2016.09.11

広瀬隆「東京が壊滅する日」(ダイヤモンド社、2015年)は大分前に一度読んだのだが、なかなかまとめる気にならない。この人の本を初めて読んだのは「二酸化炭素温暖化説の崩壊」という新書本だった。原発が地球温暖化対策として持ち上げられていたから、それに異議を申し立てたのであるが、勢い余って地球温暖化そのものやその原因についてまで異議を唱えていた。得意の<悪の人脈>解析に偏りすぎてやや科学的論理が粗雑になりがちのようである。しかし今回の本で初めて知ったことは多かったので、少しづつまとめることにする。

● はじめに、と第1章では、福島の原発事故において放出され、地表に降り注いだ放射性物質の量(80%が海洋に落ちたと仮定している)が、広島と長崎の原爆の時の30倍程度であると試算している。(後の東京電力の推算では更に桁が多いようであるが。)実例比較として、丁度同程度の放射能が1951-58年に行われた大気中核実験によって、ネバダ、ユタ、アリゾナ州に降り注いだ。被害者や医師達の調査によって住民達の発癌被害が公になったのは20年後の事である。同時に、作業員や核戦争の演習として駆り出された多数の兵士達の発癌被害も問題となってきた。作業員の被爆量は年間換算(以下同様)20mSv(シーヴェルト)程度で、兵士達の被曝量は8-9mSv程度であった。これらの事から推測すれば、今回の放射能が将来何の影響も及ぼさないとはとても言えないだろう。(発癌被害が出やすいのが子供の甲状腺癌である。福島での状況は「科学」8月号の特集として纏まってきている。)また、当時の情報開示や避難指示、あるいは被曝限度の設定値に問題があったことも確かである。当面の措置であるヨウ素剤も配布されなかった。年間被曝限度を1mSvから20mSvに引き上げるように勧告して政府を助けたのはICRPであった。チェルノブイリでも5mSvを超える地域からは強制避難であり、放射線管理区域の設定も、労災認定基準も同様であるが、ICRPの権威を利用して福島の場合は20mSvにしたのである。原発作業者の限度は100mSvとされ、更に250mSvとした時期もあった。どうしてこんな事になったのか?その答えを著者は<悪の人脈>に求めることになる。。。

● 第2章では内部被曝の重要性を説明している。
・空間線量(年換算mSv)で測定できるのは γ 線(電磁波)であるが、長期に亘って人体に影響を及ぼすのは体内に取り込まれた放射性物質である。β 線(電子)やα 線(He4原子核)はエネルギーが高く、体内に取り込まれると近辺の染色体を破壊し続けるが、体外からは測定できない。粉砕乾燥して β 線 γ 線を使って食品に含まれる量を測定している。実際の影響は化学種差や個人差が大きいが、現在の安全基準は一般食品で 100Bq(ベクレル)/kg 以下である。もっとも、これは放射性廃棄物の下限基準であって、事故前の日本の食品のレベルが0.2Bq/kg程度であったことを考えれば、あまりにも甘すぎる。

・地球環境全体の放射能は大気中核実験と原発によって急激に増加していて、もはや自然放射能というのは蓄積された人工放射能というべきである。そのせいだけではないだろうが、1951-1981年の間にアメリカの大学生男子の精子量が60%に減っている、という報告がある。

・この章の後半ではアメリカでの大気中核実験と白血病や甲状腺癌の発生の因果関係を巡る裁判の歴史が語られていて、比較対象として福島での(御用)学者達の公式見解が批判されている。

● 第3章はネバダでの大気中核実験の風下におかれたモルモン教徒居住区の被災状況、およびその場所で撮影された数多くの有名な西部劇俳優の発癌状況が説明されている。放射能の砂の中で馬に乗って走り回っていたのであるから、内部被曝量は相当なものだったと思われる。

・大気中核実験の場所を選定した根拠は文書に残されていて、人口密度の小さい場所、ということである。だから、東風でカリフォルニアが風下になるときには実験されていない。南太平洋も同じ理由で選ばれた。少数であれば犠牲にしてもよい、という考え方であるが、同じことは日本の原発立地条件においても貫かれている。ただ、過疎地というのはしばしば大規模な食料の産地でもあるから、汚染されれば食料を失うことになる。

・ネバダの場合と福島の場合で似ているのは山間部への死の灰の蓄積である。阿武隈高地、奥羽山脈と越後山脈、関東山地と日本アルプス周辺である。除染は不可能であるから、将来に亘って影響が残るだろう。

● 第4章は放射能、つまりウラン産業の歴史である。
・・ウランの発見は1789年。19世紀には着色剤として写真乾板に用いられていたが、鉱夫の40-50%が癌で死亡し、ルイ・パストゥールが警告している。19世紀後半ロックフェラーがスタンダード石油を設立。1895年にレントゲンがX線を発見、アメリカでは、既に鉄道王モルガンの後ろ盾でジェネラル・エレクトリック社を設立していたエジソンはX線透視装置を発明した。実験台となった助手は皮膚癌に冒されて死亡した。同じころ、フランスで、ベクレルがウランからの放射線(α線)を発見し、キュリー夫妻がポロニウムやラジウムを発見した。アンリ・ロスチャイルドはラジウムの製造所を設立、さらにリオ・チント・ジンク社を介して南アフリカのウラン鉱山の利権を手に入れた。

・・ラジウムは後に目覚まし時計の蛍光塗料に使われ、それを塗布していた多くの女工が白血病で死亡した。これがきっかけとなり、ショウジョウバエでのX線被曝による遺伝子変異が発見されるに及んで、「国際X線及びラジウム防護委員会(IXRPC)」が設立され、1934年(キュリー夫人が死亡した年)に許容量を発表した。

・・戦後、1950年に原爆実験の実施組織「原子力エネルギー委員会(AEC)」傘下の「アメリカ放射線防護委員会(NCRP)」のメンバーが中心となって、IXRCPは「国際放射線防護委員会(ICRP)」へと改組されて、作業者の許容限度線量を150mSvに設定した。1954年には一般人の限度を15mSv更に58年には5mSvと設定した。元々は第一委員会が外部被曝を担当し、第二委員会が内部被曝を担当していたが、1951年に大気中核実験を始めるにあたって、第二委員会が(死の灰への批判をかわす為に)廃止されたことで、風下における内部被曝の実態が20年間も公にならなかったのである。

● 第5章は原爆の歴史である。
・ウランに中性子を衝突させると核分裂でバリウムが生じることが1932年に発見され、その後質量が全体として減少することが判った時点で、アインシュタインの式 E=mc2 から、膨大なエネルギーが放出されることが予想できた。1939年にルーズヴェルト大統領に宛てられたアインシュタインの書簡は有名であるが、科学者にしては事業家的な内容である。文章は既に連鎖核分裂を実験で成功させていた共著者レオ・シラードのものであろう。それが大統領に届く直前、ドイツはポーランドに侵攻していた。イギリスは十分なウラン235濃縮が出来なくても連鎖反応を起こさせるために必要なノルウェーの重水の工場から重水を買い占めて、装置を破壊した。1941年にはイギリスの研究組織が空爆を避けるためにアメリカに合流。またカリフォルニアでサイクロトロンによりウランに中性子を吸収させて、爆弾としてより使いやすいプルトニュームが作られることが発見された。

・・・この頃までアメリカは中立であったが、日本の真珠湾攻撃によってアメリカが参戦した。日独伊三国同盟があったために、自動的にアメリカはドイツとイタリアの敵として参戦した。このことはイギリスの思惑に合致し、ドイツとイタリアを困惑させ、第二次大戦の帰趨を決定づけた。ルーズヴェルトは真珠湾奇襲の兆候を知っていたが、敢えて放置した。その背景を著者が憶測する。

・・当時の財務長官はロスチャイルド家から来ており、息子はデュポン家の娘婿であり、モルガン商会と共同事業を行っていた。また、大統領選挙では、ロックフェラー財閥のスタンダード石油、モルガン財閥のデュポン、GEが支援していた。。。ともあれ、これらの巨大企業が総力を挙げてマンハッタン計画を推進した。1943-44年の間に、延べ45万人、22億ドル(2011年換算で10兆円)が投じられた。しかし原爆完成直前にルーズヴェルトが死去し、ドイツとイタリアが降伏してしまった。西側世界から遠いアジアに、しかも軍需施設ではなく大都市を選んで原爆を投下したことの背景には、日本を降伏させる為という表向き以外の重要な理由が存在していた。そもそも、日本に投下するという決定はドイツ降伏よりも前であった。

・・・1929年の大恐慌後、アメリカの殆どの大企業はロックフェラー(石油)とモルガン(鉄道と鉄鋼)によって支配されていた。この二社の資産総額はアメリカの国家予算の30倍(現代換算で8000兆円)であった。第二次大戦前1937年にモルガン財閥によってアメリカ財界代表者トム・ワトソンがドイツを訪れてIGファルベン(ドイツの軍事費の2/3を担当)との協力を約束。ナチスに選挙資金を提供したシュレーダーはウォール街でロックフェラーを手を組んでシュレーダー・ロックフェラー投資商会を設立。ワトソンのIBMは戦争中に兵器設計の受注で3.5倍に成長。アメリカの財閥にとってドイツは敵ではなく顧客であった。アメリカの総戦費2450億ドル(現在換算で1500兆円)の70%位が二大財閥の売り上げとなった。日本への原爆投下を勧告した委員会のメンバーは全員が彼らの組織下にあった。

・・ということで、著者は直接的な意図というよりは、軍需産業の論理にアメリカ政府が支配されていたということを述べている。彼らにとって原爆という新たなビジネスの犠牲者として相応しいのはビジネス仲間以外の敵国、つまり日本以外には考えられなかった。(日本は元々アメリカ石油産業の重要な顧客であった筈なのだが、無謀な領土の囲い込みを優先したということになる。)

● 第6章は恐るべき人体実験の話。
・・・1946年、マンハッタン計画のメンバーで原子力エネルギー委員会(AEC)が作られて核実験を担当する。国連にもそのコピーが作られて、アメリカの原子力独占を認め、その年の内にチャーチルの「鉄のカーテン」演説が行われ、長い冷戦が始まった。ほどなく、ビキニ環礁での核実験が始まり、被曝を制御するために、原爆障害調査委員会(ABCC)が設立され、広島と長崎の被爆者調査が始まった。治療は行われず、日本人による調査が禁じられてデータは独占された。ABCCの調査は生存者に限られていたから、5年以内に死亡した被害者を調査対象から外した。また爆心地から2.5km以内の被害者に限定されていた。内部被曝は無視され、残留放射線の影響も無視された。後遺症は癌と白血病に限定された。調査データはあると思われるが、少なくともこれら以外は公表されていない。被曝の影響を低く公表して、核実験への反発をかわすためである。

・ABCCはその後、1975年に放射線影響研究所として日本の組織となったが、そのメンバーには細菌・化学兵器の実験を行っていた731部隊の残党が多く入った。放影研の理事長だった重松逸造は、その後薬害スモン病、カドミウム汚染公害の研究班長として疫学犯罪を犯し、チェルノブイリ原発事故調査団長として、放射能被害は存在しない、と報告して世界中から怒りをかったが、それを支援したのが笹川財団である。1995年に笹川財団は曽野綾子が引き継いで日本財団となり、長崎大学(後に放影研理事長)の長瀧重信と山下俊一がチェルノブイリ被曝調査を行った。長瀧は福島で児童においても20mSvを被曝限度として設定する論陣を張った。山下俊一はヨード剤の服用は必要ないという講演を行った。

・・・ 1943年、オッペンハイマーはプルトニュームを食品に混ぜて50万人を殺害する、という毒物兵器の提案をしている。1945年には余命の短い患者や交通事故重傷者計18人にプルトニュームを注射して人体実験を行った。担当したのはマンハッタン計画の第二部門「医学班」で、主任はスタッフォード・ウォーレンであった。

・1947年、ウィリアム・グーリックは広島・呉・長崎・佐世保で、日本の児童約1000人にX線を大量に浴びせて、原爆の放射能の影響を調査した。

・1920年台にラジウムの夜光塗料で被曝し、生存していた元女工達の追跡調査が行われた。痛みを伴う骨髄検査が行われたが、補償も無く、調査中に80%が発癌し50%が死亡した。

・1960-72年にはシンシナティ大学で82人の末期癌患者に致死量のX線が照射され25人が60日以内に死亡した。測定器だけでなく、影響を調べる為にベッドの下にはネズミが置かれていた。担当した医師はジョセフ・ハミルトンである。

・ハーヴァード大学では東部の町で知的障害児を対象にして放射性物質の食事を与える実験が行われた。

・NASAはアポロ計画の為に131人の無期懲役囚の性器に対して放射線照射の実験を行った。

・・これらは個々の医師の特異な犯罪ではない。被曝データを収集して隠し、その権威となり、放射線安全基準を自由に操るための組織的な実験であった。1954年にICRPが一般人の被曝限度を年間15mSvに設定、その後58年に5mSvに改定した。この設定はジョセフ・ハミルトンというオッペンハイマー計画に参加した医師に拠るが、彼はそれより前1936年に白血病患者に放射性ナトリウムを静脈注射している。

● 第7章はソ連の話。
・・・大戦中ソ連は連合国の一員としてアメリカから軍事支援を受けていたから技術も容易に入手できた。ドイツからイギリスに亡命して原爆開発に加わったクラウス・フックスは共産主義に同調して自らスパイとなった。ケンブリッジ大学にも二重スパイが居て身元が割れたのは1979年であった。もう一人のヴィクター・ロスチャイルドが査問されたのは1986年であった。そもそもアインシュタイン書簡をルーズベルトに手渡したのはロスチャイルド家のアレクサンダー・ザックスで、彼はリーマン・ブラザーズの副社長でもあった。

・・・ ヒットラーとナチスは1939年に独ソ不可侵条約を結び、東西からポーランドに攻め入り、分割した。これが第二次大戦の始まりであるから、責任はドイツだけでなくソ連にもある。100万人以上のポーランド人がソ連に輸送された。1940年に突然ポーランド将校達の音信が途絶えたが、その実態が分かったのは、ドイツが不可侵条約を破棄してソ連に侵攻して最後の決戦に備えていた1943年の事だった。カチンの森に大量のポーランド人将校の虐殺死体を発見したのである。ドイツは公表してソ連を非難したが、その後トルストイ等を派遣してソ連が調査し、虐殺はドイツによるという報告を行った時、アメリカは偽であることを知りつつ支持した。

・1946年にソ連はオブニンスクに小型原子炉を建設、1949年にキシチムで原爆製造工場の建設を始めた。強制労働キャンプの囚人10万人が送り込まれた。科学者や技術者も含めて、そこに入った者は外に出てくることはなかった。1949年に長崎型(プルトニューム)の原爆実験が成功した。翌年にクラウス・フックスがスパイとして逮捕された。セミパラチンスクでの核実験は1991年まで続き、大気中実験は100回にも及んだ。被曝状況は惨憺たるものである。少なく見ても数十万人である。

・・・ ウラル山脈の南側チェリャビンスクでの巨大な放射能汚染事故を調査して最初に報告したのはイギリスに渡った時に国籍を剥奪されたジョレス・A・メドベージェフという生化学者であった。1976年である。ソ連当局によって極秘とされ、処理した関係者全てが守ったのだが、いくつかのミス(汚染量を1/1000に変えることを忘れて印刷されてしまった)と多種多様な報告書を調べ上げることで、ついに事実を掴んだのである。アメリカのCIAはこのソ連の不祥事告発に対して一貫してソ連側に立っていたが、1979年(スリーマイル原発事故の時)に経過が一冊の本に纏まり、誰も反論できなくなった。

・その場所にはプルトニューム製造工場があり(東海村や六ケ所村と同じ)高レベル液体廃棄物の処理において漏れた液が少しづつ地中に浸み込んだのである。地質の状態にも拠るのであろうが、プルトニュームは特定の深さの処に集積し、臨界量の4kgを超えた時点で爆発したと考えられている。(アメリカのハンフォード再処理工場でも貯蔵タンクから漏洩したプルトニュームが地表に蓄積されていて爆発寸前ということがあった。)

・汚染範囲は東京23区程度、死者は病院にかかった範囲だけでも数千人、強制退去は数万人。動物類は汚染されていたが、特に小型の動物や鳥の死骸が多い。魚類は生き延びた。樹木は生き返った。蟻は生き延びた。1960年の時点で、「ここから30キロのあいだ、絶対に自動車を止めず、最高速度で通過せよ。車から外へ出ることを禁ず。」という立て札が立っていた。人家が焼き払われていたのは、家財を取りに戻る人間が出ないようにという配慮であった。アメリカ軍部もCIAもAECもかなりな事実を把握している筈だが公表していない。ソ連にとっては勿論であるが、アメリカにとっても、放射性廃棄物による大惨事は不都合な真実である。

● 第8章は<悪の本丸>と目されたIAEA(国際原子力機関)の話。
・・・水爆はウランやプルトニュームの原爆を起爆剤として使って水素の核融合を起こさせる。3桁位威力が大きい。1952年にアメリカ、1953年にソ連が実験に成功した。1954年、ビキニで広島原爆の1000倍の威力の水爆実験が行われ、避難指示も受けないまま多数の住民と共に日本の漁船が約900隻被曝した。廃棄された魚は数百トンである。第五福竜丸では半年後に被曝による死者が出た。日本では2008万人の原水爆禁止署名が集まった。大気中核実験による地球規模の汚染はもはや<自然放射能>となったのであるが、日本の5-9歳の癌死亡率が1950年から1970年にかけて6倍に増加しているのはその影響と思われる。米ソ合わせて528回の大気中核実験が行われ、それに帰される死亡者数は240万人に達するという分析がある。

・ビキニでの水爆実験の3ヶ月前、アイゼンハワーは原子力の平和利用を打ち出して、原水爆から原子力発電へと舵を切った。究極の兵器・水爆が出来てしまい、原水爆の市場は(使えば人類が滅びるという意味で)ほぼ飽和してしまったから、AECと二大財閥は次の独占市場(フロンティア)として原子力発電に目を付けたのである。ウランの採掘・精製、原子力発電所のプラント建設、電気料金の徴収である。また核兵器を拡散させないためという目的もあり、AEC主導の元、国連の安全保障理事会の下にIAEAが設立された。核兵器開発は常任理事国に限定され、放射能の安全性基準はIAEAに独占された。1959年に健康に責任を持つ筈のWHOがIAEAと協定を結び、WHOは原子力分野での独立した医学調査が出来なくなったのである。

・・・ 日本では、朝鮮戦争から講和条約に至るアメリカの極東戦略の大転換により、1954年に防衛庁が設置され、巣鴨刑務所から笹川良一、岸信介、正力松太郎(元特高警察)が復帰した。旧731部隊も取引で免責された。更に、第五福竜丸の被曝の翌日に、中曽根康弘を中心とした保守3党によって、原子力予算が成立した。1956年に原子力委員会が設立され正力松太郎が委員長となった。<戦争中の行状を掴まれてAECの首輪を付けられた哀れな使用人>と著者は評している。1957年に原水爆禁止運動が盛り上がる中、ABCCを引き継いで放影研が設立された。放射能汚染を追及してきた日本学術会議を原子力平和利用へと変身させたのは茅誠司であった。日本放射線同位元素協会は日本アイソトープ協会と改称、会長に茅誠司が就任、放射線医学総合研究所(放医研)も含めて、原子力平和利用推進の方向に舵を切った。例えば、検査費収入を狙ったX線CTによる被曝は先進国平均の2倍である。原電による商用原子炉は1966年東海村、営業開始は1970年敦賀、電力会社の原子炉は1970年福島で、それぞれ稼働開始。

・・・ 以下、ややトピックス的な話。

・放射性廃棄物の危険性についての例。ナイアガラで見つかった癌発生率の異常の原因を調べていく内に、ニューヨーク、ペンシルヴェニア、ニュージャージー各州でも同様な異常が見られ、それらの共通点が放射性廃棄物処理場であった。まだ全容が明らかになるには10年位かかるだろう。

・1988年西ドイツの交通事故で違法に核物質を輸送していたトラックが横転して発覚した事件から、プルトニューム密輸事件が発覚した。IAEAの幹部が関わっていた。ヌーケムという化学会社がパキスタン、スーダン、リビアの3ヵ国にウランやプルトニュームを密輸して数百万マルクの金(数億円)が動いていた。

・・・ 2012年に、チェルノブイリの原発事故後も200万人が被曝で苦しんでいる、とウクライナのヤヌコヴィッチ大統領は語った。白血病や小児甲状腺癌だけでなく、白内障による失明、心筋梗塞、狭心症、脳血管障害、気管支炎等との因果関係が明らかになってきている。1999年にユーリ・バンダジェフスキーによって、被曝によるセシウム心筋症の報告があり、IAEAが打ち消そうとしている。バンダジェフスキーは、セシウムが筋肉に濃縮しやすいために、心筋と周辺細胞を破壊することを解剖学的に初めて明らかにした医師である。2009年ベラルーシの死亡原因の54%が心臓病となった。2015年茨城県鉾田市で150頭ものイルカが打ち上げられ、その肺が真っ白になっていた。つまり心筋梗塞である。

・・・ チェルノブイリ事故の4年後、ミンスクで15歳以下の子供の白血病が多発し、初めて食品の基準値が問題となった。当時は370Bq/kgであったが、この基準値は人体の細胞に影響が始まるとされる0.37Bqが 1g の食品で胃袋に入るという計算値になっている。この基準値を決めたIAEAの事務局次長がパウル・ジョレスであるが、彼は同時にネスレの会長でもあった。現在の基準値100Bq/kgも食品業界との妥協の産物に過ぎない。本来は1Bq/kgとすべきであろう。

● 第9章はアメリカ・ソ連以外の国々の原子力産業の現状である。
・・・ 日本には2系統あって、ひとつはGEからの導入と提携で、原電、東京、中部、東北、北陸、中国の各電力と東芝・日立、もうひとつはウェスティング・ハウスの系列で、原電、関西、九州、四国、北海道の各電力と三菱重工業である。2006年に東芝がウェスティング・ハウスをを買収した。これらの導入に伴う莫大な技術料が2大財閥に流れている。使用済み核燃料はフランスのコジェマに持ち込んでプルトニュームを抽出している。幻となりつつある核燃料サイクルの計画によって日本はプルトニュームの保有を認められている。日本でも3兆円投じて再処理工場を作り、2兆円投じて高速増殖炉を作ったのだが、いずれも稼働しそうにはない。これらの出費は自動的に電気代の値上げとなるから、電力会社の懐は痛まない仕組みになっている。ドイツがフランスでの再処理から手を引くと、日本が主要な顧客となるが、作られるプルトニュームはフランスの核兵器の材料となるだけでなく、密輸によってパキスタンに流れた。日本はプルトニュームの保有をIAEAから認めて貰うためにウランに混ぜて使っている(プルサーマル)が、採算が合わないばかりか、処理すればするほど核廃棄物が増える。

・・・ フランスは1960年に原爆実験に成功した。アルジェリアのサハラ砂漠である。大量被曝は放置された。1973年の石油ショックによって、フランスは猛然と原発を建設し始めた。69基ある。原子炉メーカーフラマトム、発電機メーカー、発電会社はいずれもロスチャイルド財閥の支配下である。フラマトムはコジェマと経営統合してアレヴァ(AREVA)となっている。福島に乗り込んで汚水処理を担当し、数百億円をかすめ取った。

・イギリスは1952年にオーストラリアで原爆実験に成功し、やはり原住民アボリジニや南太平洋住民の被曝を放置した。イギリスでも日本からの使用済み核燃料を処理している。原子力産業はフランス同様ロスチャイルド家が独占している。とりわけ、3大ウラン産地のカナダ、オーストラリア、南アフリカの鉱山を独占しており、カナダからはインドに輸出している。

・・・ イスラエルは秘密裡に原爆を開発し、常任理事国に次ぐ核兵器を所有している。イランとトルコは現在進行中であるが、いずれも大規模な地震に見舞われる国であるから、かなり危ない。インドはIAEAが管理していた研究用原子炉の使用済み核燃料を再処理して原爆を製造した。パキスタンは西ヨーロッパからの密輸によってプルトニュームを入手して原爆を開発した。中国は大気中核実験をなかなかやめなかったから、草原地帯の住民の被曝が数十万人ともいわれるが公表されていない。また、高レベル放射性廃棄物の最終処分場としてウィグル自治区が有力候補となっている。

・やはり近未来において怖いのはプルトニュームがテロリストの手に渡ることであろう。

● あとがき。
・2015年のIAEAによる報告書には日本の事故対策不備が指摘されたが、一方でさしたる被曝被害は起きていないという安全宣言をしている。こうして自らの権威を保つのが狙いであり、日本の新聞はこれに乗ったのであるが、被曝被害の方はまだこれからである。

・2009年から始まった世界規模での地震の連鎖、つまりプレートの玉突き的運動についての警告が述べられている。

・原発を止めたために化石燃料の輸入で電力会社の経営を圧迫している、という言い分に反論している。2008年(リーマンショックの年)と2013年を比較すると輸入費用は28→27兆円と減少している。2010年に比べて増加しているのはアベノミクスによる円安のためである。電力会社の経営悪化は化石燃料輸入のせいではなく、停止中原発の維持管理と安全対策で6兆円以上も使っているからである。

・経済的には既に原子力発電は採算が合わなくなってきている。アレヴァは2014年に6700億円の損失を出して実質上経営破綻している。著者のいう国際的な2大財閥にとって原子力産業が事業として魅力が無くなれば、後始末を各国政府(各国民の税金)に任せて次のフロンティアを捜すだけだろうが、それはまだ見えていない。
 
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