2001.02.24

      2ヶ月ほどコタツの上にほっておいたダニエル・C・デネットの「解明される意識」を読み終えた。何しろ文章と話の筋が曲がりくねっていて判り難い。「私達のお話は紡ぎ出されるものではあるが、概して言えば、私達がお話を紡ぎ出すのではない。逆に、私達のお話の方が私達を紡ぎ出すのだ。私達人間の意識は、そして私達の物語的自己性は、私達のお話の所産ではあっても、私達のお話の源泉では無いのである。」多重人格障害というものもあり、またある一卵性双生児のように2人の人間が自己を共有しているという例もある。自己というのは脳が作り出した物語であり、自然や社会の中で生存して行く必要から生まれたものである。どんな動物も自分を認識する必要がある。どんなにお腹が空いても自分を食べるわけには行かない。自己認識の方法は、何かをして見てその結果を観察するという方法しかない。自らの外的指標だけでなく、内的な状況も認識する必要がある。人はこの為に虚実取り混ぜたお話を自らにしたり、点検したりする。こうして人は自己についての表象を作り上げる。語られる自己というものは単に物語りの重心であるに過ぎない。

      人は350万年前に2足歩行を始めてからしばらくは類人猿と脳の大きさは変わらなかったが、250万年前氷河期が始まると脳の大発達が始まって、15万年前にやっと止まった。したがって脳の大発達は言語的思考より前に終了していたのであり、この事は脳というハードウェアが多くの独立した刺激応答型の神経回路の並列計算機として完成されているということを示している。(この辺はディーコンの考えと異なるようである。ディーコンはむしろ脳の構造が言語的構造に改変されたと言っている。言語処理を専ら担当する脳の部分についてはそうであるし、ディーコンの言っている意味はもうすこしソフトウェア的な側面(高次結合)も含まれる。)社会性もその中で埋め込まれている。1万年前から、それまでに発達してきた言語表象を有力な手段として、その並列計算機に直列処理型のソフトウェア(ミーム)を発達させた。これにより、人の文化は継承可能性を飛躍的に高めて発達したわけであるが、同時にそれは人の意識がハードウェア的には捉え切れないということを意味する。それは実装されたさまざまなソフトウェアの集合体でしかない。それらは絶えず自分や環境についての物語を作っており、都合の悪い事は勝手に改竄したり消したりしている。時間的順序ですらハードウェアの並列的性格によって失う事がある。それらが自己という形で統一されている様に感じられる為にはそれなりの発達過程を必要とする。家族や社会や自然との関わりが通常であれば、内的言語によって自分の状況が肯定的に語られ続けることで意識は自己に統合される。

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