2018.05.31
      『自壊する国家』(新潮文庫)は、佐藤優のソ連崩壊観察記録であるが、人間の物語に焦点を当てていて、まるでドストエフスキーの登場人物みたいである。面白いけれども、読むのに骨が折れる。これに対して、歴史に焦点を当てたのが『国家の崩壊』(にんげん出版)で、そちらの方が理路整然としているらしい。そちらを先に読むべきだった。まあ、仕方ない、気になった処をメモしていく。サーシャは佐藤氏がモスクワ大学で知り合った学生である。彼がロシア理解の導き手となっている。

・・・第3章「情報分析官 佐藤優 の誕生」
      確かにジャーナリストや学者はゴルバチェフ政権に対する忠誠度を高めた。しかし、一般国民は情報公開によって、「我々はこんなひどい社会に生きているのか」と逆にソ連社会への根源的幻滅感を深めていくことになる。「グラースノチ」政策が公式に採択された1988年当時においても、大きなタブーが2つあった。一つ目は共産党一党独裁体制に対する疑念。二つ目は現ソ連下に深刻な民族問題が発生しているという事実の報道だった。
      サーシャの発言「ロシアの伝統的な狂信家の系譜であるレーニンは神も悪魔も信じていない。嘘を作り出してそれを信じるのが楽しいんだ。マルクシズムはその手段にすぎない。その嘘とシニズムで塗り固められた国家を作り上げた。西欧のプロレタリアートに革命を引き起こす力が無いことを知ると、権力維持のために新しい同盟軍を見つけた。これがイスラム教徒なのだ。だから、ソ連は今までイスラム教徒のアゼルバイジャンを擁護してきた。石油確保の為もある。しかし、ゴルバチョフは軸足をキリスト教徒のアルメニア人に移した。世界中に離散したアルメニア人は欧米の援助を得て経済活性化をする為に必要である。本当はユダヤ人を優遇したいのだが、ユダヤ人は党中央に嫌われているからアルメニア人が優遇される。」こうして、1988年、アゼルバイジャンによるアルメニア人迫害事件が起きた。中島みゆき『空があるかぎり』で引用される。

・・・第6章「怪僧ポローシン」
      ヨセフ・フロマートカという神学者はモラヴィア(現チェコ)生まれ。1918年チェコスロヴァキア建国後、プロテスタント(フス派)に改宗して、国家宗教を作ろうとした。1930年台、ナチズムの台頭によりアメリカに亡命。チェコのロンドン亡命政府に協力。戦後、社会主義国チェコに帰国。1956年のスターリン批判後、東西キリスト教徒の和解を求めて「キリスト者平和会議」を結成。西側からはKGBの手先と非難されたが、そこではキリスト者とマルクス主義の対話を呼びかけた。その共通項は「人間に対する理解」である。結果としてマルクス主義側に「人間の顔をした社会主義」という運動が生まれ、1968年の「プラハの春」に至るが、これをソ連が弾圧。フロマートカはソ連に抗議して、今度はソ連から「CIAの手先」と非難された。彼はカール・バルトのように神学活動に専心せず、「活動場所はこの世界である」として、「人生の選択は冷静に考えてより困難な方を選ぶのがキリスト教倫理だ」と書き、それを実践した。佐藤優はこれに感銘して、神学者ではなく外交官を選んだ。

      ビャチェスラフ・セルゲーヴィッチ・ポローシンはモスクワ生まれ。大学で「社会学」を専攻し、マックス・ウェーバーに感銘。大学5年生の時にロシア正教会の神父になることを決心した。嘘で固められたソ連社会のエリートになりたくなかったのである。神父には、独身制でキャリア組の黒司祭と、家族を持つ事が出来て、民衆の中で生活する白司祭というノンキャリア組がある。独身制を採るのは権力を子供に継承させるということを予防するためである。カトリックもそうであるし、中国の宦官制度も同じような主旨だった。黒司祭は神学研究に没頭できる。他方白司祭は民衆の相談に応じるという使命があるために、家族を持って民衆と悩みを共有する。ポローシンは白司祭を選択。ロシアをロシア正教という国家宗教の元に作り直そうという政治運動をする。やがて、彼は中央アジアのアニミズムや日本の神道に通底する自然宗教的要素の回復に関心を移す。1993年の最高会議(共産党)と大統領(エリツィン)との武力衝突があり、エリツィンが勝利すると、最高会議側に居たポローシンは降伏し、政治活動を止めた。ロシア正教幹部の方はこれを機会に政治的中立性を掲げて、事実上の国教としての地位を固めた。ポローシンは論文執筆に注力。1998年に学位を取得。その中で、現在のロシア正教では国家統一には不充分であり、宗教と法律、教会と国家を直接結びつける必要がある、と論じている。翌年、彼は何と、イスラム教徒に改宗してしまった。

・・・第8章「亡国の罠」
      1991年1月13日、リトアニアで独立系住民とソ連軍の衝突が起き、独立派は最高会議建物に籠城した。佐藤氏は親しくしていたソ連派のシュぺードから頼まれてリトアニアに邦人保護を名目にして入り、双方の陣地を行き来して、ソ連軍が独立派に武力行使しないことを独立派に伝えた。独立派は武力行使に怯えていて、降伏するつもりだったのに、彼の情報によって結果的にリトアニアがソ連から独立することになった。彼は新政府から勲章を貰った。ところで、ソ連軍の介入はゴルバチェフの指示に拠るものだったのだが、西側諸国が独立派の支持を表明した為に、ゴルバチョフは「これは私の指令ではない」として裏切ったのである。だから、リトアニア共産党のソ連維持派は何もできなくなったのである。シュペードはこの経緯を知っていて、対立を収める為に佐藤氏を派遣したのであった。しかし、その後リトアニア政府によってシュペードが逮捕され、彼は釈放後亡命し、佐藤氏は彼を助けるために、知人のリトアニア大使にかけあい、シュペードは家族と共にベラルーシに無事脱出、モスクワに戻って政治を生活の糧としてのみ生きる。彼の言葉「ユートピアとか怨念で動くような政治はロクなものじゃない。政治はもっといい加減なものなんだ。権力と金は交換可能なんだ。狡さや欲望を隠すところからソ連みたいな全体主義国家が生まれる。」

・・・右にエリツィン大統領、左にロシア共産党、真ん中にゴルバチョフ率いるソ連共産党。右も左もそれぞれが首尾一貫していたが、ゴルバチェフは言葉と行動が乖離していた。ロシア共産党はマルクス・レーニン主義とロシア正教を結びつける論理を必要としていた。佐藤はイデオロギー担当のツベコトフ部長に会った。「人間は悪事を行う動物です。人間を手放しで賛美することはできない。きちんとした階級意識を持った新しい人間をロシアの伝統の中から見出していくのです。コルホーズにしても、みんなで一緒に仕事をするのが好きだというのがロシア農民の伝統なのです。拝金主義を憎み、カネ以外に人生の価値を置くことを尊ぶのもロシアの伝統なのです。だから共産主義を受け入れたのです。進歩という幻想から私達は離れなくてはなりません。」1991年8月20日、3者はソ連解体を避けるために和解した。ソ連を残し、社会主義を放棄した。だが、その直前にクーデター騒ぎがあった。

・・・第9章「運命の朝」
      1991年8月19日、ロシア共産党「非常事態国家委員会」はゴルバチョフを軟禁し、エリツィンを閉じ込めた。社会主義を放棄することに抗議したのである。佐藤は、ツベコトフに紹介されてロシア共産党第二書記のイリインと親しくなっていて、彼に直接会うことができて、ゴルバチェフの無事をいち早く確認した。結局ロシア共産党の試みは失敗して、エリツィンが勝利した。イリインの言葉「社会主義を維持することは不可能だった。ゴルバチェフ時代のグラスノチでロシア人の欲望の体系が変容してしまった。無限に広がる欲望を押さえることができるのは思想、倫理だけだが、社会主義思想はそれを失っていた。フルシチョフ時代に一時期西側に開かれていて窓をブレジネフが閉ざしたのは、西側の大量消費という欲望の文化が入ってくるのを恐れたからだ。非常事態国家委員会の連中も物欲に取りつかれていた。だから、ヤナーエフやシェイニンが権力を握ったら、KGBと軍が結託して利権漁りをやっていただろう。」その後、イリインはアルコール中毒になり、1998年に死亡した。

・・・追加された「文庫本あとがき」
      補足説明があって助かる。佐藤氏は、1987年8月から1995年3月まで、27歳から35歳まで、モスクワの日本大使館に勤務して、ソ連崩壊を見た。

・第一期 1987.08〜88.末:
      ロシア語研修時代と雑用係り。学生寮のサーシャと出会い、以後彼から学び、人脈を作る。

・第二期 1989.始め〜90.末:
      ソ連内政と民族問題担当、専門の神学で培われた宗教勘を生かして情報収集。バルト三国の動きを追う。リトアニアでの武力衝突危機の時には、独立派とソ連派の両陣地を行き来して、情報を伝達して、独立に貢献し、後に勲章を授与された。

・第三期 1991.始め〜92.末:
      91.08ソ連共産党守旧派によるクーデター未遂、12月ソ連崩壊。佐藤氏は、守旧派ヤナーエフ・ソ連副大統領、ルビックス・ソ連共産党政治局員、イリイン・ロシア共産党第二書記と親しくなり、他方で、ツァガロッツェフ・エリツィン大統領補佐官、ポローシン・ロシア最高会議幹部会員(ロシア正教神父)とも友人となっていて、情勢を素早く把握した。西側諸国でゴルバチョフの無事を最初に確認したのは佐藤氏である。と、ここまでが本文の内容である。

・第四期 1993.始め〜95.03:
      ブルブリスに会う。8月19〜21日のクーデター騒動を背後で操り、ソ連を崩壊させ、エリツィンをも操っていたのがブルブリスという、人望が無いけれども、恐ろしく聡明な人物だった。弁証法を政治や社会に適用すると観念が実際の力になる事を彼から知る。エリツィンが彼を警戒して遠ざけた結果、政策が支離滅裂になってしまった。

      サーシャについて書いている。彼はラトビア出身の優秀な学生。共産党員にならなかったのにモスクワ大学に入学出来たくらいである。インテリゲンチャ、つまり、社会の主流派の中では息苦しさを感じて適合できない人間である。佐藤氏は彼と大学で出会い、最後まで彼から学ぶ。

      当時、ベルジャーエフが読まれていた。彼はレーニンに追放され、ソ連では禁書扱いである。ベルジャーエフはマルクスとレーニンとは断絶しているという。レーニンはむしろロシア正教の異端の伝統を引いている。カトリックやプロテスタントは神が人間を救うためにキリストを派遣したと考え、人間は本来的に堕落しているので、神の恩寵という一方的な行為によってしか救済されない、と考える。ロシア正教では、人が禁欲的な修行や特殊な才能によって神になれる、と考える。救済とは個人の問題ではなく、社会の救済であり、従って社会革命に結びつく。これがロシアインテリゲンチャの伝統である。レーニン主義が無神論を標榜することに必然性は無い。だから、ロシア人は神を再発見してロシア正教に基づいてソ連国家を再構築すべきである、と説く。ただ、サーシャの意見では、ベルジャーエフはこうしてマルクス主義を否定したが、民衆を操作可能な対象と考えるというボルシェビキのエリート主義に染まっているところに限界がある。

      サーシャが評価するのは、イワン・アレクサンドロビッチ・イリイン(1883-1954)である。彼はヘーゲル哲学を研究し、マルクス主義はこの世の問題の原因を社会だけに還元し、人間そのものが抱えている悪の問題から逃げている、と捉えていた。彼もまたレーニンによって追放され、ドイツの大学で職を得た。そこで、彼はナチズムを批判したため、ヒットラーが政権に付いたときに亡命した。ナチズムは(ファシズムと異なり)荒唐無稽な人種神話に基づいて暴力支配を貫いた。それは共産主義革命を阻止するための社会的本能であった。ファシズムはボルシェビズムへの反動で、動員型の政治によって国家の内部を固め、富める者から社会的弱者への再配分を実現した。生産の哲学に基づいて金融資本を制限し、植民地からの収奪を行う。しかし、この国家の方針に個人が逆らうことは許されないのである。イリインは、個人の自由を許容し、植民地主義を克服する方向にファシズムを転換することを考えていた。とりわけ、農本主義を導入して生産の哲学をロシアに回復させる。ソ連(レーニン)の「分配の哲学」はエゴイズムと享楽主義をもたらすだけである。ファシズムを改良して、個人が自発的に「生産の哲学」に従うようにすべきである。なお、現政権のプーチンはこのイリインの信奉者である。

      なお、佐藤氏は最近ムッソリーニのファシズムとヒトラーのナチズムと戦前日本の軍国主義の相違について『ファシズムの正体』という本を書いている。
 
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