第4章:感覚と知覚:ブロック(4)〜(8)

    代表として嗅覚を採り上げる。嗅覚受容器は約1億個の一次嗅神経細胞から成る。これが直接嗅球に軸索を伸ばしている。匂いは吸気によって入り乱流によって不規則に変化するから、嗅覚受容器の繰り出すパターンも不規則である。嗅球には、皮質へと投射する投射神経(M)があり、周辺の外部介在神経(PG)から興奮性入力を、内部介在神経(G)から抑制性入力を受けている。嗅球投射神経は外側嗅索で皮質に刺激を伝え、内部介在神経は内側嗅索で皮質から刺激を受け取る。投射神経は相互作用を介して嗅球全体に広がる
(4)不規則(カオス的)な背景活動
を行っている。これがメゾスコピックにガンマ波(20〜100Hz)として観測される。
吸気によって、背景活動のレベルが上がり、それまで一次嗅覚神経細胞からの入力に支配されていた投射神経の活動は嗅球
(5)内部の相互作用で決まる空間的パターン
に支配されるようになる。
この遷移は嗅球
(6)内部での非線形な相互作用によって投射神経のトリガーゾーンにおける応答のシグモイド曲線において作用点が正にずれて増幅される
ためである。(この遷移は覚醒時にしか起きない。)こうして、嗅球内の投射神経のパターンは位相を揃えながらも振幅的に空間変調された波として観測されることになる。著者等は兎の嗅球に貼り付けた8×8個の電極からその測定を行った。この空間パターンがその時点で意味のある匂い物質に対応するが、その
(7)パターン自身は個体及びその来歴に依存する。
具体的には、強化刺激を入れた実験によって、同一の匂い物質に対するパターンは変化する。それは個々の化学物質というよりは、その生体における「意味」に対応している。この振幅変調パターンの変化は、多くの人は受容体と投射神経の結合の変化によると考えていたが、実際には投射神経と皮質神経との結合の変化によるものであった。つまり、空間パターンの変化は強化学習によって「意味」を与えられた刺激に対して起こる。全く新たな刺激に対してはパルスバーストは生じない(嗅球での神経絨の活動遷移が起きない)が、何も生じないことが刺激となり、動物は位置探索的な行動を起こす。それによって「意味」が見出されれば(条件付けが起きれば)空間パターンを少しづつ形成するが、そうでなければ無視し続ける(慣れ)。これは多くのノイズから有用なものをより分けるための手法である。

    この本にはあまり詳しく書いていないが、それぞれの一次嗅覚神経細胞が特有の分子構造パターンに選択的に興奮するから、一種類の化学物質には特定の複数種の一次嗅神経細胞が興奮する。また同じ種類の受容体を持つ一次嗅覚細胞は嗅球内の同一の神経細胞に繋がっているから、その組み合わせによって化学物質を同定することは原理的には可能であるし、これは最近の嗅覚センサーの原理でもある。しかし、脳にとって、どの細胞がどの分子構造を認識しているのかを知る事は不可能であるし、全ての化学物質を知る必要もない。折角得られている空間パターンは背景ノイズに埋もれてしまい、その中から学習によって強化されたものが、全く別のパターンとして再組織される。そのプロセスがカオスダイナミクスとして理解できる。つまり、嗅球での神経絨は呼気においては単一アトラクターに安定しているが、吸気によって他のアトラクターに遷移する。アトラクターは学習によって生成されていて、それぞれが生体にとって特有の「意味」を持つ。新たなアトラクターの生成は、神経絨全体の結合状態を変化させるために、他のアトラクターにも影響を与える。

    「世界からの入力の形は、脳における創造の逐次的な段階を経て形成される振幅変調パターンの形として同化され、それはミクロスコピックからメゾスコピックなスケールへと進んでいきます。このプロセスは、入力の形が、脳の意味構造への情報としてそのまま伝達あるいは注入されるのではないことの理由を示しています。その代わりに、脳は過去の歴史と、その目的に即した個体独自のパターンを作り上げます。これが細胞における同化のプロセスであり、自己の世界に対する一方向的な関係の実行です。」

    嗅覚受容体レベルでの情報(これを直接処理できれば化学物質が同定できる)は一旦嗅球で統合されて空間パターンとなるが、それは前脳皮質で再統合されて中枢に投射される。その過程で生体にとって無意味な情報は捨てられて嗅覚となる。嗅覚システムを脳から切り離しても、同様なカオス的活動を続ける。3つのメゾスコピックなモジュール、嗅球、前嗅核、前梨状皮質はそれぞれが、特有な周波数を持つリミットサイクルアトラクターを持ち、それらのカップリングから嗅覚システム特有のカオス的活動(皿に持ったスパゲッティーのような捩れたり折れ曲がったりしながら重なっている)が生まれる。その基底的活動は点アトラクターに留まることなく、また周期的なものでもない。(癲癇発作やパーキンソン病では周期的になる。)遷移が容易になるようにいつでも準備している。つまりアトラクターベイスンの縁にある。しかし、これだけでは複雑な情報処理装置と変わらない。嗅覚システムを切り離すと学習は出来なくなる。志向性というのは、こういう結果としての情報処理装置の事ではない。学習の必須条件が志向性ということである。また学習は絶えず行われていて、嗅覚システムは絶えず更新されている。

    嗅覚以外の感覚についても同様な構造が観察されている。つまり、
(8)視覚、聴覚、体性感覚入力の細部は削ぎ落とされ、相互に結合されたシグナルとしての刺激の意味だけが残る。

  このような一連の実験結果を哲学的な立場に応じて解釈することができる。

・唯物論者によれば、匂い刺激によって受容体に齎された情報は活動電位に変換され嗅球でパターンに変換され、記憶から取り出されたパターンと照合されて、一致が認められると脳の他の部分へ送られる。このような解釈は工学的応用には役に立つであろうが、嗅球でパターンが生じるためにはあらかじめ学習が必要であり、その段階で「意味」が確定している。

・認知主義者によれは、個々の振幅変調パターンが一つの匂いを表している。受容体の活動電位は匂いの特徴を表し、嗅球が内部相互作用で同期するプロセスは諸特徴の結合である。それは更に高次の神経細胞によってその特徴を持つ対象を表す。しかし、実際はそもそも嗅球は特定の刺激に対して特定の興奮パターンを示すという恒常性を持たない。

・プラグマティストの見解では、嗅球でのパターンは意味構築の初期段階であり、ギブソンのいうアフォーダンスに相当する。それによって動物はどうすべきかを内部で形成する。振幅変調パターンは刺激そのもののパターンでもなく、刺激を脳に運ぶパルスパターンでもないから匂いの表象ではない。また受容体興奮のパターンから嗅球でのパターンが生じるプロセスはカオスダイナミクスだから予測不可能である。それは更に空間的統合によって失われるので情報でもない。それは、個体の歴史においてユニークであり、嗅球神経絨におけるシナプス結合を形作った過去の経験から浮かび上がるものである。本人以外の誰も変調パターンから匂いを言い当てる事は出来ない。そもそも変調パターン自身が絶えず変遷しているから恒常的なものでもない。これが、著者によれば、「各人のクオリアを他のいかなる人の経験からも隔てている独我的孤立の神経学的基盤であり、アクィナスに源を発する知覚の一方向性という帰納的原理に対する神経生理学的証明でもある。」
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