さて「生きていることの科学」第二章である。最初に極限という概念が説明される。科学においてモデルは理想化された状態であるから、極限という概念が重要となる。現実には存在しないけれとも、理想的な振る舞いとして記述可能な系。そのような記述は近似的には有用であり、そこからの偏差で更に現実理解を深めることが出来る。ただ、生命や意識やそれらを維持する環境という概念については極限操作が有効に機能しない、という。これはまあ極限の取り方の問題だと思うのだが、とりあえずは首肯しておこう。

    次にという概念。突破できない、世界の限界。それとその中で動き回る私とは独立している。私がどうあろうと存在するのが壁なのだから。私は本来的には無限に自由なのだけれとも、たまたま世界は壁に囲まれていてその外には行けない、という考え方は本当に正しいのか?例として遠近法における消失点を考えると、これは世界の限界であるが、同時に全体を統一的に理解する概念装置である。消失点においては遠景近景の区別も無いからそれは世界の否定であるが、しかし同時に現実には遠景近景の区別を与える点でもある。最初は訳の判らない図形の集合と見えていたものが、ライオンの絵であると気付くとそれぞれの図形が首や脚や尻尾に見えてくる。個々の図形はライオンという全体によってそれらの独立性を否定される。これも消失点と同類である。まあ、これらは感覚と知覚の関係として一般的に言われていることでもあるが。ともあれ、こういった限界と区別の補完関係は固定されたものではない。遠近法で描かれる透視図の外側にはこれを描く人や世界がある。そのことに思い至れば消失点は操作可能であり、実際キュビズムの絵画がそれを実現したのである。

    生命について時間を無限に取ることには意味がないし、環境について環境が無限に大きいとすることには意味がない。それらの極限操作は問題を消失させるだけである。そこで、著者が持ち出すのがオープン・リミットという概念である。これは日常的に使われている。例として、一軒のラーメン屋が日本一のラーメン屋を目指すとすると、これは具体的なラーメン屋ではなくて、可能的に全てのラーメン屋よりも美味いとという理念的存在である。彼が修行を積んで日本一になったと確信すれば、それが具体的に彼のラーメン屋に変質する。しかし、彼が自分の店よりも美味いラーメン屋を見つけると、これではまずいので、味についてはその店が一番かもしれないけれど、外観は自分の店が一番だと思い直す。ここで日本一というのは種類があることになってしまう。最初の日本一という極限が理念的で具体的に意味のない記号だからこそ平気で具体的個物に置き換えられ、それによって理念が変質してしまう。これは時間に媒介されたプロセスであって、最後に出てくる変質は最初の段階では潜在しているに過ぎない。味と外観という2つの基準が出来てしまった以上、日本一という概念は不定になってしまうから、コミュニケーションが成り立たない。しかし、ここでまた、総合的に日本一、という理念的な概念を作り出すことによってコミュニケーションが成り立つようになるだろう。それは具体的な意味は無いのであるが、少なくとも言葉の上では会話が出来る。オープン・リミットというのは、こういう風に部分と全体の関係を閉じさせるために未定義性・不定性を許して使われる概念である。

    オープン・リミットの代表的な例は指示詞である。あれ、これ、というのは発せられた時に具体的な意味を持たないが、何か存在する支持対象と見なされて、聞く人に何?と問わせる。もっとも老人同士の会話はしばしば指示詞ばかりに終始して周りの人たちには何の会話が見当も付かない場合があるが。一般的に言えば、会話の当人が世界の完全な知識を有していない限り、どんな一般名詞を使ってもそれには潜在的な不定性が付きまとうのであり、そもそもその事によって会話が継続されるのである。生きているシステムはその環境と分離できず運動し続けるわけであるが、オープン・リミットはこれを単なる解釈に留まらず現実の世界で実のあるモノとするための道具となる。つまり、(人間が)質料性を回復する(生きていく)ための道具ということである。

    次の例は就職マニュアルである。様々な職種が可能性として説明されたマニュアルを見て、そこからだけ選択するという行為は本質的に困難である。これは可能性として提示された職種が理念的な存在であり、現実に選択した場合の1個の職種と否定関係におかれるからである。これは選択前と選択後とを透明な自分が外から眺めているからに過ぎない。本当のところは選択前の職種は可能性ではなく潜在性であり、自らの質料性により時間を作り出すことで選択を行っている。理念的世界と現実世界の同一視はしばしば問題となる。イチローや野茂が野球選手を夢見てそれを実現した、という情報は「私」にとって理念的存在に過ぎないが、これを現実と混同して、本当に好きなことを選択しなければならない、という強迫観念に捉われる。そうなると様々な可能性を想像することになって、それが可能性である限り現実の否定であるから、選択が不可能になる。本当のところは今生きている事が選択そのものであるにも関わらず。

    このような強迫観念に捉われた状態においても有効な選択を可能にするための装置、質料の装置化の例として義歯を考える。歯は外のものを咀嚼して内のものにする装置であり、わたくしというシステムの外界へのインターフェースであり、内と外の区別を創り出すものである。歯の質料性は歯が現実の中で使われることによって出現し、それによって歯の能力や限界や感覚を学習してきた。歯にはまだ多くの実現されていない潜在性があるが、われわれはこういった歯の質料性を意識していない。それが意識されるのは、例えば、義歯を入れて違和感を感じるときである。

    仮想世界でそのような装置が考えられるであろうか?例えばオンラインゲームの貨幣を考えてみよう。それは現実世界とは無関係であるにも関わらず、ゲームをする人たちが欲しがるという現実性を契機にして現実世界で売り買いされる。これは当初想定された使い方を逸脱しているが質料性とは言えない。ゲーム貨幣の区別するのはゲーム内部の個と社会であって、それはゲーム外部の世界とは関係がない。現実の貨幣であれば例えば擦り切れるというようなことは潜在した質料性として考えられる。

    プログラムを実現する電子回路というものを考えてみる。プログラムで駆動される世界は仮想的なものであり、純粋に理念的なものであるが、実際には電子回路の駆動には物質とエネルギーが必要である。プログラムがうまく実行されている限りその現実は隠蔽されているが、回路が焼き切れてしまったとき、現実が関与してシステムを破綻させる。これも、その現実はプログラムそのものに潜在しているとは言えない。

    電源を動き回って探すロボットはどうだろうか?プログラムに従ってロボットは現実世界のコンセントを探し、自らのプラグを差し込んでみて新たな電源であれば今まで繋いであったプラグは引き抜かれる、というものである。次々とコンセントを渡り歩く事でロボットが動き回る。ここで、例えば、既に繋いでいるコンセントが接触不良を起こして一時的にロボットの制御が出来なくなり、誤って自分のプラグではなくて別のプラグを繋いでしまうかもしれない。これは結果的には延長コードを作り上げたことになる。これはロボットの行動範囲を拡大することになる。コンセントというものがプログラムによって完全に限定されていないし、接触不良も想定されていない、という意味での質料性が潜在していたのである。電源を探して入れるプログラムは仮想と現実との区別をコンセントのタイプを媒介として創り出す。このコンセントのタイプに潜在している質料性を利用して現実と仮想との関係自身が変革される。このとき、接触が悪くて一時的に停止するというのが、義歯の痛みに相当する。

    という次第で、とりあえず著者の目的とするところが少しは明らかになってきた。仮想世界に閉じ込められて身動きできなくなった人のための質料の装置化の理論、ということである。けれどもまだ何も言えていない。なかなか論文を読むようなわけには行かないのですっきりしない。何しろ、比喩によって論理を組み立ているのだから、常識的には論外である。しかしまあもう少しの辛抱かもしれない。

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