ちょっと早めに友人夫婦とヴァイオリニストとの4人でタクシーに乗って須磨の駅まで行った。雨が結構降っている。会場は狭い階段を2階に登った処の「ボナルー・カフェ」というせいぜい50平米の飲食喫茶である。行ってみたらリハーサルをやっていて、6時半に開けるというので、夕食を摂ることにした。友人は昔この辺にも住んでいたので、彼の知っている直ぐ近くの洋食屋「金プラ」に行った。ここは神戸では老舗の洋食屋ということである。昔は市役所の隣にあったのだが、阪神淡路大震災で潰れてしまってここに引っ越したということである。老夫婦がやっていて、跡継ぎが居ないとぼやいていた。僕はハヤシライスを食べたのだが、デミグラソースが独特の味でなかなか美味しかった。

      6時半になったので、「ボナルー・カフェ」に行ったのだが他のお客さんも外で待っていて、なかなか開かなかった。雨の中でしばらく待った。幸い寒くはない。他のお客さんというのはギターの中村氏の奥さんとお母さんだとか、まあ知り合いばかりという感じである。7時頃だったかにやっと準備が出来て中に入った。大きな出窓みたいな感じになっている奥のスペースに舞台が作ってあって、いろんな打楽器とかギターとかアンプとかミキサーが置いてある。部屋の壁にもいろんな楽器とかが飾ってある。カウンターとテーブル2つで椅子も少なく、座れたのは20人弱。チャージは2,000円でそれに何か飲食を注文することになっている。皆は食事をしていたが、僕達は済ませたので紅茶を頼んだ。紅茶カップがポーランド製でなかなか面白い。どっぷりとした形で花柄を並べた模様がある。

      一応客も揃って食事だとかしたのだが、なかなか始まらなかった。何時から開演だったか?でもやがて、ギターの中村好伸さんとパーカッションの岩本象一さんが登場して挨拶。この演奏は元々、中村さんが東京でシンガーソングライターの優河さんと知り合って意気投合して始めたもので、「ハルタビフォークロアー」という名前で西日本各地を10箇所廻っている内の9回目である。

      中村さんは現在は郷里の鳥取に住んでいるが、以前神戸で活躍していて、その時に象一さんと一緒に演奏するようになった。音楽としてはコードとリズムを主体にしたミニマル・ミュージック的なものである。アコースティックギターというのは、何しろ和音が美しいというのが最大の美点だろうと思うのだが、ともあれ和音を響かせて浸っている内にそれを繰り返し、その繰り返し単位の中でポリリズム的な表現を追求したり、和音の変化を付けたりするようになってしまう。それが自然に曲になる、という風に曲が構成されている。彼はそういったアプローチ(と思うが誤解かもしれない)で沢山の曲を作っている。ちゃんと楽譜になっているようである。聴いていると何時始まり何時終わるのかは判らないのだが、心地よい時間が過ぎていく、そんな感じである。そこに象一さんのパーカッションが曲の背景を表現したり、装飾的に曲を支えたり、曲の大きな展開を暗示したりするように絡みあうのである。象一さんは元々はドラムを勉強していたのであるが、縁あってガムランに惹かれてジャワの学校に2年間留学して、本格的にガムランの勉強をして(結婚のために)帰国した。今はガムランの教室とかたまにイヴェントとか、障害児の音楽指導とか、をやっている。パーカッションは頼まれ仕事で、適当な楽器を探してきては適当に叩いたり揺すったりして曲に合わせる、という感じで始めた。おもちゃから民族楽器から、何でも音の出るものは試して見て取り込んでいる。見ていると実に面白いが、楽器の名前も判らないので僕には説明が困難である。

      一通りいろんな曲をやって、今度は優河さんがギターを抱えて出てきた。小柄ながらがっちりした体型でいかにも声楽をやりそうな感じである。まだ23歳。ギターを鳴らしながら声を合わせるその感じが、楽器のチューニングそのものである。つまり自分の声をギターの和音に調和させている。和音のように微妙な音色の違いを発声し分けているように聴こえる。まあ、口を開けたり閉めたり、喉を開いたり閉じたり、口腔を広げたり狭めたり、そうそう、これは正に音素そのものの原理でもあるが、日本語や英語のような言語の音素ではなくて、楽器としての声の要素なのである。彼女は作詞作曲をするわけであるが、僕の見るところ、このような楽器的な感覚で自分のいろいろな声質を試して遊んでいる内に出来てしまった音程の移ろいがそのまま日本語や英語の音素に結びついて歌詞になった、という風に曲ができたのではないだろうか?似たような歌手としては井上陽水を思い浮かべればよいだろう。ただ、まあ彼のように高踏派的な詩ではなくて、あくまでも23歳の乙女の想いを詩にしているのではあるが。

      最初2曲ほど3人で演奏して、直ぐにソロになって、休憩に入った。その間にも多分外にジャジャ漏れの音楽に惹かれたと思われる客がどんどん入ってきて入りきらないくらいになり、最初から聴いていた馴染みの客の何人かは遠慮して帰り、立ち見は10人弱になった。後半は彼女のソロで始まり、交替し、また3人になったが、全体に盛り上がってきた。まあ曲名も判らないし、僕が今説明することはとても出来ないのだが、何しろ充実した演奏であったと思う。終わったのは10時頃。

      友人宅に行くと、時々象一さんが2階に居ることがあって、出掛けに「ごゆっくり」という位であまり喋らないのであるが、今回は初めていろいろな会話をした。「そうですか、面白いですか。フルートでこの演奏に入って行けますか?」「いやあ、ちょっと合わないかなあ。」と答えて、ふと思ったのだが、こういう楽器の原点に立ち返ったような演奏スタイルからいうと、僕のフルートはむしろそこから遠ざかってきたのかもしれない。西洋音楽のルールを一所懸命勉強してそれに合わせる様にしてきたから、少しはフルートらしくなったのだが、最近その表現に使うエネルギーに疲れを感じるようになってきた。逆にフルートを始める前の昔、枯らした竹を切って孔を開けて笛を作って音を楽しみ微妙にずれてしまった音階ではやり歌などを吹いたり適当に変奏したりしていた頃の方が「音楽的」だったのかもしれない。とりあえずはフルート的になったそのフルートの音で、もう一度「原点」に帰るべきなのかもしれない。

      帰りがけに優河さんの曲が2曲入ったCDを500円で買っておいたので、今日聴いてみた。ライブの時には歌詞がイマイチ判りにくかったのだが、これは明瞭である。何回か聴くたびに良くなる。心に響く。ひょっとするとこの人は有名になるかもしれない、と思った。

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