したこと(憲政史に残ると言われている)によって党からも議会からも追放された。

      彼が意味不明と言ったのは、「うしわく」にあらずして「しらす」ことを以って本義とすることは我が皇道の根本原則、という部分である。「うしわく」とは強権的な政治のやり方を指し、「しらす」とは上に立つものが自らの意思を持たず、ひたすら人民の心の鏡となってそれを代表して人民に知らしめる(意識させる)という政治のあり方である。前者の代表が大国主の尊の政治であり、後者がそれを譲られた天照大御神の政治である。当然、天皇はそれを自家薬籠中のものにしている、というのが、明治憲法の起草者の1人である井上毅の説明である。実際、明治憲法には権力の分散化と多元化の仕組みが工夫されている。立法、行政、司法が分かれているのは勿論であるが、立法においても貴族院と衆議院は同等の資格となっていて、その支配権が弱められている。内閣を指名する権限もない。行政では内閣があるが権限が弱く、枢密院があって内閣の判断を覆すことができる。軍隊は3権とは全く独立な存在で、お互いに相手を牽制できない。3権と軍隊を統括するのは天皇であるが、そこで天皇は伝統に従って「しらす」事に徹していたから、統制派のように国を一つの方向にまとめていくことはクーデターで憲法を停止しない限り不可能であった。明治初期には維新の功労者たる元老が実質上まとめていたが、これは憲法には記載がないし、居なくなればもはや誰も国を統率することができない無責任国家となる。東條英機は必要に迫られて、首相と陸軍大臣と参謀総長等を兼務することで整合性のとれた政治を行おうとしたが、「しらす」思想の中でファシストと弾劾され、言論統制や思想統制で乗り切ろうとしたが、結局辞職に追い込まれた。つまり、日本は資本主義体制の一つの選択肢であったファシズムを目指したのであるが、「しらす」思想の伝統に阻まれて未完に終わったのである。

第8章:「持たざる国」が「持てる国」に勝つ方法
      丸山真男の弟子の神島二郎は「政治を見る眼」の中で、6つの理念化された政治原理を挙げている。闘争、支配、自治、同化、カルマ、帰嚮(ききょう)である。カルマは運命、帰嚮は空気を読みあっている状態(日本的)である。彼はそれぞれの原理について、決め手となる観念、政治構造、政治組織、異議申し立ての形、その変化の形式、その価値、そこに参加する資格、を挙げた。「闘争原理」については、「構造」は敵と味方が常に存在すること、「組織」はよく統制された状態(治)、「異議申し立て」は反乱、「変化の形式」は敵味方の滅亡や交替、「価値」とは生命(生き残ること)、「参加資格」は自らを戦争の手段と化すこと、であるが、「観念」が何であるかには思い当たらない。それは、平安時代の兵学書「闘戦経」に見つかった。そこでは中国の兵法を理屈や計略に偏っているとして批判し、倭の教えは「真鋭」を説くと書いてある。これは、いつ如何なるときでも鋭い刀で相手を斬りに行く、という意味で、どんなに不利な状況でもとにかく徹底的に攻撃する、ということである。勝つか負けるかは考えずに戦うことに専心する、ということであるから、確かに、「闘争」という原理の決め手となる観念である。「闘戦経」は笹森順造が江田島兵学校に一部だけ残っていたのを見つけ、海軍兵学校で印刷され、一部の軍人に信奉された。東條英機のブレーンの1人であった中柴末純もそうであった。彼が関わったとされる「戦陣訓」の「生きて虜囚の辱めを受けず」の句はそこに由来する。

      中柴は「坂の上の雲」では租借地天津の街路工事を担当する工兵中尉であり、計算や製図をこなす技術者である。彼の合理精神は第一次大戦を総括した「戦争哲学 戦より平和へ」に良く現れている。第一次世界大戦は結果として国家総力戦になったが交戦国はその備えを充分してしていなかったことを猛省して、次回の大戦の為に各国は備えに余念がない、と分析している。しかし、皇道派のように戦争の相手を限定したり、統制派のように政治に口を出して軍人の本分をはみだしてはならない。軍人のやるべき事はとんな事態になっても勝てるように準備しておくことだ、と考えた。日本のような持たざる国ではそれは精神力しかないが、皇道派の想定したような弱い相手が来るとは限らない。だから精神力は無限大である、という風に突き詰めてしまった。

      退役後、中柴は東京帝大の倫理学教授吉田静致に学んだ。吉田の「同円異中心主義」というのは、自我というのはそれぞれの人において別々のものであるが、その内容を精査すれば全ての人に共通しているものがある。つまり、骨格だけを眺めてみれば異中心の円を重ね合わせて同一円にすることができる、というものである。倫理道徳に目覚めて人格を高めれば、心の奥底に素晴らしい普遍の高みが見えてきて、最終的には誰しもが金太郎飴のようなそっくりさんとして完成する、ということである。「多」が「一」に収斂していくが、個々人はあくまで特殊な存在であるからいつまでも吸収されることなく無限運動を繰り返す。それが理想国家である。ここで「多」とは国民、「一」とは天皇を意味する。要するに、日本国民はその枝葉を取り去れば、その本質において全てが天皇である、ということになる。中柴はその先に論理を進めて、そうであるならば、天皇が死ねといえば、それは自らの意思として死ぬのである。国民一人一人は例え死んでしまっても、天皇が生きている限りは国は滅びない、つまり負けない、という結論を導いた。こうして「玉砕思想」が導かれる。1932年の「まこととまごころ」ではあらゆる事物に潜む本質を「まこと」と定義し、それに近い大和ことばとして「みこと」を挙げ、これに最高絶対の意味をもつ「すめら」を付加して「すめらみこと」、すなわち天皇にまで結び付けている。なぜ天皇という字体かというと、白い王、すなわち無限に自由で清浄無垢だからであるという。天皇はおのれを鏡として国民の「まこと」を求めてやまない「まごころ」を映し出すことで、何も為すことなく国民を導くのである、とされる。さて、この世は移ろい行くものであって、定かなものはないから、「まごころ」もそうであって、真善美と対立矛盾する偽悪醜との刻一刻と形を変える相克・闘争の渦の中でのみ「まごころ」は「まこと」を求める、とついに勝ち負けを度外視した永久戦争が想定されるのである。

      こうして「戦陣訓」に盛られた思想の最初の「成果」が1942年6月アッツ島玉砕に実現してしまった。司令官山崎保世は150名程になった残余勢力全てで夜襲をかけ、生き残ることを考えずに戦うことを命令した。中柴は狂喜して、こういう戦い方は日本人にしかできないと自画自賛し、米軍側の新聞記事の翻訳を引用している。「日本軍の攻撃は明らかに絶望と判っていても大胆そのものであった。ここに日本人とわれわれの死生観の相異がある。それは功利観を超越したものであり、永遠の生命を信ずる尽忠の権化である。」中柴の作戦とは、このような恐怖心を起こさせて有利な講和に導くことであった。しかし、本当に彼はそれが可能であると考えていたのか?それは軍人としての建前だったのではないか?というのが片山氏の考えである。実際、1944年の「生産青年訓」では、1943年のソロモン戦線某参謀談の「戦闘に勝って敵の鉄量に負けた。戦いは血と鉄の戦いだったのだ。」を引用して、物量なくしてやはり戦争は勝てないと書いている。彼が戦争末期に期待をかけたのは婦女子の「まごころ」による生産力拡充であった。(このように、軍人としての立場を採るかそれとも経済人としての立場を採るかで考え方を変えるから、二重人格的な状況になる。結果的には片方だけが一人歩きする。全体の統率がしっかりしていれば、部分に忠実であることが結果に繋がるのであるが、そういう風にはなっていなかった。身近なところでも、企業における事業拡大の失敗はそうやって起きている。)

第9章:「持たざる国」の最期
      酒井鎬次は飛びぬけた秀才として陸軍士官学校を卒業した軍人であり、第一次世界大戦時には3年間に亘ってフランス軍に随行して前線から後衛までを見聞し、陸軍きっての国際派と言われた。その後も欧州滞在が長かったが、帰国すると参謀からは遠ざけられてもっぱら教育畑に廻された。あまりにも理路整然としていて疎まれたのである。日中戦争に至って酒井は速戦即決論者であった。持てる国との長期持久戦の悲惨さを見ていたからである。石原莞爾の構想には猛然と反対していた。日本を持てる国にしようという構想そのものが戦争のリスクを高めてしまう、つまり満州を支配すればソ連と戦争になる、持てる国になろうとすればするほど持たざるうちに戦争になるだろう、という事である。ただ、皇道派のように精神力で短期決戦をするのではない。彼の頭にあったのは近代的な装備のフランス軍であった。この点がロシア側で戦車より馬の活躍を見ていた小畑との相異であった。つまり、少数精鋭で最先端の装備をしておけば、少なくとも緒戦で電撃的に相手を叩き、講和に持ち込めるという算段であった。海軍の山本五十六と同じである。そのために彼は陸軍に航空部隊と戦車部隊を提案していた。その提案が実り中国戦線で機械化部隊を任されたのであるが、うまくいかなかった。山地が多かったという事もあるが、装備に新旧が混ざり、修理もままならず燃料も不充分という状態だったからである。その上機械化部隊の使い方についてもその場その場で最善を尽くせばよろしいという考えの東條参謀長と衝突して、ついに外されてしまい、その後の陸軍は機械化部隊の有効性を試みなかった。酒井自身は「戦争類型試論」とか「戦争指導の実際」とかで、日本の戦争政策を暗に批判している。

      最後の頼みは女性の労働力であったが、産業心理学者の草分けである桐原葆見の「月経と作業能力」という本で、女性に無理な労働をさせることは、効率が悪いばかりでなく、本来の子供を作る機能の障害に繋がる、という調査報告が出て、限界が示された。最終的には、山根省三の「勤労者の創意工夫教育」に見られるように、一億国民挙げて創意工夫することが喧伝された。

      戦後長く生きた酒井は歴史家の角田順に送った書簡の中で総括している。まずは石原莞爾が満州国を作ったことに対しては、資源を得たつもりであろうが、国境線を広げて戦争準備の整う前に戦争になるリスクを高めただけであるとした。また独断で満州に侵攻したことは軍の統率すら失わせて、総力戦に必要な国家の一元化を壊してしまった。正論のように思われる。

      片山氏の意見は以下である。結局持たざる国が無理な背伸びをしてはいけなかったのであるが、当時日本の置かれた地政学的状況はそれを許さなかった。せめて統制の取れたやり方をすべきだったのだが、天皇の「しらす」姿勢と相互抑制構造を持った憲法の元では無理であった。

      考えるべき事は多いが、とりあえずまとめておく。皇道派、統制派、中柴の玉砕思想、酒井の電撃作戦など、軍人達の使命感に燃えた提案の日本思想的な経緯が判りやすく説明してあって、同時にどれも実を結ばなかった理由が解明された。軍人達が「本分」を全うすべく権限の範囲内で「部分最適化」を図り、それが全体的には破綻を齎した。太平洋戦争に突入したのは何故か?といえば、石原莞爾の満州国設立が全ての始まりであって、その後は自然の成り行きに従うしかなかったような印象を受ける。中国に本格的に侵攻してアメリカから石油の輸出を止められ、交渉途中に石油を求めてインドシナにまで侵攻したが、輸送距離から見ても開発時間から見ても無謀な計画であったし、それが更にアメリカを刺激することになり、中国からの撤退を要求される。ここでも、絶望的な全体予測を知りながらも軍人として出来る限りの事をやればよい、という判断が働いた。冷徹な指導者が統率していればアメリカと妥協する道はあっただろうが、明治憲法下でそれを為すべき唯一の人物=天皇には国家を統率する気がなかったのである。天皇は世論を見ていたし、それに従うことを選んだとも言える。それが日本の伝統であるならば、やはりそれは適応不良であった、と言わざるを得ないだろう。

      戦後、天皇が憲法上からも政治的に不能化されても、無責任体制は戦後も継続しているし、統制派の官僚達は戦後の復興に注力して現在も政権の中心に居る。軍人達の依拠した右翼思想も生き残っているばかりか、郷愁を以って復活する傾向にある。要するに、思想や仕組みはいつでも同じようにあるのだが、問題はそれが表舞台に出るかどうかであり、それを決めるのはやはり国民の世論である。満州国にしても当時の国民の殆どが喝采していたし、中国侵攻も対米戦争もそうである。マスコミは確かに真実を伝える努力をするよりは世論を増長した。結局我々が知的に冷静に情報を見極める以外に無いということかもしれない。現代では、石原莞爾の想定した「一瞬にして勝敗を決する兵器」が開発されているし、他方で物量で圧倒的に勝る国が民族運動に追い出されるという場面も多い。経済はグローバル化していて、国家そのものがグローバル企業の道具であるという極論すらある。国家の富もまた単純に資源だけで決まらない。そういう文脈にここでの思想解析を置いてみるとまた違う意味合いを帯びてくるような気もする。

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