6月27日(水):
 ノーム・チョムスキー&ロバート・C・バーウィック『チョムスキー言語学講義−言語はいかにして進化したか』(ちくま学芸文庫)は今年の初め頃、本屋で偶然見つけたのだが、読み通すのに随分難儀した。というか最近の分子進化学と言語学の知識がないとよく判らないので、殆ど飛ばして読んだ。

・・チョムスキーの言語学、つまり生成文法理論はどうやら言語学会の主流のようであるが、ホモサピエンス固有の本能としての言語能力を想定し、それを実証しようとしている。他方でそれ以外の動物にも言語能力がある、という研究が進展しているから、それに対抗して、人間固有の言語能力とは何か、ということを明確にせざるを得ない。辿り着いた地点は「階層性」(回帰性、recursion)という事になる。つまり、言葉が意味との対応を持つということだけではなくて、言葉の組み合わせが新たな言語要素としてより上の階層で扱われる、ということである。簡単な例としては、文章全体がより大きな文章の中の単語のようなものとして使われる、という事である。

・・話し言葉は時間軸の順に並べられるしかないのであるが、それを複雑な階層構造として扱う能力である。こういう観点に立てば、音声を操り、そこから音節や単語を聞き取るような能力は人間固有の言語能力ではない、ということになる。たとえそれが発揮されない場合においても、例えば手話によって人間は言語能力を発揮することが出来る。

・・その能力は8万年位前に完成し、その実体は、ブローカー野とウェルニッケ野と(中側頭皮質にあるとされる)辞書・語彙の領域を環状につなく経路であるらしい。人間においてのみ、2-3歳頃にこの環状経路が出来上がる。このような能力は明らかにコミュニケーションの必要性というよりも効率的な思考や推論や発明の必要性によって進化したと考えられる、という。。。

・・・チョムスキーの語る言語は常識的な意味での言語(コミュニケーションや思考の手段)から見るとかなり限定された能力(人間固有の能力)である。ここまで限定されると、果たしてそれは言語にだけ関係する能力なのか?という疑問も湧いてくる。物事を階層的に認識したり処理したりする能力は、何も言語だけに発揮されている訳ではないからである。一つの物事を複数の観点から認識する、とか、複数の事物に対して共通性を見出して新たな概念を作り出す、とかいう能力が関係しているのだが、それら全てが言語を介しているのだろうか?これはまあ判らないけれども、言語によって明示的に伝えることができて、効率的になり、文化的伝承が可能になった、というのは確かだろう。脳の中の言語現象が全て表に露わにされるわけでもないのだろうし、そういう意味で、脳の中で環状の情報ループを回って処理されることを、無意識的な処理も含めて一般的に言語と定義してしまえば、チョムスキーのいう言語概念に近いものになるのであろう。まあ、人間の言語活動においては、階層的な情報処理が自動化されている、ということは言えるのかもしれない。

・・・勿論ピダハンの言語 のように、そこまで必要がなくて、階層処理が言語において使われていない、という場合もあるし、この言語における階層処理能力にはかなりな個人差がある、という事も日頃経験するところである。僕の印象では、その階層処理能力というのは、書き言葉の訓練によって高められる。書いたり読んだりすることは、単語を空間に並べてみるという練習であり、それによって、話された順序ではお互いに遠い単語同士を結び付けることが容易になり、結果的にそれを結び目として階層的な関係を組み立てることができるからである。そういう意味で、チョムスキーの言語論は書き言葉が出現して以降の変質した言語を語っているようにも思える。

・・・2004年に読んだ酒井邦嘉『言語の脳科学』(中公新書)をパラパラと読み直している。まあ、いかにも東大の講義という感じで、言語の脳科学を目指した研究の現状をうまく纏めているが、これといった確信には至らない。それから15年が経過している。ここで書かれている断片的で未確立の多くの実験はその後どうなったのだろうか?多少は進展があったのだろうか?ネットで調べてみたら YouTubeに公開講座があった。まあ、チョムスキーの考えは、正しいとか間違っているとかいうものではなくて、脳と言語の関係を研究するための作業仮説と見れば良いだろう。

 
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