2016.02.29

先日来、中島みゆきをよく聴いている。本も読んだ。こすぎじゅんいちの「魔女伝説:中島みゆき」(CBSソニー)はなかなか面白い。1982年、中島みゆきは30歳、私小説的な歌から何となく意図的演出の感じに変わりつつある時期(「寒水魚」というアルバムが出た頃)の出版である。インタヴューの記録とか、いろんな週刊誌の記事とかで、出身地の北海道を訪ねたりしてまとめているが、何とも主観的な内容ではある。

ともかく、小学生の頃、唱歌の意味が良く判らなくて、自分で変えたり作ったりして楽しんでいた頃から、中島美雪にとっての歌は生活の一部だったようである。まあ性格としては父親似で生真面目。あまり周囲と溶け合わなくて孤立気味。そんな中、高校生の時に自分の存在価値にまで疑いを抱き、そこから脱皮するために学内文化祭でコンサートを開く。賭けであった。ここから自信がついた。大学生の頃は北大のグループに潜り込んだりして結構楽しんでいたらしいし、数々のコンクールにも出ているが、その中で谷川俊太郎に出会って、反省。しばらく自宅で産科医の父を手伝った後、ヤマハのコンテストでデビューした。

さて、こすぎ氏の見解によれば、彼女の歌は彼女の本当の経験や気持ちを反映していて、正直なものだそうである。使われる背景も故郷の風景を反映している。ただ、それを真っ正直に描くのではなく、いろいろな置き換えや暈しを入れている。例えば、有名な「時代」はそのとき倒れた父を見ての詩であって、いよいよひとり立ちしなくては、という決意の歌ということである。彼女自身が、「それぞれの歌を聴くと思い当たる人が居るだろう」と言っている。基本的には広い意味での失恋の歌であり、それを背後から冷静に眺めている自分(つまり作詞者)が居る。もうひとりの自分はしゃぎまわるディスクジョッキー(DJ)の顔、これは自ら意識して内面の暗さとのバランスであるという。YouTubeでDJを聴く事が出来る(中島みゆきのオールナイトニッポン月イチ)。挿入歌とCMを抜いてあっても1時間以上あるが、面白いのでつい最後まで聴いてしまう。ファンから見れば、歌の内容とDJでのはしゃぎ方との落差が大きい。ただ、僕は何かしら共通性を感じる。それは、「彼女にとっては言葉というものが全て歌である」ということだろう。作曲に何か楽器を使うのか、と問われて、最初から歌詞と旋律が一緒に出て来るだけだ、と答えている。視聴者からの葉書の文面を読むにしても、彼女は抑揚と独特のアクセントをつけて面白可笑しくしているのだが、これは彼女にとってむしろ自然な歌としての表現なのではないだろうか?歌もディスクジョッキーも、徹底して演技しなければ他者の前に立てない、という意識において共通しているし、その技術もやはり歌しかないのである。彼女はその後、人間的成長と共に関心の対象を自然な形で拡げているが、その表現方法は全く以って首尾一貫していて、ますます磨かれてきている。だから、メッセージ性の強い歌がこれからも生み出されるであろう。

<目次へ>  <一つ前へ>    <次へ>