2019.05.07
      『宮沢賢治の真実』今野勉(新潮社)を読んだ。『宮沢賢治の青春』をベースにして、賢治の詩の内容を現地で確認したり、他の著作との関係を探索したりして、まるで探偵小説のように、『真実』に迫っている。なかなかのものである。ETV特集 「宮沢賢治 銀河への旅〜慟哭の愛と祈り〜」というNHKの番組の骨子となった本である。

      第4章:「春と修羅」完全解読 p.224

賢治が保阪嘉内との破綻した関係を何とか納得させようとして作った歩行詩である。自然の輝かしさと自らの許されざる存在(修羅)が対比されている。最後に救いが訪れる。つまり、宗教的情操−恋愛−性欲 の可逆性にの気づきに至る。賢治は嘉内に対して崇高な宗教を説きつつ、その心は邪な友の独占欲であった。しかし、この道は可逆であり、逆に辿ることも出来る筈だ(つまり、性欲は切っ掛けとして宗教的情操に高めることも出来る)という救いの道。この詩を書いた当時、賢治は同僚の堀篭文之進に宗教を説いていたが、あくまでも礼節を保つことができた。自己を抑制できている。その後藤原嘉藤治ともそういった関係になる。いずれも賢治が結婚を勧めて結婚した。賢治の独占欲は同性愛であったと著者は考えている(僕はそういうことではないのではないかと思うが)。<すべてさびしさと悲傷とを焚いて・ひとは透明な軌道をすすむ> 「小岩井農場」。自然の一部としての自己を受け入れること、他人を傷つけないためにその自己を抑制すること、それゆえに生ずるさびしさや悲傷を、生きていく力とすること、賢治はそのような道を選んだ。

      第5章:ついに「マサニエロ」へ p.235

妹とし子は、花巻高等女学院で、ヴァイオリン教師に無意識的な恋心を抱いて、親密にした。そのことを新聞に書かれて傷ついて、彼女は卒業後東京に出た。そこで彼女は自らの苦悩を客観的に分析して克服後、母校の教師となったが、結核で療養生活に入る。賢治はそのことを知らず、同様に自らの苦悩を歩行詩によって克服していたのだが、病床において、彼女の「自省録」を見せられて仰天した、と思われる。その内容は賢治自身のものと同様だった。彼女は自らの恋情は相手の独占に向かうもので本当の愛ではなかったから責められても致し方ないとして、真の愛は無私でなくてはならない、と言う。これは正に賢治のいう「宗教的情操」である。賢治はそれを読んで、「マサニエロ」という難解な詩を書いた。あまりなじみの無い西洋の物語(妹の為に復讐する)を引用して、自らの気持ちを表現しているから、本人以外には判らないのだが、今野氏はついに解読したのである。

       第6章:妹とし子の真実と「永訣の朝」p.263

<おら おらで しとり えぐも> (仕方ないから一人で行くよ)。あの人はあの人で生きていくのだから、という意味を感じる。つまり恋した人の事を忘れていない。<うまれてくるたて こんどはこたにわりやのごとばかりで くるしまなあよにうまれてくる>(今度生まれてくるときは、こんなに自分の事ばかりで苦しむことのないように)。心から愛し合って、2人の愛が皆への愛になるような人生を送りたい、という意味。そして、「無声慟哭」。
翌年、童話「手紙4」。「オホーツク挽歌」。東北本線の旅。とし子はどこへ行ったのかを知る旅。不安は解決しない。

      第7章:「銀河鉄道の夜」と怪物ケンタウルス p.303

岩手軽便鉄道の旅。バプテスマのヨハネの生誕祭。ジョバンニ=ヨハネ、カンパネルラ=鐘。大正13年。内村鑑三に感化された新聞取扱業者斎藤宋次郎から間接的に、賢治はタイタニック号沈没の情報を得た。女性と子供がボートに乗せられ、男たちは残って犠牲となった。その自己犠牲を内村鑑三は讃えていた。賢治は突然の陸中海岸への旅。著者はその理由を探る。月明かりを頼りに海岸線を歩く。冬にもケンタウルス座が見えていた。ケンタウルは半人半馬の怪物で賢治自身である。土星(嘉内)とケンタウルは見つめ合っている。賢治はこの天体現象を知っていて確認したかったのである。「銀河鉄道の夜」での会話。他人の生命を救うために自分の生命を失ったものは、どうやって救われるのか?本当の神様論争となる。ジョバンニの持っていた切符はサンスクリット語の法華経であった。どこへでも行ける。しかし、最終稿ではその解読部分が無くなっている。結局、カンパネルロは自らの命を犠牲にして友達を助けていて、それで途中下車したのだ、ということが判る。

      終章:宮沢賢治の真実 p.375

それでは、とし子は何処にいるのか?それはさそり座。登場してくる工兵は天の川に橋をかけて、兄と妹を引き合わせる。。。賢治の詩は自分が感じたことや考えていることを理解してもらうための表現ではない。すべては賢治の遊びであり、避難場所であった。詩の内容は賢治の心の中に閉じ込めてあった。

      こうして賢治の青春の煩悶とそこからの解放が生涯に亘る彼の詩の背景をなしていることがほぼ解明されたわけだが、読者としては、必ずしも彼の煩悶に付き合う必要はなくて、むしろ、彼と「遊び」を共有すればよいのかもしれない。独特の語彙が僕達の期待を裏切り、どこか未知の世界観に連れて行ってくれるような感じを、ちょうど質の良い現代音楽のように味わうことができるのだから。
 
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