郡司ペギオ−幸夫「生きていることの科学」(講談社現代新書)は大分前に買ってあって、時々読み始めていたのだが、途中で諦めてきた。今回は少し進んだ。まず何を問題にしているのか?である。これはタイトルに書いてある通り、生命とは何か、という哲学的問いである。その為に絶対必要な概念として、マテリアルとか素材性とか質料とかいう言葉が登場して、しばらくはその話に終始する。

    我々は外部にあるモノを認識しているわけであるが、それはいろいろなアナロジーで語ることが出来る。生命に対してその成り立ちの説明やメカニズムの解説、世界という疑いようのない存在とその理解、他人の現実的な振る舞いとそのモデル(予想)、抽象的にはデータとプログラム、、。我々はこれらの前者と後者が完全に対応しているとは思っていない。自然科学の立場で言えば完全な対応を少なくとも目指しているし、その可能性を想定している。これは一元論である。しかし、現実的な立場から言えば、前者と後者は別世界のものであり、これが二元論である。大人になるとはこの二元論を認めることでもある。郡司氏はしかし、これらを媒介するものがあるはずだという。それを「質料」と名付けている。他人というのは確かに予測できない行動をするが、それこそ「心」であるということを我々は知っている。つまり、我々は理解を超えた存在を感得することが出来る。この感得、というのは一部の脳科学者のいうところのクオリアにも通じる。認知としては同じ筈なのだが、何かそれに付随する感覚がある、という。媒介する、というのは見かけ上二元論であって別のものであると思えたものが同じものでもある、ということである。

    質料の例としてボールペンを採りあげる。ボールペンは定義(後者)としてインクを保持していて引っ掻く事で線を描く道具である。従ってインクが無くなればそれは意味が無い。しかし現実にはボールペンの先は固いから紙を引っ掻けば痕は残るし、そもそも背中を掻くことだってできる。これは当初想定したボールペンの定義を超えていて、インクが無くなるという新しい状況において発見される性質である。それこそが、ボールペンというモノとボールペンの定義というプログラムの二元論を克服している。これが質料性であって、それはあらかじめ想定されるのではなくて、後で発見されるものである。ボールペンの定義と我々が感得しているボールペンとは異なり、その違いが質料である。それは時間性の中でしか実現しない。いくら網羅的にボールペンを定義しようとも、そこから時間性を剥奪してボールペンを語りきることはできない。ボールペンは我々の行為の中で絶えず新しい機能を提示してその定義を更新し続ける。

    データとプログラムが完全に一致するシステムがオートポイエーシスであり、しばしば生命のモデルとして考えられている。しかし、そのままでは進化しない。閉じた構造としてのオートポイエーシスが機能的に開かれていて、異なるレベルとの構造的カップリングによって進化が可能となる。例は個体レベルでの遺伝子と集団レベルでの遺伝子である。天敵が出現したときの猿が警戒音を出す事はその個体の生存を危うくするが、集団レベルでは遺伝子の生存に寄与している。利他行動が何故進化したのか、ということの説明である。ポイントはこのことが予め判っているわけではなくて、進化のあるレベルで「発現した」ということである。個体レベルとしてのシステムと集団レベルとしてのシステムがそれぞれ閉じているとしても、それが出会うことで新しい機能が出現する。2つの水準それぞれでの独立性を仮定した上で、それらが相互作用することで新しい機能が出現するというのは進化論や歴史において一般的な説明手法であるが、それは説明にすぎない。実際には最初から機能が出現することが判っている訳ではないからである。それはその場で予測できない形で出現する。それを後から説明するということは傍観者の態度にすぎない。その場での具体的処方箋を出さない限り現場に生きる者たちにとっての意味は無い。生きるとは何か、とか自由とは何か、という問いは説明されて終わるのではない。例えば自由は能動的で主体的か?選択の能動性は選択が必然的であるという感じがするということであり、それは受動的ということか?重要なのは能動・受動の間にある「手触り感」であり、これこそが質料性なのである。

    ここでデータとプログラムの議論に戻る。プログラムはデータとして提示可能な全体を規則として示したものであり、データはプログラムの実現態で可能なデータの内で実現したものである。データとプログラムの分節を作り出すものは実行環境である。データが現実との接点を有している以上、想定されないデータに対して想定されない計算が行われ、そのことがプログラムとデータの階層区分を曖昧にする。データが認識に対応するとすれば、その曖昧性(データが持ち得ない意味)がクオリアである。画像から文字を読み取るプログラムにおいて、プログラムを点検する限り何の曖昧性も無い。しかし、現実に紙の上に残った染みを読み取る時にはプログラムは予測不可能なデータを提示する。それは結局可能なデータの変更であり、プログラム定義の変更ということになる。DNAの機能は自己複製であり、それと突然変異とは独立な概念である。しかし、現実の細胞分裂では環境は絶えず揺らいでいて何が起きるか判らない。自己複製の表現としてy=xというグラフを考えてみる。理念的にはこの直線には太さが無いから、正に自己複製であるが、現実にグラフを描けば太さや幅のばらつき無しには描けない。理念が物質化されるときには必ずこういうことが起きる。それがマテリアルということである。

     以上が第一章:手触りのあるプログラムである。質料という概念は判ったと思うが、それは説明してしまうと質料ではなくなるものでもある。これをどうしようというのだろうか?それとこのような定義は「ダンゴムシに心はあるのか」 (森山徹著) では心の定義とされていた。そこでは「プログラム」が本能に対応していて、予期せぬ結果が自発性(心)に対応している。プログラムは予期せぬ結果を受けて、それを含むように改良できるから、このような定義の仕方は動的なものにならざるを得ないし、客観性という条件を満たすのも難しいと思う。しかし、郡司氏は科学者ではなくて哲学者なのだから、それでも構わないのであろう。そうすると本のタイトルの「科学」とは何を指すのだろうか?

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