2016.09.16

● 中島みゆきの33枚目のアルバム「転生」(2005年)は夜会「24時着00時発」(2004、2006年)の曲を楽曲としてアレンジし直したものである。曲としての完成度が高くなっていて、とりわけ「ミラージュ・ホテル」が感動的なまでに美しい。全曲夜会からなのでアルバムとしての統一感もあり、意味もはっきりしているので、夜会の方を纏めてみた。

・・・観たのは2006年に判りやすく作り直された夜会Vol.14「24時着00時発」のDVDである。川辺あかりとその影を中島みゆきと香坂千晶が演じる。あかりは生活に飽きて<他の人生があれば>と夢想していた。そんな折、間違いで当たった海外旅行に川辺夫婦が喜んで出かけたが、夫が保険金殺人事件の犯人にさせられて、あかりの証言は信用されず、彼女は国外追放される。その時列車に乗るのだが、そこから夢の中に入る。奇妙な駅に停車してしまい、奇妙な駅(ミラージュホテル)に泊まる。このホテルは空間がメビウスの帯のように捻じれている。日本に電話してもあかりは危篤状態の筈だと言われる。そこで再び列車を見つけて乗るのだが、その時生まれ故郷へ帰る鮭達と一緒になる。つまりこれは列車でありながら川を遡っているのである。ミラージュホテルは人間達がバブル時代に勝手に作って途中で放り出した人工の滝だったのである。列車はそこを出発した筈だったのだが、あかりだけが(他の人生を夢想したために)故郷に帰れない切符を持っていたので、行き止まりの線路(川)に入ってしまう(人工の滝の中で迷う)。あかりはどこかに線路を切り替える転轍機がある筈だと言う。皆で探して、それを見つけて、時間を元に戻すことが出来て、人口の滝が崩れて、正しい線路に戻ることができた。そこで夢が醒めて元の法廷に戻るのだが、夫を殺人者として証言した人達の偽証がばれて、保険調査員によって殺された男には保険金が掛けられていたということが判り、あかりだけが夫と<無関係な>人間の証言として採用されて、夫が助かる。しかし、既に夫はあかりを記憶していない。つまり生まれ変わっていたのである。

・・・中島みゆきの夜会はいつも最初の方が不自然で学芸会みたいに見えるのだが、中盤以降に俄然盛り上がる。本来不自然であった筋書きが歌の力で現実的な物語に変化する。この夜会もそうで、「ミラージュ・ホテル」以降の歌がいずれも素晴らしい。「我が祖国は風の彼方」<遥か辿る道は消えても遥か名乗る窓は消えても遥か夢の中誰も消せるはずのない、空と風と波が指し示す天空の国>、「帰れない者たちへ」<帰れない歳月を夢だけがさかのぼる>、「命のリレー」<この一生だけでは辿りつけないとしても、命のバトン掴んでは願いを引き継いでゆけ>。最後に鮭達のダンスがあって、全員が挨拶した後、この物語のモチーフが宮沢賢治の「銀河鉄道の夜」であることを明示するために、中島みゆきがジョヴァンニになって、再度「命のリレー」を歌ってから、手を振って<次の宇宙へと>消えていく。

・・・今まで中島みゆきを聴いてきた中で、ちょっと消化できないなあ、という歌、「予感」の中の「縁」とか「36.5℃」の中の「HALF」、はいずれも輪廻転生思想であった。天理教の家で育ったのであるから、このような概念は彼女にとっては自然なことなのかもしれない。夜会「ウィンター・ガーデン」では愛人の生まれ変わりの犬が登場し、「海嘯」でも主人公自身がホテルを乗っ取られた両親の生まれ変わりだし、最後の赤ん坊は多分主人公自身の生まれ変わりなのだろう。この夜会でその<生まれ変わり>に込められた意味が歌詞としてはっきり開示されたことになる。これは、輪廻転生を神の恣意と考えてその神の恣意を都合よく変えるために信仰する、という(しばしば有り勝ちな)宗教の実態とはかなり異なる。つまり、人生に無念が残るとしても、それは生まれ変わりによって引き継がれる、という意味での人生の希望である。(もっとも、それが復讐という場合もあるが。)「輪廻転生」というと宗教用語なのであるが、<命を繋ぐ>という広い意味であれば、<子供を産み育てる>という現実世界の話になるし、外洋で育った鮭は確かに生まれ故郷に戻って「転生」しているのである。<思想を後世に残す>ということもそれに含まれるだろう。
・・・ということで、「海嘯」が死の側から「転生」を語ったとすれば、「24時着00時発」は生の側から「転生」を語っているということかもしれない。アルバム「転生」では最後に「無限・軌道」を歌っている。<本当のことは無限にある。すべてを失くしてもすべては始まる。>

● 中島みゆきの34枚目のアルバム「ララバイSINGER」(2006年)は、TOKIOのヒット曲「宙船」を除けば、一途に想う恋の歌集という趣がある。最初に聞いたとき、随分と表現が直接的なのでやや違和感を覚えたのだが、後半に至って何というか超現実主義的な歌詞になってきて、やはり中島みゆきだなあ、と思うようになった。

・そういえば、冒頭の短い「桜らららら」は桜の花びらを想う歌であり、この<僕>は人間ではなくて、蝶々なのか、猫なのか、そんな感じがする。

・その後から5曲目までは他の歌手への提供曲なので、6曲目の「水」に繋がるのだが、これは<水>を探す歌になっていて、<水>が何を象徴しているのか最後までよく判らない。次の「あなたでなければ」というのはタイトルの通りのストレートな歌詞をやや強迫的に歌う。どうも<あなた>は元の<あなた>とは変わってしまったようなのだが、私も一緒に変わりたいという。ひょっとするとこの<あなた>は私を見ているもう一人の私なのかもしれない。それは父ということにもなるのだが、結局中島みゆきは、自分が変化していることを感じていて、かって目標としていた父の姿を再確認しているのではないだろうか?

・次の「五月の陽ざし」も何やら意味深げに見える。遠い昔の<あなた>の贈り物は今まで開ける気にならなかったのだが、開けてみるとドングリの実が入っていた。別れる頃には言葉を交わすことも辛くて、彼も<ありがとう>という言葉の代りにこのドングリを贈ってきたということのようである。

・こういったゴタゴタから突然視点を変えるように「とろ」が幼児っぽい声色で歌われる。とろくて何もかも間に合わなくなって宿題がたまっていく、という歌。

・そして「お月さまほしい」である。<君>はどんなに辛いことがあっても笑顔で帰っていくから、きっと夜中に泣いているのだろう。庇ってあげようにも何もできない。だからお月さまを贈ろうとして、夜中に屋根を飛んで鳴く。実にこれは猫の話である。(飼い犬の歌「空と君のあいだに」と対を成す。)

・「重き荷を背負いて」はタイトル通りの内容。<がんばってから死にたいな>というリフレインが印象に残る。最後の「ララバイSINGER」。<右の翼は夜・忘れさせる夜・・左翼は海・忘れたくなかった人を思い出させる海・・>という処で、空を飛ぶ船=「宙舟」と繋がるのかもしれない。<歌ってもらえるあてがなければ人は自ら歌びとになる、どんなにひどい雨の中でも自分の声は聞こえるからね>。

・最初からそうだったのかもしれないが、このアルバムの中島みゆきはいかにも人々を救う女神・・<教祖様>という感じがする。まあ歌姫というのは基本的にはそうなのだが。

・歌詞全集は3冊目で、これは文庫本ではないので、写真が入っている。彼女は強度の近視なのでいつも大きな眼鏡をかけていて、人前で歌うときだけ外している。。。

● 中島みゆきのアルバムは作品としての完成度を目指すというよりも、聴く人達とのコミュニケーションを目指しているという感じがする。コンサートになると、目の前にその聴衆が居るから判りやすいが、やや幅広くなる。夜会の場合はどちらかというと作品の意識が強いだろう。まあ自己探索の趣がある。NHKの「プロジェクトX」に関わって以来、サラリーマンの中年男性を聴衆として意識しはじめて、中島みゆきの歌のテーマがその方向にシフトしたのだが、35番目のアルバム「I Love You. 答えてくれ」(2007年)ほど明瞭にその聴衆を意識したものはないだろう。背広を着てネクタイを締めて革靴を履いて、従順で真面目に働いているサラリーマンの心の中にどんなに熱い想いが渦巻いているのか、という想像が及ぶようになって、彼らの心に訴える歌を作った、というところだろうか。どの曲も素晴らしい。多面的に心を語っているので、分類してみると判りやすいかもしれない。

・・最初の類型は彼等の言葉を代弁しているような歌である。
「本日、未熟者」は素直に組織に従えない自分を<まだ未熟者ですから>と敢えて自己規定することで自分を貫こうとしているし、「サバイバル・ロード」は油断も隙も無い人生の闘いを訴えて誰か一緒に闘ってくれる者はいないかというし、「アイス・フィッシュ」では、優しさを表現できない自分を反省しているし、「ボディ・トーク」は言葉で通じ合えないことに苛立ち、「昔から雨が降ってくる」では沈み込んだ気持ちをしんみりと歌っていてなかなか心に沁みる。

・・次の類型は中島みゆきなりの提案という感じである。
「顔のない街の中で」は、他の人の事など顔見知りでもないのだから無情になってしまうことに対して、<ならば見知れ>と命令する。それは街のレベルだけでなく、国であり、世界でもある。まあ、草の根国際交流の意義を説いたとも言えるかもしれない。「Nobody Is Right」では、自分以外の正しさを認めなければ、人生は少しも面白く無いよ、と諭す。「背広の下のロックンロール」では、見かけだけは世の中や組織に従っているように見せても心の中まで売り渡すな、と励ましている。

・・3番目の類型は、2番目に近いのだが、中島みゆきの気持の表明に主眼がある歌。
「惜しみなく愛の言葉を」では、愛の言葉、つまり歌の数には限りがあるのだが、だからと言って止めてしまうのではなく、一日一日が新しいのだから君の為に歌う、という。「一期一会」では、偶然に出会っただけの君に、<私のことよりも、あなたの笑顔を忘れないで>と歌う。最後に、「I Love You. 答えてくれ」では、<ひどい目にあって、全ては取引だと思っているかもしれないが、愛さずにはいられない馬鹿もいるのだから、私の歌を素直に受け取って欲しい>と、訴えている。

・・特に好きな歌を挙げるとすれば、「本日、未熟者」、「背広の下のロックンロール」、「昔から雨が降ってくる」といったところ。。。

● 中島みゆきの36番目のアルバム「DRAMA!」(2009年)の前半6曲は2008年に上演され、2013年に再演されたミュージカル「SEMPO〜日本のシンドラー杉原千畝物語〜」に提供した歌のセルフカバーである。2008年版はDVDもあるらしいが高値で取引されている。吉川晃司が熱演したらしい。
http://www.rise-produce.com/musical/musical_sempo.html
また再演される事を期待しよう。歌はいずれも極度の緊張感を湛えていて、惹きつけられる。物語に沿った順序で聞くことにした。

・「夜の色」は杉原千畝夫妻が前任地フィンランドでこれからリトアニアに赴任するときの不安な気持ちを歌ったもの。白夜に慣れてしまうとそれが恐ろしい夜であることを忘れてしまう、という事で、現在進行中でこれから直面するであろう問題(ナチス)を暗示している。

・「愛が私に命ずること」は、タイトル通り、規則や法律よりも愛に従う、という歌で、これから行う決断をこれまた暗示している。ちょっと宗教的な雰囲気で、出だしはバッハのカンタータの中に出てきそうな感じがした。

・「掌」では、この掌の役目は、弾を避けるためにうつ伏すときに地面に付けて身体を支えるとか、撃たれる時に身を護るためにかざすことであるが、それだけなのか?少年の頃はこの掌で何でもできると思っていたのではないのか?と歌う。中島みゆきらしい暗喩で戦争が人々の未来を奪うことを歌うと同時に、千畝の心の中の葛藤を暗示してもいる。

・「こどもの宝」も同様で、こどもの頃の自分が願っていたことを現在の自分が裏切ってしまっていることへの痛切な想いを歌っている。

・「翼をあげて」は千畝がビザ発給を決断したときの歌。自由を奪う者に対する抵抗を歌い、怖れは消えないが、それでも己が最も畏れるものを選べ、と勇気を持つことを訴え、<翼をあげて今行くべき空へ向かえ>、と結ぶ。

・「NOW」は最後の曲で、出演者全員が出てきて歌う希望の歌である。

● 中島みゆきの36番目のアルバム「DRAMA!」(2009年)の後半7曲は夜会Vol.15「元祖・今晩屋」(2008年)の主要な歌である。多少判りやすく改良された夜会Vol.16「本家・今晩屋」(2009年)をDVDで観た。けれどもこれは判りにくい。ストーリーがテンポ良く発展する訳でもなく、安寿と厨子王の物語における怨念が歌われているようであるが、劇的というわけでもなく、演技がややコミカルであることも手伝って、チグハグな感じすらする。幸い歌詞とセリフが付いているので、それを頼りに、全貌を要約してみた。劇の機能としては、前生の恨みの解消劇であり、狂言的なものを時折挟み込んだ能のようなもの、とでも分類できるかもしれない。

・・・これは安寿、厨子王、母親を前生とする登場人物が、各自の怨念を語りながら煩悶して救われる物語である。その場を設定するのが、「今晩屋」であるが、これは第一幕では「暦売り」、第二幕では「格安旅行パックのアルバイト勧誘者」になっていて、いずれも中島みゆきが演じる。この今晩屋のやることは時間の操作や入れ替えであって、それが「暦売りの歌」で表現されているから、この歌が何回も出てくる。演劇としての時刻は大晦日から新年に至る隙間であって、そこでは運命を切り替えることができる。だから、「109番目の除夜の鐘」が何回も歌われる。もうひとつの繰り返し歌われる「らいしょらいしょ」は数え歌で、前生−今生−来生という輪廻転生の思想で、知らない内に受け継いだ前生からの<雁が音=借金>は<豆=真面目>に働いて今生で返さなければ<利が付いて>来生が苦しくなる、という歌である。いわばテーマ音楽みたいなものである。

・・・第一幕は「縁切り寺」である。中世以前、寺は世間のしがらみや縁を全て捨てて生き直す場所であった。その尼は安寿と呼ばれているから判りやすい。そこに厨子王の生まれ変わりの浮浪者が出てきて自覚できないままに、守られなかった約束<迎えに来るからね>を安寿にしたことを煩悶する。その歌が「海に絵を描く」である。<約束事はその場限り・・・嘘と同じことになる>。彼は訳が判らないままに逃げる。それに訳知り顔の暦売りがコミカルに応ずる。結局浮浪者は安寿に世話されて僧侶姿になって出発する。つまり原作における厨子王の逃亡に対応する。第一幕では美しい童女が出てきて毬をついて遊んだりして印象的なのだが、その意味合いはよく判らない。

・・・第二幕は水族館の中。暦売りはアルバイトの旅行勧誘者になっている。「暦売りの歌」と共に「幽霊交差点」が歌われる。<幽霊交差点は名残の化身・・角を曲がってしばらく行けば元の景色が有るのに気づく>。安寿は水族館の飼育係である。結婚式場から逃げ出してきた花嫁が登場して、これまた印象的であるが、その意味合いはこれまたよく判らない。厨子王は突然<設備補修>の左官として消防ホース置き場から登場する。彼の歌う「十文字」は罪人や奴隷の額に付けられる焼印であり、厨子王がこの歌を歌うところが彼の怨念発露の頂点となり、次に母親(中島みゆきの熱演)が「ほうやれほ」を歌って思いきり後悔の涙を流す。<安寿恋しや、、厨子王恋しや、、>。つまり、原作における出世した厨子王の領地改革と母親との再会に対応する。宮沢賢治の「星巡りの歌」を思わせる「十二天」で天からの救いが予告されて、「赦され河、渡れ」で3人が救いの船に乗る。<もう充分に泣きました、もう充分に散りました>。この場面では舞台に水が流れているように見える。どうなっているのだろう?最後に今晩屋が「天鏡」(すべてを映し出す鏡)を歌う。

・・・それにしても何とも異様な雰囲気で、妙に惹かれるものがありながらも、一体中島みゆきは何を考えてるのだろう、というのが素直な感想である。
 
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