2016.03.03

 クリストフ・コッホ「意識をめぐる冒険」(岩波書店)は第一線の研究者による素晴らしい意識の科学的研究のまとめである。

      最初の3章の要点:自己意識は意識の一部にすぎない。自己意識を持たない状態は熱中しているとき、映画に夢中になったり、必至で戦っているとき。武道における「無」やヨガにおける瞑想もそうかもしれない。もう1つの重要な意識状態は言語である。(私見)考えるに、そもそも自己意識というのは他者に起源を持つから、言語という関係のための洗練された道具は自己意識を外部感覚に結びつける。人間の特異性はこの自己意識や言語にある。それを外して意識を想定することはできるが、そういう意識をそれとして同定するには、「記憶」を介して言語を使うしかないだろう。熱中していたときの事を思い出すということで意識があった、ということを知るのである。

      ところで、意識には「私の意識である」という感じが伴わないだろうか?意識は何かについての意識なのだが、それが私の意識である、という感じ。私に対峙してその「何か」がある、というのが意識というものではないだろうか?言い換えると、その「何か」と「私」はいつも同時に分かちがたく、意識というものの表裏なのではないだろうか?「私」が自己意識である、ということではない。自己意識というのは、その「何か」が自己であるにすぎず、「私」はあくまでも「私」としてあるのだから。この「私」は単なる主体感である。中身は問われない。いわば抽象的な作用点としての「私」。餌を探し回り、配偶者を探し回る動物としての「私」である。喜びや恐れや不安や空腹感などの「気分」として、内臓感覚として、この「私」をその都度言語化することができるような気もする。しかし、それを直接的に操作することは出来ないから、逆に、「私」が「何か」に向かって行動することになる。意識はむしろその為にこそある。意識は「私」に自由という実感(幻想)を齎すのである。ところで、人間は意識の内容(「何か」)を記憶し語ることが出来るから、意識を持っていることが自覚される(他者と共有される)のである。そうでなければ、多くの動物のように、意識があっても意識の存在に気づかないだろう。Tononi や Koch の論じる意識というのはそういう意識、つまり全ての動物が持つ意識である。ただ、私のこういう意識の理解自身がおそらく言語的である。科学的に言えば、意識における「何か」と「私」の対峙、つまり「主客分離」は実体として存在しえないからである。現実的にはニューロン系の情報統合活動という1つの事実しかないのである。

      何を以って意識と考えているかについての以上のような前置きがこの本を読むには(追加として)必要だろうと思った。

第4章:注意と意識
      コッホの研究対象:NCC とは、特定の意識を生み出すのに最小限必要な脳の部位である。共通して必要なのは、大脳皮質の後方にある高次知覚領域と前頭前野内計画意識決定領域を結ぶ長距離の相互連絡であろう、という仮説。連続フラッシュ抑制(土谷氏)片方の目にモンドリアン風の画像を変化させて見せると、他方の目からはいる画像が意識されなくなる。しかし、無意識状態で「注意」が働いている。つまり、意識されていない画像に関心があれば、脳が反応している。異性愛者にとっての異性のヌード写真がその例。網膜ニューロンや一次視覚野が意識されていない証拠。サッカード現象による外界の揺れが無い;盲点が見えない;夢;縞模様の動きがマスクされても、脳はその動きに反応している。両眼視野競争。下部側頭葉まで情報が上がってくると、意識に対応した興奮が測定される。高次感覚野と下部側頭葉の間にループが廻っていて、それが意識に対応している(仮説)。逆に、「注意無き意識」:状況認知。顔の性別や有名人の顔、などは注意無しでも意識される。逆に注意しないと意識されない課題:左右どちらが緑でどちらが赤か?傾いたTとLの違い。これは難しい。

第5章:脳の機能分担
      アクロマトプシア(色彩失認)、相貌失認。相貌失認していても、親しい人の顔を見ると自律神経系の反応が起きる。逆にカプグラ症候群では、相貌認識ができても、反応が起きないために、偽者ではないか、という感じを受ける。動きの認知ができないアキネトプシアも知られている。大脳皮質の場所それぞれで特有の意識を分担している。側頭葉内側部(海馬)には特有の概念に興奮するニューロンが見つかる(てんかん患者の切除場所を特定するための検査中に実験することでこれらのことが判った)。スパース・コーディング。繰り返される高次感覚野とのループ反応によって形成されたものであろう。これは一般的なイメージを思い浮かべるときのポピュレーション・コーディングとは区別される。興味深い実験:2つの概念ニューロンの興奮状態を測定し、画面にその画像として表示する。それを見ながら患者は自らの意識をコントロールして、どちらを思い浮かべるかを選択できるようになる。

      脳梁を切断しても日常生活に不便はないが、調べてみると左右の脳が別々に活動している。会話は左半球であることが多い。左目だけの視野に入った物の名前は言えないが、左手を使えば目的の物を掴むことができる。つまり、完全に右半球だけで処理されている。右手で掴めば名前を言う事ができる。

      永続的植物状態(時々覚醒)と最小意識状態(時々やりとりが可能)の区別。知覚系が生きていれば、f-NMRで反応を見ることができる。前頭葉を破壊しても、前頭前野と視床・基底核の連絡を切断しても、意識は失われない。網様態賦活系を損傷すると意識を失う。もう1つは視床にある5個の髄板内核。これらは大脳皮質と相互の結合があり、意識レベルを制御している。意識の内容は大脳皮質と、視床、扁桃体、前障、基底核。

第6章:無意識の意義
      著者達は無意識の機能をゾンビエイジェントと呼ぶ。意識は熟練したスキルの邪魔になる。「心を無にする」必要がある。

      実験:形の認知が出来なくなった患者。彼女はどんな形状の入り口を持ったポストにもうまく手紙を投函できる。意識が無くてもポストの入り口の形状に対応している。

      視覚認知の回路は2つある。頭の後ろから耳の辺りに向かう下の経路「何?」経路と、頭頂部に向かう経路「何処?」経路。後者が運動経路に繋がっている。

      ミラーニューロン:無意識に観察した他者の真似をする。

      無意識は意図的に制御されることがある。無意識の偏見:9.11は何回も警告されていた;広告;プライミング:白を意識させるような刺激の後では、牛が飲むものは?の答えが牛乳になってしまう。「口は禍の元」。チョイス・ブラインドネス。ピラミダル・ニューロン:前頭前皮質と高次視覚野を繋ぐ。意識の座?

第7章:自由意志
      強い意味での自由意志とは、脳の中も含めて、全く同じ状態において、自分が取った行動と別の行動をすることができることを指すが、実証することはできない。これは、魂を信じるということでもある。

      両立主義という立場では、やりたいことが出来るようであれば自由であると考える。ガンジーや焼身自殺で抗議するベトナムの僧はこの意味での強い自由意志を持っていた。

      自由と思われる選択も無意識のバイアスを受けていることは確かである。

      因果法則があっても、未来が完全には予測できないというのはカオス力学の成果である。

      量子力学は更に、その因果法則に確率を持ち込んだ。ただ、これは測定の問題でもある。 神経系における揺らぎは古典的な性格のものである。

      量子力学の観測問題:量子力学で予言される可能性のある状態の1つが意識のある人間に観測されることで実現するという解釈。量子もつれ:反対のスピンを持つ2個の電子はどんなに離れていても、相関している。片方が正と測定されれば、他方は必ず負と測定される。これは、光合成分子において観測されているが、ニューロンのレベルでは不可能であろう。

      リベットの実験。手が動いているという状況における3つのクオリアは別々である。運動の「意図」、運動の「自己主体感」、手の「所有者感覚」。これらは常に同時に感じられる訳ではない。それぞれを独立に感じさせるようなプログラムが可能である。自由なタイミングで手を動かすとき、その意図は運動中枢で発しており、それとは別に自己主体感が意識されるのである。前者が原因で後者が結果であることをリベットは実証してみせた。

      T.ゴンティーという寄生虫。ネズミに感染して猫の尿の匂を回避させなくさせる。こうして猫にネズミを食べさせる事で猫の体内で増殖する。米国民の10%もT.ゴンティに感染している。統合失調症患者に抗体保有者が多い。

      二人羽織の実験。後ろの人の手が自分の手に思える。所有者感覚。タイミングによって生じて、自己主体感が生じる。

      前補足運動皮質を直接刺激すると、手足を動かしたいという感覚を持つ。

第8章:意識の統合情報理論(Tononiの理論)
      クオリアはニューロンの発火状態のみで決まるのではない。その状態の持つ情報、つまり発火しない可能性があったかどうか、が重要である。同じ光景を見ていても、その時に聴覚系がブロックされているかどうかによって、たとえ音が無かったとしてもクオリアが変わる。
      シャーロック・ホームズの推理の例。番犬が深夜に吼えなかったことが重要であった。もしも番犬が口輪を嵌められていれば、これは情報にならないが、実際には自由だった。にも関わらず吼えなかったということは、番犬が犯人になついているということである。

第9章:意識メーター
      TMS磁気刺激法の紹介はTononiの本の通り。もうひとつ有望な方法がある。オプトジェネティクスである。単細胞緑藻生物の光受容器においては、青い光で、正電荷が細胞内に入り、神経が興奮する。イオンチャンネルはチャネルロドプシン2(ChR2)である。この遺伝子をウィルスに挿入して、ニューロンを感染させると、そのニューロンが光を感受するようになる。特定の神経細胞に特定の光感受性のChR2を作らせると、レーザー光で選択的に興奮を引き起こすことができるようになる。マウスを使ったシステマティックな研究が始まっている(アレン研究所http://www.brain-map.org/)。例えば、マウスを意識に依存するような複合的な行動課題をこなすように訓練しておけば、感覚受容が意識を介さないで行動に繋がるルートと意識に繋がるルートを明らかに出来る。

第10章:物質と情報の二元論
      物質と魂の二元論はプラトンに始り、新約聖書、デカルト。カール・ポパー、ジョン・エクルスまで。それに対して、「性質二元論」がある。「世界を構成している要素同士が何らかの相互作用をしているときに、相互作用をしている物質としての側面、そしてそれが生み出す内在的な情報という側面、この2つの側面が同時に生じる。」(物質と情報の二元論である。吉田民人と同じ。)現状での結論:「物理的な因果関係の支配下にあるシステムの構成要素が独立に生み出す情報以上の情報を全体のシステムが生み出す、という事(情報統合)が意識の必要条件である。」

      宇宙は何故存在するか?宇宙を作った者が存在している筈だという思想が理神論。この宇宙は多数の平行宇宙の内のひとつであって、たまたま原子が存在し、生命も存在するだけであるという考えもある。しかし、いずれも実証不可能である。

      宗教は人間に倫理を与えるが、真実を教えてはくれないし、その予言はことごとく外れている。啓示については、人間には「信じたいものを信じてしまう」という性質があることを考慮しなくてはならない。教典は時代に制約されているが、文学的に捉えて今日的な意味を見出せば充分な価値がある。

      カトリック信者だったコッホ氏が至った地点は、神を信じない、ということである。「すべてのものごとはあるがままにある。」という基本的な姿勢。

      (本からの抜書き:コッホ氏の現在の心境)「第1の創造」すなわち宇宙誕生の直後に生れた星々は壮観な超新星爆発を起こして粉々になった。この爆発のおかげで、重元素が宇宙空間にばらまかれ、若い恒星の周りを適切な距離を保ちながら廻る、岩だらけの惑星が生じた。この惑星の地表には、化学物質の詰まった自己複製する袋状の構造が生れた。この原始生命の誕生が「第2の創造」だ。そして、その生命に自然淘汰による競争を促す圧力が働いた。この結果が、意識を持つ生き物の誕生であり、「第3の創造」にほかならない。そして神経系の複雑さが驚異的な速度で増していくにつれて、一部の生き物は自分自身について考える能力を進化させ、世界の驚くべき美しい側面と、恐ろしく残酷な側面について考えをめぐらせることができるようになった。

    わたしは果てしない平地を歩き、
    あなたが永遠の群れのために
    土から形づくった者に望みがあることを知った。
    (死海文書より)

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