オリバー・サックス「妻を帽子とまちがええた男」(晶文社)

      第1部の認知に関する例が何らかの精神活動の欠如であるのに対して、第2部は「過剰」で特徴付けられる。このあたりまではある程度知っていた。第3章は記憶−追想、第4部は知恵遅れとされる人たちに見られる特異な能力である。個々の例が大変興味深く記述も共感的であるが、それについてはまた別の機会に再読して見たいと思う。サックスという人はこういう臨床例を通じて人間性とは何かということに思いを寄せざるを得なくなる。それが主題と言うべきであろう。

     「 ヒトはいかにして人になったか?」という問いに対して、それは言語能力である、と一言で要約することは大ざっぱには正しいであろう。言語によって人は漠然とした具体的な世界を分割して名づけ、それらの関係を表現する。このような活動は勿論言語無しでも可能である。そもそも動物の行動と言うのはそういうことなのだから。しかし言語によって掠め取られモデル化された世界は言語のシステムの中で自由に改変されることになるから、人は環境を改変することが出来る。知的というのはそういうことと理解されている。

      このような常識に対して、それが「人間性」の全てであるのか?ということである。実はそれはとんでもない誤解であって、言語能力は人間性のほんの一部にしか過ぎない。場合によっては言語能力を持つ事によって抑圧された「人間性」もある。実際の例としては、臭覚が異常に発達し、一人一人の他人や物をを臭いで区別していくという世界を実際に経験した人も登場する。そこには何ともいえない安心感や存在感があったので、治療によってそれから解放されたときに世界が一気に味気ないものに感じられてしまう。あるいは幼い時の記憶が異常に亢進し、かってない幸福感に満たされるという症状もある。極端な例としては言語能力はなくても数についての能力が異常に亢進している人たちも居る。こういう人たちにとって、数の性質(素数であるとか、素因数分解であるとか、、)によって個々の数があたかも親しい家族の一員一人一人のように感じられるらしい。素数によって数の世界は秩序付けられるので、素数は本当の意味での世界のモデルなのである。100年先の年月日から曜日を当てたりする。曜日は計算されるのではなく、7という素数が見せてくれるのである。双子の例は大変興味深い。二人で素数を示し続けることでお互いの理解をしていて、その中で充足している。素数は二人にとっての「単語」であり、共通の「家族」である。サックスが素数の数表を手にしてその中に割り込むと二人は更に多くの桁の素数を挙げていって、ついに数表の範囲を飛び出してしまう。音楽と言うのはやや特権的な位置を占めている。それはそれ自身で世界を構成しているので多くの知的に阻害されていると考えられる人たちの安住の場所であると同時に、「普通の人」にも相当な共感を与える。

     さて、言語能力の範囲以外のものとは何であろうか?言語というのは恣意的、抽象的なものであるから、ある意味で実は言語以外のものこそ世界の全てなのである。具体性、という言葉がサックスの本の中ではよく登場する。言語で名づける以前の生々しい体験である。それは普通の人にはあまり意識されないから当たり前のものなのであるが、言語という抽象的な存在を「意味」に結びつけるのはその「具体性」なのである。それだけが欠けてしまった人も居る。その人にとっては言語を操って記述することは出来ても「意味」だけが判らない。目の前に居る人が誰かということは、顔の特徴をひとつひとつ確認していって「知的に」論理構成で導くしかないのである。あるいは身体感覚(筋肉等が緊張する時の感覚、第6感覚)をなくした人も居る。その人は視覚を身体感覚の代理に使って普通に生活することが出来るようにはなっても、自分が生きて存在しているという感じが全く無いのである。

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