とにもかくにも、2年半程時間をかけて、Karen Barad, "Meeting the Universe Halfway" を読み終えたので、彼女の主張する agential reality という世界観について要約してみる。

      本の中では、確か2ケ所位に触れられている関係性存在論(relational ontology)というのが、その根底にあると思う。それは、関係する個物の前に関係が存在する、という考えである。そもそもこういう風に言葉で表現したとき、その表現自身がこの考え方を裏切っている。言葉は当初から存在を想定されている意味単位を繋ぎあわせるという構造を最初から持っているからである。しかし不思議なもので、それでも、その矛盾した表現そのものの意図を我々は理解し合う。それは、我々が関係を生み出す主体的存在として自らを認識しているためである。それはともかく、量子力学的世界観はこの関係性存在論である、と言う。しかしながら、具体的に何か現実世界を記述したり、予言したりするためには、関係する個物を前提としないような言語体系が必要となる。それは数学(この場合はヒルベルト空間論)である。以下、まずは von Neumann (1932年)に倣って、量子力学を要約してみる。

      数学的概念であるヒルベルト空間の中の点として量子状態を表現する。まずはこれから扱うことになる系を限定する。それは原理的には世界全体であっても構わないのであるが、我々は世界の内部に居るのでそれを外から眺めたり操作することはできないから、現実的には実験室で可能な限り隔離された系ということになる。その上で、その系において同時に測定可能な物理量の全ての組を選択し、それらの物理量を測定したときに、確定的にある値を持つ状態を定義し、その全ての状態(全ての可能な値を持つ状態)をヒルベルト空間の基底ベクトルとする。空間内の点は、つまり量子的状態はそれらの基底ベクトルの線形和であって、その係数は任意の複素数である。その状態は、基底とするベクトルを定義する物理量の値を持つ状態(固有状態)の『重ね合わせ』と呼ばれる。(基底を変えれば係数は当然変わるが同じベクトルである。)係数の自乗和は 1 になるように規格化される。この事と係数が複素数であることから、結局、この重ね合わせ状態は波動の重ね合わせと同等の性質を持ち、位相角度α(実数)を持つ位相因子(exp(iα))が時間的に変動している。このような量子状態を定義した上で、選択されなかった物理量を含めて、あらゆる可能な物理量がヒルベルト空間内において演算子として定義される。演算子と言うのはベクトルを別のベクトルに変換する操作(行列)である。ただし、その演算子の固有状態に対しては、別のベクトルではなく、その固有ベクトルにその固有値(確定した物理量の値)を掛けるだけである。

      物理量はその系の確定した性質ではなくて、その系への操作の方法である。操作は具体的には系を測定することで、それは系と測定装置を相互作用させることである。つまり、元々想定されていた隔離された系が測定装置という系と一緒になってより大きな系となり、その系の状態が『もつれ状態』を経て、ある時間(コヒーレンス時間)経過後に確定する。(確定するのは測定装置自身がその環境との間で制御できない相互作用を持つからであって、その相互作用をある程度制御することで、量子情報の利用が可能となる。)測定装置は我々が過去の経験の蓄積から設計したものであり、絶対的に正しいということの保証はないから、検証しつつ解釈するしかないのだが、この事は物理学者のサークルの間で承認される。これがボーアの言う『客観性』である。客観性は被測定系だけでは成立せず、測定系も含めた全体(Bohr はそれを『現象』と名付けた)によって保証される。

      ヒルベルト空間内のベクトルはその基底として選択した物理量の固有状態の重ね合わせであるから、一般的には物理量の確定した状態ではない。測定によって得られる物理量の値は再現性が無くて確率的に決まる。物理量が特定の値をとる確率はその物理量の固有状態を基底ベクトルとして、量子状態を表現し直した時の係数の自乗で与えられる。物理量の期待値(多数回の測定での平均値)は、量子状態にその演算子を作用させた状態と元の状態との内積で与えられる。そもそも物理量というのは系の性質ではなくて系への操作のやり方なのだから、これは Bohr にとって当然の事であったが、孤立した系には物理量が性質として(値として)予め存在している筈だという古典的な存在論を覆すものである。(蛇足:やや判りにくいのであるが、非相対論においては、時間と空間もまた物理量である。Schroedinger の波動関数は、粒子という系の確定した空間位置を固有状態とする基底ベクトルを採用して表現した場合の量子状態の(重ねわせの)係数であり、例えば運動量を測定する時には確定しない。系の全エネルギーを測定する時には、それが保存されていることから、時間が確定できない。エネルギー演算子は系の時間発展を与える。相対論的には時間と空間は4元パラメータであって、それに対応する演算子が定義できない。)

      ここまでは実験室に隔離された系の話であり、それを外から操作する人間が前提とされている。しかし、この記述形式が成り立つとすれば、それは世界のあらゆる部分系について成り立つ話として考えられる、と Karen Barad は考えた。厳密に言えば確かにその通りである。測定される系と測定する系との出会いは部分系同士の出会いであり、もはやどちらがどちらを測定するという区別に意味は無いし、それを外から眺める存在も仮想的なものに過ぎない。そもそも、その出会いの前にそれぞれの系が存在するのではなく、出会いによって系が区別されるに過ぎない、というのが彼女の agential reality/関係性存在論の考え方である。出会いというのは測定に相当するから、その測定の前提とする測定値を確定することで固有状態を作りだし、その測定とは共存しない測定の可能性を切り捨てることになる。こうして、世界は出会いの継起によって可能性を削られて創られていく。それではその出会い、つまり関係を生み出す『主体』は何か?それは当然人間ではないから、agent と呼ぶことにする。(行為体という訳語が提案されている。) agent がこの出会い(測定)をひたすら演出するとすれば、その結果として蓄積されるものを Karen Barad は body (僕は本体と訳した)と表現する。つまり過去の経緯がそこに記録として残され、次の出会いの演出に影響する。測定装置は agent という動的な因子と body という静的な因子を持つ。小松左京の発案した 人工実存(artificial existense)における 意図と記憶−身体に相当する。

      このように量子力学の考え方を一般化すると、この考え方が既に人文科学分野で使われていることに気づく。それが Foucault や Butler と Levinas である。残念ながら僕は勉強していないが、人間主体の前に人間と人間の関係が存在する、という事である。(彼等の考え方に量子力学の場合のような数学的表現を与えることができるだろうか?)度重なる世界大戦を始めとする社会矛盾の中で、人文科学もまた古典的な哲学(Karen Barad は、大胆にも、一括して表象主義と呼んでいる)を克服してきて、遂行的アプローチ(言説=行為=執行装置)、関係性存在論に目覚めてきた、という次第である。

      ともあれ、彼等の思想が人間主体に限定された考え方であるのに対して、agential reality は、量子力学から出発しているということからして、人間を含めて世界の存在一般についての考え方である、と彼女は言う。フェミニズム(第5章)についても、労働争議の解析(第6章)についても、現代科学と倫理(第8章)についても、それを殊更強調するのである。このような人間から存在一般への拡張にどのような効用があるのかについては、僕にはそれほど説得性があるようには思えないのではあるが、人間の作った装置が思いもかけない作用を及ぼしている、という現在の状況や、人工知能への漠然とした不安に対して、何等かの判断基準を与えるのかもしれない。

(以下蛇足)

      以前、Benjamin Libet の自由意志の実験 (行為を開始するという意識は行為を指令する脳波の後で付いてくる)について考えた時に、意識の役割というか自由の意味というのは、自らの直接的な行為を決めることではなくて、自らの神経系と筋肉系その他要するに全身を特定の刺激−応答系として訓練することにある、つまり自らを相応しいと思われる環境に晒すこと、そこで自らに学習させることにある、という結論に達した。そういう観点から現代の人工知能を考えると、その成り立ちが人間によって与えられた多数の経験による学習であるから、その場合人工知能に自由は無いと言える。しかし、この環境選択の自由というのは、本質的に自らが置かれた場の偶然性に依存しているのだから、限りなく他者性を帯びている。それは競合的な選択肢を生みだすのだが、どれかを選択しなくてはならない、その選択こそが自由であり、人工知能が自由でないのは、選択肢が設計者という特定の他者に任されているからである。小松左京の人工実存は設計者の死によって自由を手にしたロボットである。Karen Barad の想定する agent は、複雑かどうかは別にして、確かにその body に過去の経緯からの学習プログラムを保持する人工実存のようなものとして考えられるのかもしれない。
 
<目次へ>  <一つ前へ>    <次へ>