「脳はいかにして心を創りだすのか」第2章:

    脳のみが意味を所有している。それは表象とは全く異なるものであり、脳の状態そのものである。表象は意味の他者との間での同化の手段に過ぎない。表象をやりとりすることで意味の共有を確認する。共同作業こそ社会をまとめる真の接着剤である。共に行動する時に我々は同化する。言葉のみによる意思疎通は単に認知的なものであり、意味の深い同化が生み出す信頼の感覚を呼び起こすことは無い。意味が成長し作動するプロセスが志向性である。それは大部分無意識下である。運動選手や舞踊家に典型を見る。

・統一性(unity):自己を非自己から区別する、
・全体性(wholeness):自己がその成熟形の実現に向かって進む、
・目的(purpose)または意図(intent):自己が非自己の形に合致するように変えていく、

によって特徴付けられる。進化の途上で、志向性のメカニズムが最初に登場した感覚システムは嗅覚システムであった。それは大脳皮質に直結している。他の感覚に比べてもっとも強い感情を引き起こす。

    唯物論者は、心を物理的な流れ(物質、エネルギー、情報)と見なして、多くの成果を挙げてきた。単純化して言えば、脳は物質とエネルギーを操作することによって情報を処理している。しかし、この考えでは「注意」が生じる理由を説明できない。また、脳の活動の測定と記述は出来ても、それが何を意味しているのかは判らない。彼らにとって意識とは、抑圧したり、変容させたり、薬剤によって正常化させたりすることが可能な脳の機能的状態に過ぎない。意味を持つ行動を随意的として、認識論という哲学的敷物の下に隠している。

    認知主義者は心を表象の集合と考えている。プラトン、デカルト、カントという哲学の発展の中で、心は表象を通じてしか世界を知ることが出来ない。この考え方により情報処理の技術が発展した。チョムスキーの言語学では、言語は生得的な「深部構造」を有していて、諸言語に共通している。1940年代から始まった人口知能においては、ニューロンをブール代数とアリストテレス的論理を実行するバイナリースイッチと見なした。しかし、その機械内のシンボリックな表象に意味を付け加える方法が判らない。意味は単にシンボル間の関係でしかなく、世界と関わりを持てない。

    プラグマティストは、心を世界への働きかけから生じるダイナミックな構造と考える。トーマス・アクィナスはアリストテレスの能動知性説に意志と志向の区別を付け加えることによってキリスト教の教義と整合させた。意志は自由意思に基づく倫理的選択を行うが、志向とは生命体の力を発現させるメカニズムであって、動物一般が有している。動物は自己を他から隔離する境界をもつ統一体であって、自己はその境界を外界に向けて押し広げるために身体を用いる。身体を外界に突き出すことによって学び、自己を変える。身体は外部からの刺激を吸収するのではなくて、脳内部から発出した志向が外部に引き起こした結果として生じる刺激の形に合わせて自らの形を変えていく。コーヒーポットとカップを持ってコーヒーを注ごうとしている時、脳の中にそれらの幾何学的配置が写し取られるのではない。ポットとカップを操作できるように自らの手を変化させている。事物の意味はその行動とそれに続いて起ころうとしている事、飲むとか、味わうとか、他の人に勧めるとか、に従って増していく。こうして生み出される意味は外部から持ち込まれたものではなくて、自分が生み出したものである。限られた能力を世界の無限性に適合させる上で、知覚システムの「一方向性」こそが我々の強みである。それなくしては、無限に広がる細部によって情報過多に陥るであろう。志向性は意識を必要としないが、それが意味を生み出すためには行動が必要である。ハイデッガー、メルロ=ポンティ、ギブソン、デューイ、ピアジェ等がこの系列の考え方である。しかし、プラグマティズムは神経科学や認知科学において中心的な位置を占めることに失敗してきた。その理由はそもそも行動がどのようにして起きるのかを説明できないからである。唯物論や認識論においては行動は刺激によって誘発されることで理論が閉じる。しかし、それらの究極の原因を結局は外的なものに頼らざるを得なかった。ビッグバン、中国の「気」、神経エネルギー、、等々。プラグマティストは今やそれをニューロン集団の「自己組織化」と名づけることが出来る。

    具体的には、大脳辺縁系が志向性の中枢である。サンショウウオの脳は前脳、中脳、後脳と分かれているが、前脳は3つの部分、
・嗅覚を直接に、また脳幹を介して他の感覚を処理する感覚領域、
・身体運動を司る領域、
・時空の定位を行う連合領域(後の海馬)
からなり、これらを結びつけるTA(transfer area)で繋がっている。
これらの連合によって、外界に対しては、自己の行動による感覚変化を予測して実際の感覚変化との差分から外界の変化を認識し、筋肉と関節からの情報(自己受容感覚)で実際の自己の運動結果を認識する。エネルギーが不足してくれば、臓器からの感覚(内部感覚)によって空腹感覚が生じて、嗅覚を利用した食物の探索を開始する。資源の争奪戦の中で生き残るためには意味の構築を増大しなくてはならず、これらの脳の内部連絡が複雑になる。ヒトにおいては、左外側大脳半球に言語中枢が形成され、前頭葉前部の巨大化によって高度な社会的行動が可能となった。これらの新しい部分が破壊され個々の機能障害が生じるにしても、志向性は維持されるが、しばしばアルツハイマー病で侵されるのは感覚皮質から海馬への経路であり、志向性そのものが障害される。

    以下、下記10のブロックに別けて、志向性が生み出されるメカニズムを記述することになるが、これらは各章で論じられるカオスダイナミクスであるので、ここに書いても意味は判らない。

第3章:ブロック(1)、(2)、(3)

    神経細胞には2種あり、一つは投射ニューロンで、遠方まで軸索を伸ばしていて興奮性である。もう一つは介在(局所)ニューロンで近辺で繋がっていて、これは興奮性と抑制性がある。情報は軸索からパルス電流として生じる。強さはパルスの密度である。これは膜透過によるイオンバランスの崩れであり、電位として観測される。軸索上を減衰することなく伝わり、多数の末端から神経伝達物質を放出し、他の細胞の樹状突起の受容体に拡散して取り込まれて、樹状突起の電流となる。これも膜透過によるイオンバランスの崩れであり、内部と外部で逆向きの電流が生じている。更にそれは多数の受容体での取り込みの総和としてまとめて電流となる。この変化は神経中枢部でのシナプス後電位として観測される。電流の波はトリガーゾーンでその多数の樹状突起から運ばれてくる電流の総和の大きさに応じて次のパルス電流を軸索に生じる。パルスは典型的には毎秒1回程度であり、持続時間は1msec程度である。細胞内に挿入した電極によって電位変化が測定できるが、これがミクロな情報である。それに対して細胞外の皮質電位は近辺の細胞の活動の総和であり、メゾスコピックな情報である。細胞から出ている樹状突起の占める空間には100万個の他の細胞があり、その内1%程度と結合している。血管やグリア細胞の分枝に沿って存在する神経細胞同士の密なネットワークを神経絨(neuropil)と言う。シナプスは「学習」によって絶えず生じたり無くなったりする。また樹状突起も絶えず蠢いている。近傍の神経細胞同志は、お互いに興奮性であれば協調的に、お互いに抑制性であれば拮抗的に、正のフィードバックとなり、興奮性と抑制性であれば負のフィードバックとなる。神経細胞集団の情報伝達(樹状突起電流を介してトリガーゾーンでのパルス生成)は、こういった近傍の細胞同士の複雑なネットワークによって非対称シグモイド状の曲線(正電流の側に偏る)で表される。

    個別の神経細胞から、細胞集団へのダイナミクスの遷移は、4つの条件、
1.半自立的で独立した要素、
2.それらの間の弱い相互作用、
3.相互作用の非線形性、
4.物質とエネルギー資源と廃物質廃熱の捨て場、
の揃ったシステムにおいて、相互作用密度がある閾値を越える時に見られる「全体化」の一例である。
集団の活動レベルは個々の要素にではなく、集団によって決定されるようなり、個々の要素はその中で組織される。
その閾値は、個々の神経細胞が送るパルス数と同等のパルス数を受け取る状態である。
神経細胞の活動は飽和するので発散することなく、自発的に活動を維持するようになる。
これは活動度空間(神経細胞の状態変数)において、
(1)安定な1点(点アトラクター)
で表され、ベイスンと呼ばれる周辺領域内では人為的な変更に対してもその状態に復帰する。
それに対して、活動が 0の点は不安定点であるのに、麻酔によって安定化されている。
外部刺激により、点アトラクターの周りの振動が興奮性と抑制性の神経細胞の循環的な活動によって引き起こされて次第に点アトラクターに収束する。
その周期は20〜100Hz程度であり、これが γ波である。γ波が生じて減衰する様子が
(2)皮質誘発電位
として観測される。麻酔とは逆に活動が持続的に賦活されると、循環的振動は活動度空間における循環軌道を描き、その極限として
(3)リミットサイクルアトラクター
となる。

    神経細胞集団の外部からの誘発電位刺激の繰り返しに対して、馴化によって、その応答ゲインが減少し、より早く減衰する場合と、むしろ応答ゲインが増加して、新しいリミットサイクルを形成する場合がある。後者は学習である。神経細胞集団は、こうして形成された様々なリミットサイクルや点アトラクターの間を外部刺激や自発的活動によって遷移するようになる。それら全体はアトラクター地形を形成し、覚醒した動物の皮質活動は自ら形成したその地形上での遍歴的軌道として記述できることになる。つまり、志向性の源は神経集団における正負のフィードバック・ループにあるとも言える。
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