1998.02.27

    世田谷にある熊谷守一美術館に行ってきて、「虫時雨」というスケッチと墨絵の本を買ってきた。物の世界(生き物も含む)に同化しようとする姿勢が好きである。今朝も会社に行くバスの中でいろいろと考えた。結局僕は人間世界のごたごたには興味がないのである。物理に集約される物の世界の美しさだけで十分である。産業社会では化学や機械や電気の技術が必要とされるが、全て物理の応用問題である。解くべき問題はいくらでもある。皆何故このように面白い知的作業を敬遠するのであろうか?普遍的な原理から全てを理解しようとすれば必然的に応用範囲が広がる。今物理の最前線は生物やら脳やらにある。物理屋が入り込む事によって随分学問のあり方が変わったのではないだろうか。

企業家精神は確かに大切である。しかし若い研究者全てにそれを求めるのは如何なものかと思う。日本には分業という考え方が根づかない。研究は研究で専門性を磨かねばならない。それを如何に使うかは企業家の仕事である。企業家が不足しているからといって皆に企業家になれと言うのもおかしい。質を問うべきでは無いだろうか?しかしともあれ人の役に立つというのは僕を元気にさせる。人と関わる事で僕は生きている。そのためにこそ物の世界を極めようとしているのである。これは名誉というような事ではない。職人への憧れだろうか?司馬遼太郎によればこれも日本の文化の特徴という事であるらしい。

表層の流行り廃りの奥に普遍性を求めようとすれば必然的に寡黙になる。言葉を発する事で無駄なお喋りを誘発するだけであるならば、本質を一言で述べて全てを終わりにした方がましである。しかしそれでは角が立つので寡黙になって耐えるのである。僕は人間に対する戦略を持たない。いつでも役に立ちたいと思うだけである。ただ相手が腹を立てては元も子も無いから様子を伺う。

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