2014.04.11

      家内と広島美術館に行って熊谷守一展を見てきた。世田谷にある次女の榧さんが作った記念館に行ったのは10数年も前だと思う。その時見たのとは比べ物にならないほど多くの作品を見ることができた。この人は木曽谷の生まれで、東京に出てきてデッサン力を認められていた。その頃の自画像はなかなか迫力がある。北海道の調査に参加してアイヌの生活に触れてとても感銘を受けたそうで、それが後々までの人生観に影響している、とか説明があった。父母の死に接してしばらく郷里で何もしなかったそうであるが、再び東京に出てきて画家を目指した。結婚もしている。野獣派の影響を受けている。荒っぽいタッチで描いていたが、1937年頃の絵にはその荒っぽいタッチの縁に赤い線が見え始める。立体の縁が赤茶色にくすんでいる。多分これが始まりとなって、赤茶色の縁で囲われた内部が平面化されていく。単純化というと何だかそれだけのように聞こえるが、デッサンの線というのは本質に向かって単純化されると物の形や立体といった日常感覚を超えてしまってそれ自身が何やら意味を持つようになる。セザンヌがやったような自然の本質発見とその構成をこの人は輪郭に囲われた面の組み合わせで行ったということであろう。ちょうどこの頃、人に薦められて日本画(禅画のようなもの)を描いているのも面白い。確かに西洋の油絵の伝統の中に禅画の境地を持ち込んだということになる。

      さて時代は満州事変、日華事変、太平洋戦争へと進み、今回改めてそれに気づいた。息子や娘を病気で亡くしていることは知っていたが、それは勤労奉仕や栄養失調のためであった。画壇にはある程度の評価を得ていたが、気に入らない絵は描かなかったから、とても貧乏であった。本人も軽い脳卒中で倒れてからは世田谷の家に籠って、毎日庭の小さな動物や植物を観察して画題としていた。およそわざとらしいものが嫌いである。蟻やら猫やら、雑草やら、ともかくそこいらじゅうにあるありふれたものを愛していて、とことん観察し、デッサンして、本質を抜き出して単純化して絵にする。展示の圧巻は庭の小動物や植物を描いた膨大な数の絵である。ひとつひとつが実に興味深い。生きている、ということの本質、というか、生き物への愛情がそこにはある。展示物の中には手作りのカバンや道具類があった。工作して作るのが好きだったそうで、絵を描くより楽しい、と言っていたそうである。まあ、こんな具合だから、当時から仙人と呼ばれていたそうである。国からの2回の褒章も辞退している。何を望むか、と問われて、少しでも長く生きること、と答えたそうである。気に入っていた言葉は、五風十雨(5日に一度風が吹いて、10日に一度雨が降る)。自然の中でただ自足している。熊谷守一は昔から一番好きな画家で、それは単純に絵が好きなのだが、こういった生き方に共感するという事もあるのかもしれない。

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