2013.01.11

      昨日、家内が記念病院に行ったついでに中央図書館に寄って、藤本氏の詩集「別れの準備」(花神社)を借りてきたので読んでみた。以前調べた時は無い筈だったのだが、調べ損ねたのであろう。なかなか面白い詩集だと思った。医学生として、人間の身体を物のように扱わざるを得ない、という違和感は誰もが乗り越えなくてはならない感覚かもしれない。そういう感覚と現代的な虚無感というか不安というものが暗喩として結び付けられているのが最初の数編であるが、後者については直接的には語られず著者の生活描写の中に暗示される。パリ人肉事件なども登場する。インドでの死者の焼却職人の話も出てくる。

「別れの準備」という詩になると、空になって、広告が取り除かれ、照明も消された最終電車が街の灯りに照らされて骨組みが映る、といった風景が宮澤賢治の心象風景のように描写されて、それが突然、別れの準備、つまり死者を物としてきれいさっぱりと人間界から消してしまう、という準備をした上でしか、人間との関わりができない、という関係性の不安が直接語られる。これがH氏賞を与えられたというのも良く判る。なかなか良い出来である。

その次の「自動改札機」は友人への哀悼である。機械に対して語り続ける、という暗喩。それは物を介してしか人と繋がる事が出来ない、という不安であり、かって僕も学生の頃抱いていたから、よく判る。

その次の「帰路」もなかなか面白い。京都から滋賀へ車で帰る帰路と食物が食道から直腸まで移動していく様を直喩で詩にしたものである。

「アダムの顎骨」では、その当時アフリカで発見された人類祖先の化石を題材にして、学者や神学者達の不安を描写する。

「情死」も奈良県巨勢山古墳での男女の骨の発見を題材にしている。

他にも同様な手口の詩が続く。手馴れた感じすらするが、詩として面白いと思った。こういう、目の前の風景や、新聞記事やらの観察と心象との繋がりというのは、しばしば経験することなので、詩の題材にしやすいのかなあ、とも思う。ただ、そういう経験をする、という事自体、著者が言うに言われぬ空虚感を持て余す時間を多く持っていた、ということでもある。まあ、それこそが詩人の要件の一つ(もう一つは勿論言葉の世界に馴染んでいること)なのだが。
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