2019.04.27
宮崎旅行中行き帰りに菅原千恵子『宮沢賢治の青春』(角川文庫)を読んだ。近代文明の矛盾を身に引き受けつつ克服する道を示しているように感じられて、強く惹きつけられながらも、首尾一貫した理解がなかなか困難だったのだが、この本を読むと随分判りやすくなったような感じがする。門井慶喜『銀河鉄道の父』(講談社) も面白かったが、この本は賢治の内面に深く立ち入っていて、正に「青春」というもののかけがえのない体験を再現してくれているような気がする。

      人生を真剣に考え抜くにはしばしばその対話の相手が必要であるというのは一般的であるし、僕自身も体験しているのだが、ここまで執着するというのは何だろうか?それこそが彼の天才たる所以なのかもしれない。その相手というのは、盛岡高等農林学校の学友、保阪嘉内という人で、その息子が公開した賢治との書簡集によって事の次第が明らかになったのである。菅原さんは、『銀河鉄道の夜』のジョヴァンニとカンパネルロの別れが賢治と嘉内の別れを語ったものである、という説を提示していたのであるが、それほど注目されていなかった。この本では彼らの交友と別れ、その後の賢治の苦悩こそが全ての作品の起因であった、という一貫した立場をとって解析していて、大変に説得力がある。

      そもそも賢治が国柱会に入ろうとしたのも、嘉内を信仰への道に留めるためであったし、妹トシの死においてすら、賢治の頭の中には嘉内への想いが占めていて、トシへの愛そのものというよりは、法華経を信じて死んだトシが果たして救われたかどうか、という疑念、つまり、嘉内に指摘された法華経への疑念の方にこそ、賢治の関心があった、という事である。「修羅」「電信ばしら」「気圏」等々独特の語彙も嘉内のものであった。嘉内と別れた賢治は、やがて、信仰そのものではなくて、農学校での教育に喜びを見出すのだが、学校そのものの限界に直面し、嘉内の辿った道を追うように、農村に入って文化活動を始めるのである。しかし、現実の農業の厳しさと農民のインテリへの不信感に挫折し、次には石灰施用による地質改革を目指すのだが、やはり農民の不信に阻まれたまま病死する。そして、嘉内との別れ以来、彼が書き直し続けた物語が、その別れの意味を問い続けた『銀河鉄道の夜』だった、ということである。賢治は嘉内の思い描いた農民文化の世界に触発され、その中で苦悩することで、独特の言葉を吐き出した、その言葉が言葉として、嘉内の世界をはるかに超えた想像力をかきたてる。おそらく、自分の為すべきことを求めていくつもの盲目的な転身を図ったことで培った言葉の多様性が生かされているのではないだろうか。弱き者にこそ言葉の力が与えられる。いずれにしても、この嘉内と賢治の関係は非常に興味深い。
 
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