2026.07.02
以前中島みゆきの夜会「本家 今晩屋」のDVD を観て、さっぱり判らなかったので、再挑戦。今回はまず、JUNさんによる夜会「今晩屋」の解説(1,2,3)を読んだ。なかなか難解!こういう死生観が中島みゆきの思想の背景にある。人は転生し、前世の罪やしがらみを無意識の内に背負って生きている。そのことはを苦しみと感じるのであるが、逆にそれを受け入れることで救われる、ということかな?単純すぎるかな?
それにしてもこの解説はなかなかの力作である。以下、まずは解説を要約しておく。
中島みゆきは、「山椒大夫」の物語りを単なる献身的な愛の賛美として読むのではなく、むしろ登場人物の側に立って、安寿と厨子王と母に残された悔いがどうなったか、という想像を巡らせる。その方法として、3人の生まれ変わった先の世を2幕に亘って舞台上に現出させる。
第1幕の舞台は縁切寺である。現生の共同体的しがらみを帳消しにして真っ新な人間として生まれ変わる場所である。ここで安寿と厨子王の生まれ変わりが出会うのだが、結局「逃げる」という宿命を逃れられなかった厨子王は安寿によって焼かれた縁切寺に飛び込む。これは都市への逃亡である。これが何を意味するか?JUNさんは、3人を苦しめた前近代の因習から、人が生まれてきた以上は真っ新な個人として同等である世の中、つまり「近代」、に逃れるということであると解釈する。しかし、それは同時に「山椒大夫」に語られていた「愛」を失うことでもあり、それこそが赦されないことなのである。
縁切寺の歴史的位置づけとして、網野善彦の著書『無縁・公界・楽――日本中世の自由と平和』 (初版1978年))が引用されていて、共同体のしがらみ(縁)を切って生きる領域(公界)は中世までにおいては芸人や職人や遊女のような集団として存在していたのだが、中央集権国家が全国を支配するようになると、姿を消す。(縁切寺の炎上はこのことも意味している。)それは新たに発展する「都市」空間に吸収されるのである。
中島みゆきが演じるのは暦売りである。これは時間(時代)を売る(移る)という意味で、いわばこの舞台演出全体を解説しているような役割である。
第二幕は奈落の底、水の中、これを水族館(の水槽の中?)として設定している。中島みゆきは消火器を持って出てくる。第一幕での縁切寺の炎上を消す水であるから、これは共同体のしがらみや因縁を救い出して保護する場所という意味である。無意識の領域に抑圧された 罪責と悔恨の記憶を保存する装置である。そのような設定の中で安寿と厨子王は再び過去の縁を経験するのだが、最後に登場する母(中島みゆき)の慟哭は、静かな救済で終わる。
どういうことか?人間界自然界全てを見晴るかす「天鏡」の視点で観るならば、全ての運命は受け入れるしかなく、誠実に受け入れること(天の摂理に従うこと)によってのみ救われる。JUNさんの解説を引用する。>>
最近、近代化=合理化、という理念についてよく考える。いろいろな形式で考えてしまってまとまらないのだが、それは自己完結した理念ではないのだろう、と思う。現実の近代化は近代化の論理だけでは完結できなくて、歴史的には農村からの収奪(産業革命)、辺境からの収奪(中国やロシア)、植民地からの収奪(ヨーロッパ諸国)、自由貿易による収奪(アメリカ)、、、という風に近代化が進む地域や階層が周辺から収奪することで成り立っている。
近代化=合理化と考えれば、現代の都市の個人の生活は合理性を理想として営まれているのだが、合理性で割り切れない家族や諸々のサービスに支えられている。それらは生活の糧として賃金を得るためという意欲だけでは維持できない。NHK の朝ドラでは日本における看護師(看護婦)の始まりが描かれているが、そこにはナイチンゲールの使命感がある。それは近代化なのか合理化なのか?むしろ前近代の共同体感覚なのか、家族感覚の延長なのか?一括りで言えば「愛」ということになる。マルクス流に言えば労働力の再生産であるが、それについては近代化がその合理性を貫徹していなくて、先進国の人口は減り続けている。そう、人間自身もまた、奴隷ではないにしても、周辺からの収奪で補っているのである。それ(出産育児)を工業化してしまう方法は、ディストピア的ではあるが、その前に進んでいるのは AI による労働力補充である。AI は究極の近代化=合理化かもしれないが、莫大な電力を消費する。結局は自然からの限りない収奪である。宇宙的に見ればエントロピーの増大なので、いずれ破局に至る。
やっとこさ、DVDで「本家 今晩屋」の第一幕を観た。JUNさんの解説のお蔭で意味は何とか理解できたのだが、こんな演出で、つまりコミカルな部分と深刻な部分を折り合わせたような奇妙な演出で、舞台化するのはどうなんだろう?確かに中島みゆきのトークと歌の関係が正にそうなのだからこれは彼女にとって自然なのだろう。対比によって深刻な部分が際立つという効果はある。そもそもそれは中島みゆきの歌唱の魅力でもある。
ともあれ、都市化、近代化に取り残され、犠牲にされた人々の無念の思いをくみ取っている感じはする。歌っている中島みゆきの目は何だか怖い。無念の思いというのはもう、安寿と厨子王の時代からずっとあって、公的に代弁されることはなかった、ということだろう。「転生」という仕掛けもその思いを伝えるためと考えればまあ納得できる。やはり、70年代のアングラ劇場という感じである。
続いて第二幕。第一幕の続きとして期待する場面は「都会」なのだが、「水族館」になっている。これは人物の移動先を追いかけるのではなくて、魂の移動先を追いかけているからである。ここで、安寿と厨子王は前世を思い出し、母親は悔恨の歌「ほうやれほ」を歌う。熱演。そして白装束となって「赦される」。この辺りから中島みゆきの息もつかせぬ独演となる。そうそう、夜会とは言っても結局は歌の為の舞台なのだ。一番最後に彼女の哲学「天鏡」が歌われる。人間の理性も感情も宇宙の一部にすぎない、だから奢るなかれ、とまあそんなところ。。。磨き抜かれた詩なので引用しておく。