2015.03.03

      この間テレビ録画で見た「ピダハン」については、問題の宣教師(伝道師)ダニエル・L・エヴェレットの本 "Don't sleep, there are snakes" (寝る前の挨拶)の翻訳があったので、借りてきた。屋代道子訳でみすず書房である(2012年)。以下はそのメモである。纏めるとこの間のテレビ録画 と同じようなことになると思うので、そのまま載せる。

      1977年にダンは新任の伝道師として初めてピダハンに会った。最初の方の記述は断片的である。
・挨拶などの語彙「交感的言語使用」が無い。
・マラリアになっても観察するだけで同情はしない。(第3章で妻と子供がマラリアにかかって死にそうになる。)
・死は受け入れるだけ。
・苦痛に対してはできることをしようとする。(だから、薬は欲しがる。)

第5章:物質文化と儀式の欠如

・家:6本の柱と草葺の屋根とベッド用の縁台。
・道具:弓と矢。籠はその場で作って間に合わせて捨てる。
  ネックレスは霊魂避けの簡単なもの。
  カヌーは作らないで盗むか物々交換。
・肉の保存法は知っているが自分達の為には使わない。
・食べることに無計画である。
・男は矢を使った漁、女は収穫や採集やたまには釣りが仕事。
  栽培はマニオク(青酸を含むのでそれを水で流せる人間しか食べない)。
・道具を軽視する。釣竿を見ても使わない。
・将来よりも現在を楽しむことにエネルギーを注ぐ。
・大きな河の側に住んでいるから、
  乾季には砂浜の上で共同生活する。魚も濃縮されて豊富。
  雨季には核家族に分かれて川沿いにそれぞれが住み着く。
・儀式が見当たらない。死者は埋葬されるが、単に腐敗を避けるためと思われる。
・性交をするにはジャングルに入ればよい。特に禁則は無い。
  同棲すれば婚姻と認められる。伴侶に逃げられた場合は探し廻って嘆く。
・踊りと歌の時には、性交がかなり起きる。
  儀式的な踊りでは大抵は男が精霊を演じる。
・ピダハンは直接経験を重んじ、実際に見ていない出来事に関する定型の言葉と行為は避ける。
  何らかの価値を一定の記号に置き換えるのを嫌う。
  価値や情報はそれを実際に経験した人物から行動や言葉で伝える。

第6章:家族と集団

・楽天的。穏やかで平和的。
・親族関係を表す語は以下の4つしかない、
  ・マイーイ(親、親の親、さらに一時的に従属したい相手)
  ・アハイギー(同胞、外部に対してはピダハン一般:ピダハン同士は無条件に助け合う)
  ・ホアギー(息子)
  ・カイ(娘)
・従兄弟との結婚には禁忌がない。
・子供は大人と対等に扱う。赤ちゃん言葉が無い。
  赤ん坊が危険な遊びをしても見ている。怪我をすると叱る。
  つまり経験が唯一の教師である。
・出産は妊婦が一人で行う。不幸にも死んでしまえば、それは弱かっただけなのだ。
・人は強くあらねばならず、困難は自分で切り抜けねばならない。
  それができない者を見殺しにすることもある。

      ピダハンの物語は単純な文の集合体であり、それは物語の構成を意識して並べられる。つまり、文は他の文を想定しているから、構成という意味で再帰構造(引用によって意味が確定する)を持っている。しかし、文そのものが再帰構造を持つことはない。このことが意味するのは、つまり、再帰構造は知性の働きではあっても、文法の要素ではない、ということである。再帰構造については後で詳述する。

      ピダハンは死ぬと思ったら助けない。生き延びさせようとする治療は死にかけた者を苦しませるだけだと考えている。場合によっては安楽死させる。

      まず、自分自身、そして身内の生存が優先される。しかしピダハンへの帰属意識を大事にする。大抵は外部から持ち込まれたアルコールを飲まされて起きる殺人などの犯罪的行為があっても責めたり復讐したりはしない。平穏を保つ。浮気の時には配偶者を懲らしめるがそれは一種の儀式のようであり、懲らしめられる側は笑って耐えている。

      どんな社会でも成員にルールを守らせるための社会的強制力があるが、ピダハンの場合、それは政治権力ではなく、村八分と精霊である。精霊は文明人から見ればジャングルの風音になどに誘起された幻覚であるが、ピダハンにとっては社会的に共有される体験(客観的体験)である。現代の学問の立場から見れはそれは歴史の蓄積による無意識の知恵の啓示であろう。

第7章:自然と直接体験

      ピダハンにとって、宇宙はスポンジを重ねたケーキのようなもので、それぞれの層はビギーと呼ばれる境界で仕切られている。空の上にも世界があり、地面の下にも世界がある。ビギーとビギーの間の全ての空間つまり生物圏を表すのがオイーである。ピダハンは数の概念を持たない。すこし多いとかすこし大きい、というだけである。色を表現する言葉も無い。数も勘定も色も具体的な状況から一般化された抽象概念である。それが無いからといって具体的な状況把握に支障は生じない。

      ピダハンは経験していない出来事については語らない。だから数や色もカテゴリー化されない。イビピーオという言葉は、何かが経験領域から出て行くかそこに入ってくる、という意味で使われる。異なる階層の存在である精霊も目撃するから語る。夢においてもピダハン自身が異なる階層へと移動するから、これも語られる。新しい体験はしばしば音楽的に語られる。直接経験しか語らないということはピダハンが遠い過去や遠い未来を語らないということでもある。単純な現在形、過去形、未来形はあるが、完了形や断言にならない埋め込み文は存在しない。親戚関係が単純なのも直接経験の範囲を超えた関係(曽祖父とか)が語られないからである。創世神話や口承民話もない。

      人間型生き物は2種に別れる。イービイシ(血液が流れている)とイービイシヒアバ(血液が無い)。精霊は後者である。しばしば白人も後者に入れられる。精霊はしばしば演じられるが、ピダハンはそれを演技だとは思わない。精霊だと信じている。

第8章:10代のトゥーカアガ−殺人と社会

      アプリナ族とコラリオ一家の抗争に巻き込まれたピダハン。ピダハンはピダハン以外の民族が自分達の土地に入ってくることを許さない。黙認するように見えてもやがては追い出すか殺す。一人のピダハンがアプリナ族を撃ち彼等を追い出した。しかし、そのピダハンは結局ピダハンの社会から追われて一人で死んだ。警察が捜査し始めて、災いがピダハン全体に及ぶと思われたからである。

第9章:自由に生きる土地

      ピダハン居住区を決める調査。

第10章:カボクロ−ブラジル、アマゾン地方の暮らしの構図

      カボクロの話。

第11章:ピダハン語の音

      ピダハン語の音素は、母音が i,a,o の3つで、子音が p,t,k,s,h,b,g,xの8つ。但し、女性は h の代わりに s を使う。また x は声門閉鎖音である(他の言語にはあまりない)。重要な点であるが、子音は必ずしも固定されていない。つまり自由に入れ替えられる傾向にある。ピダハン語で音素以外に重要な要素は 音節の長さ(5種)と声調(音高の変化)であり、これによって意味が区別されるために、多くの音素を必要としないし、音素を変えても意味が通じる。

      通常、言語は声門で発せられた音声を口腔で調整して生じるが、それ以外に、口笛語り(男性のみである。特に狩の時に動物に気づかれやすい低い音を避けるために使われる。)、ハミング(囁きとして使われる)、叫び(音素を単純化して目立つように、つまりノイズの多いときに使う)、音楽(音の高低を強調するために顎を外すようなやり方で使う。新規な情報を話すときとか、精霊と交渉するときに使う)の4種の情報チャンネルがある。1984年に論文 "Linguistic Inquiry" で発表したところ言語学会で大騒動になった。

第12章:ピダハンの単語

      数を表す言葉が無い。数の概念は経験の直接性を超えた事物の一般化(カテゴリー化)であるから、ピダハンは拒絶している。動詞が中心であり、接尾辞を16種持つ。特異なのは、確認的接尾辞である。伝聞と観察と推論。これはその動詞で表現される意味がどうやって齎されたかを表す。通常の言語では以下のように Recursion を使って表現されるべきことである。例:「私は猫が死んだことを聞いた」「私は猫が死んだのを見た」「私は猫が死んだと推定する」、普通の言語では再帰的に区別するこれらの意味を動詞の接尾辞だけで区別する。逆に言うとそれ以外の曖昧な情報を語る手段が無い。つまり、語り手がどうやって彼の情報を得たか、という事に強い関心があり、事実性に敏感である。

     著者による言語論解説である。人間の言語の2つの側面であるが、1.音声のパターン化を語と文の文法パターンに当てはめる、という、<二重構造>の能力; 2.意味:これはreference(指示作用)とsense(意義作用)があり、後者は話しての考え方を表す作用と単語同士の関係性と使われ方を表す作用である。この意味作用は共同体での共通了解事項としてのみ働くことが出来る。言語学では、こうして、言語を1.文化的な位置づけと用法の側面から、2.音声構造の側面から、3.文脈、文章、物語において言語がどういう使われ方をするかという側面から、論じるのであるが、ピダハン語についてはこれらに追加して、単語の意味だけでなく、音自体も文化によって規定されている、という側面を論じなければならない。

第13章:文法はどれだけ必要か

      文化は世界から我々が感じ取るさまざまなものに意味付けしてくれる。発音と単語と文法だけでは生活の場でその言語を使うことは出来ない。文化的背景を理解する必要がある。

      ピダハンは外国の思想や哲学、技術を取り入れようとしない。生活を便利にする道具類は外国人から拝借するものではあっても、自ら修理したり作ったりはしない。漁法は槍と手である。釣竿は使わない。これを反映して、ピダハンの話法は言語学の分類でいうと、普遍的、exoteric ではなく、排外的、esosteric である。日常に経験することしか話さない。保守的である。

      文法については一般に、修飾/変容(動詞の意味を限定する作用)、転移(順序を変えることで焦点を変える、英語の疑問文など)、叙法(平叙、疑問、命令の区別)、が問題となるが、ピダハンでは転移が殆ど用いられない。転移の機能は物語や文脈で代用される。esoteric な文化においては文法はそれほど重要でないのである。このような考え方はチョムスキーの生成文法理論に合わない。彼によれば、一見転移の起こらない言語の文法も英語と変わらなくて、ただ表向き出現しないだけであるという。彼にとって文法は抽象的なものであり、そこから現実の言語の文法に至る道筋においては事情に応じていかようにでも変化する。しかし、現実の言語に認められない文法が実は頭の中には存在している、というのは如何に完全であっても観念論である。チョムスキー理論に替わって、意味主導の文法を考えている人は多く居る。ヴァン・ヴァリンの「役割と参照文法」、ウィリアム・クロフトの「急進的構文文法」(ヒトが持つ認知の共通性を基礎にする)。

第14章:価値と語り−言葉と文化の協調

      ピダハンは、白人がたとえピダハン語を話したとしても、それは電話機が話しているようなもので、本当に話しているとは思っていないし自分達の言葉を本当に判っているとは思っていないように思われる時がある。文化と言語は切り離せない。現代言語学は切り離すことを選んだから、「自然現象」としての言語に正面から向き合えなくなったのである。言語によって人間は初めて世界を認識することを共有できるようになった。勿論言語以外にも伝統や生物学が社会的価値を伝播させているのは言うまでもないが、言語はいわば人類の手にした最初の社会契約なのである。

      ピダハンは方向を指示するのに川とジャングルを使う。上流方向か下流方向か、ジャングルに入る方向か出る方向か、である。つまり自分の身体を基準(endcentric orientation)にはしない。環境を基準にする(exocentric orientation)。だから右と左という概念が無い。
 文化と認知(思考そのもの、大脳の働きという意味)と文法の関係についての理論を分類してみた。
・認知→文法:チョムスキーの普遍文法(脳の構造が文法を支配している)
・文法→認知:サピア=ウォーフ。言語によって認知が制限される。
・認知→文化:ブレント・バーリンとポール・ケイ:文化における色の分類は大脳の認知の影響である。
・文法→文化:グレッグ・アーバン:能動態ど受動態とのいずれが主役かで、英雄的な社会かそうでないかが決まってくる。
・文化→認知:ピダハン
・文化→文法:民族文法

第15章:再帰−言葉の入れ子人形

      Recursion(再帰)というのは、文の入れ子構造である。文の要素として他の文が使われることである。ピダハン語にはそれが無い。そのための関係代名詞のような単語もないし、それを特徴付ける声調変化も観察されていない。しかし、同じ内容は再帰構造無しでも表現可能なのである。実際の例:「おい、バイター、針を持って来てくれ。ダンがその針を買った。同じ針だ。」これは、「ダンが買って来た針を持って来てくれ。」という再帰表現と同じ意味になるが、ピダハン語ではそのような表現(構文)が見られない。(勿論物語としては再帰構造を持っている。)チョムスキーは限られた人間の脳で無限の文章を生み出すことが出来るには再帰構造が必須であるとして、それを人間に生得的に備わった言語能力と考えた。従って言語学会で大論争になったのである。チョムスキー派は、ピダハン語にそれが見られないのは再帰構造は可能なのだが単に利用されていないだけだ、といった。しかし、そうだとすると、構文上で再帰構造が必須とは言えなくなる。更に進んで、再帰構造というのは言葉を組み合わせて新しい内容を表現する能力そのものである、とまで定義を拡張するが、これは既に言語の話ではなく、推論の話になっている。言語は推論能力そのものではない。現象として見えない事を言語と呼ぶべきではない。ピダハン語で再帰的な意味を伝えるために、文末に語句が追加したり繰り返したりされる(上の例では「同じ針だ。」)が、これを指して再帰構造という説もある。確かに論理学ではそう言える。しかしそのような例(反復)はヒト以外(犬が反復して吼える)にも観察される。

      著者の解釈。ピダハン語に再帰構造が無い理由は、彼等の文化が直接体験を重視するからだと考えられる。再帰構造に含まれる従属節は話し手と聞き手の双方が了解している事項であり、直接体験ではないから敢えて言語化されないという意味である。文法はむしろそのような文化的制約の結果ではないだろうか?文法的に再帰構造を抑制しているのは、名詞の修飾語や所有格が一つしか許されないというピダハン語の制限である。より一般的に言うと、ピダハン語では等位接続が無いので、他にも例えば and構文が許されない。選言文( or構文)も許されない。他の特徴、数詞や色の名前が無いことや血縁関係が簡素であることもこの直接体験の重視という文化的制約の結果として解釈できる。文法がヒト固有の本能なのではなくて、逆に文法は一般的な知性がその社会の文化的制約下で生み出したものではないのか?動作と状態を語りあうことから言語が発生したと考えれば、動詞と名詞とそれらの修飾語が生じるのは必然であろうが、そこから先は遺伝子が方向付けしなくても自然に文法構造が生まれてくるのではないだろうか?ハーバート・サイモンは「複雑性の構造」で、再帰構造は文法なのではなく、ヒトの脳の全般的な認知能力の一過程である、と主張している。

第16章:曲がった頭とまっすぐな頭−言語と真実を見る視点

      知識とは、経験が文化と個々人の精神を鏡として解釈されるものだ。ピダハンにとって、プラグマティズムと同様、知識の価値はそれが真実であるということではなくて、有用であるということである。ピダハンは話し手以外に他者の権威を認めない。話の事実性に敏感である。怪しいと思えば自ら確かめに行く。

      その人が持つ文化的背景は異なる文化が根付く環境下では認知に障壁となる。ジャングルの中では照明が障壁となって大蛇の赤い目が見えない。他方、ピダハンは2次元の画像(写真など)の解釈が苦手である。少しでも情報量が落とされると、何を表しているのかが判らない。街に連れてくるとジャングルの中と同様に一列で歩く。並んで歩くと敵に襲われやすいからである。予期できない行動をする自動車を怖がる。

      チョムスキーとピンカーへの反論。1950年チョムスキーが魅惑的な論文を発表してから、言語学の在り方が変わった。それまでのフィールドでの帰納学が一転して研究室での演繹学になった。ピダハン語の事実は普遍文法に基づく演繹構造では説明できない。これはパラダイムが変わる徴候ではないか。文法は文化の影響を受けないのではなく、文化が文法を制約する、というパラダイム。知識は携帯可能と思われ勝ちであるが、大抵は地域限定的である。同様に理論はどこでも通用するものではなく、現場で修正を受けるものである。人類学やフィールド調査と切り離された言語学は、化学薬品とも実験室とも切り離された化学のようなものだ。

第17章:伝道者を無神論に導く

      1983年の末には、ピダハン語の習得も進んで、聖書の翻訳も進み始めて、ピダハンに聖書を読み聞かせることも始めたが、ピダハンは前任者の話からイエスを知っていたし、自分達には必要がないこともはっきり言った。やがて、マルコの福音書をピダハン語で録音して聞かせることになった。最初はダンの(自分の)声で、次は一人のピダハンの声で。唯一面白がったのは預言者ヨハネが首を刎ねられる場面だった。彼等は聖書の話を信じない。何故ならば話している当人がイエスを見ていないことが明白だからである。ピダハンは直接体験の話しか信じない。だから、実証できない創世神話を信じることは不可能である。ダンが信仰に導かれた話(継母の自殺に伴う煩悶)を聞いて笑った。ピダハンは自殺などという馬鹿なことはしないからである。ピダハンは満たされた生活をしていて悩みなど無いのである。ダンは次第に自分よりもピダハンの方が正しいのではないか、と思い始め、密かに信仰を捨てるに至った。公表したのはそれから20年後である。家族も友人も失い、ピダハンが最も信頼できる友人となった。

      私達は身の周りをできるだけ単純化しようとする。そうしないと複雑極まる世界に一歩を踏み出せないからだ。その極みは科学者の「理論」である。理論化に身を捧げる研究者達は真実に近づいていると思い込んでいる。しかし、我々は少しばかり進化した霊長類に過ぎない。宇宙が我々の登場を待っていて真実の扉を開けてくれると思うのは馬鹿げている。ヒトは鼻だけを見て像の全体象を知ろうとする愚か者であり、単に明るいからといって落とした筈のない場所で探し物をしようとするうっかり者である。ピダハンは断固として有用な実用性に踏みとどまる。天国も地獄も信じない。大義も信じない。人生に絶対は無く、正義も神聖も罪も無い。彼らにとって真実とは、魚を獲ること、カヌーを漕ぐこと、子供らと笑いあうこと、兄弟を愛すること、マラリアで死ぬことだ。自分達が知らないことは心配しないし、知りうるとも考えない。他者の知識や回答を欲しがらない。

       こうしてメモを書きながら読み終えたのだが、再度コンパクトに纏めなおす気にはならない。上述の「理論化に身を捧げる研究者達」のところが引っかかっている。ダンがイエスの福音を伝えようとしてピダハンの世界に飛び込んだというのは、僕が大学での研究者の道を諦めて企業に入ったのと似ているような気もしてきた。僕の場合、生活の問題もあったが、研究の先行きの展望が見えなくなっていたという事もあり、他方では企業において化学の理論が役に立つ筈だという意気込みもあった。よく似ているのであるが、違うのはその後である。いろいろと紆余曲折があったものの、企業の人たちは基本的には新しい物の見方を受容する文化を持っていたからである。理論の限界は痛切に感じたが、ただそれによって僕は「信仰」を捨てたわけではなく、むしろ物理から工学から生理学から、と様々な分野の理論を掻き集めて現実世界を記述し予言しようとしてきた。現在もそれは政治や経済まで分野を広げながら続いている。つまり、僕はいまだに理論信仰に浸っていて、そのことでますます現実から遠ざかっているのかもしれない。

      言語論については僕は著者の見方に全面的に賛成である。ただ、生成文法理論の勉強をしたわけでもないから断定は出来ないが、それは言語の起源や本質を語ったもの(WHY?)ではなくて、現代英語が如何に構成されているかについて(HOW?)の素晴らしい理論なのだと思う。コンピュータに英語を話させるような技術的応用には随分役に立っていて、だからこそアメリカの言語学会で主流になっているのではないだろうか?日本語に適用することも出来るとされてはいるが結構無理があるようである。

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