2019.07.24
Karen Barad "Meeting the Universe Halfway" の最終章(第8章)は、ナノテクノロジーを題材にして、彼女の agential reality の思想に基づく、倫理観について語っている。
最初に Alice Fulton の詩の一節を引用し、我々は世界に参画し、その世界の一部であることを自覚すべきであると、述べている。その意味がこれから展開される。

## Cascade Experiment ##
p.353-364

      最初の話題は、STM(走査トンネル顕微鏡)を使った原子一個づつの操作、という IBM によって初めて行われた実験(1989年)である。ガドリニューム表面にニオブ原子で IBM という文字を描いた事で当時有名になった。

      Barad の指摘するのは、STM という、本来は原子を対象として観測する(イメージングする)ための装置が、画像の乱れという『偶然』を解析することで、原子を動かす手段として使われるようになったということであり、観測において対象であった原子は移動操作の場合には検出チップ(探針)の一部となって(検出チップに結合して)いる、ということである。これはボーアが相補性の説明に使い、メルロ・ポンティも使った、盲人と杖の関係と同等であり、主体と対象との間の境界はその状況に応じて変わる、ということの例である。もう一つの指摘は、この技術が、過去からの顕微鏡技術とトンネル現象を始めとする科学の諸分野、企業の研究体制、原子と言う概念の歴史、等々全てと繋がっている、ということである。科学実践は隠されていたものを明らかにする事ではなくて、世界の差異的な生成の一部として見なくてはならない。そして、この IBM の発見は、トップダウン(巨視的結晶の光学機械加工)ではなくて、ボトムアップ(原子からの積み上げ)を可能にする、という意味で、ナノテクノロジーに対する期待をもたらし、原子スケールの計算機への試みを誘発した。つまり、未来にも繋がっている。Cascade (連なった小滝、連鎖反応)が起きている。

##  Biomimicry, Mirror Images, and the Optics and Politics of Reflection  ##
p.364-369

      生物の巧妙な働きを模倣した技術の紹介である。蜘蛛の糸は極めて機械的特性が高い。鋼線よりも強くて、環境を乱さない(生分解性)。糸の素材である高分子を合成する蜘蛛の遺伝子を羊に移植して、その母乳から高分子を抽出し、紡糸することで、新しい繊維 Bio Steel(商標)を開発した(2002年)。

      環境保護主義者 Janine Benyus の著述を引用しながら、Barad は『自然を模倣する』ということの意味を解析している。自然を模倣することで、環境に適合した技術が生まれることは一見歓迎すべきことのように見えるが、これは技術一般と同じく、有用とも害悪ともなる。空を飛ぶ鳥を模倣したのが飛行機だったことを思い出せばよい。Benyus は遺伝子組み換えに不満であり、自然はそんなことはしていない。自然選択は自然の知恵なのだから、自然の行っていないことをやるべきではない、という。しかし、自然の働きに倣った社会的倫理は必ずしも正しくない。多くの社会的差別は自然に倣うという理由付けであり、社会的ダーウィニズムという悪名高い運動もあった。Benyus も勿論それを充分承知していて、人間は独自の種であるから自然に倫理を学ぶべきではなく、デザインのみを応用すればよい、と語る。

      Barad は Benyus の前提としている、人間例外主義と自然対人間(文化)という区分そのものに異議を唱える。自然のデザインは文化と切り離されて純粋にそこにあって、人間の発見を待っているようなものではない。(注:人間の働きかけによってそこに出現してくるものである。)Haraway を引用して、『自然とされるものは何か、誰の為か、そして何を犠牲にしているのか?』を問うことの重要性を強調している。

##  Differences that matter: Diffractions, Differential Embodiment, and the Ontology of Knowing  ##
p.369-384

      2001年に発表された Bell 研究所の発見である。クモヒトデという動物はその脚に方解石の結晶を多数(10,000個位)備えていて、それぞれのレンズからの光が拡散した神経節に焦点を結び、これらの刺激を統合することで、視覚系として利用していることが判った。

      技術者達の視点は、クモヒトデの『発明』に驚くというよりも、その光学回路用マイクロレンズ系設計への応用にある。このような発想は今まで無かったからである。その発想はクモヒトデのマイクロレンズ系を環境(捕食者や食料や隠れ家)とクモヒトデの主体を仲介する道具としてしか捉えていない。しかし、クモヒトデは眼を持っているのではなくて、眼そのものであり、脳を持たないクモヒトデにとって、存在することと知る事、物質性と知性、本質と形式は一体化している。周囲の光に対して応答し、色を変え、捕食者に対しては身体の一部を切り離す。自己と他者や環境との区分は流動的であり、その都度 agential に切断される。リアリティを認識するのではなく、リアリティの中に居る。身体は世界に位置づけられているのではなくて、世界の部分である。

      科学技術とその実践は生成しつつある空間時間物質を結果として残すのであるが、基準としての空間時間の枠組みの内部に分離して構成され位置づけられたものは無いし、また世界の外側に位置して見物するような神の位置も存在しない。絶対的な内部も外部も存在しない。内部における外在性、つまり agential な分離性のみがある。

      クモヒトデは生きた回析格子である。回析効果による像の分解能には限界がある。その分解能はクモヒトデの生存においての最適化された妥協点になっていて、その調整にこそクモヒトデの存在がかかっている。差異を捉えることが問題なのではなくて、何についての差異が問題なのか、ということである。このことは、クモヒトデのレンズ系を単なる幾何光学として捉える事では見えない。

      知ることと存在のもつれあった実践は物質的実践である。世界は、人間の心の中にある考えではない。心は世界の物質的配置であり、必ずしも脳に対応してはいない。脳細胞だけが記憶を保持するのでもないし、刺激に応答するのでもないし、思考を行うのでもない。自己と他者を区別する本来的な境界を持つ与えられた身体に住まう思惟する実体というものは無い。主体は特定の intra-action を介して差異的に構成され、世界のより大きな物質的配置と分節化の部分として、自己と他者のような境界を越えている。知性は人間のような知的 agent を必要としない。それは世界の進行する分節化における存在論的な遂行である。それは関係すること(what matters)への差異的な応答責任の問題である。異なる刺激に異なる応答をするというだけではない。関係していながらも関係から除外されているものに対する差異的な説明責任を必要とする。クモヒトデは、知る事と在る事と行う事の間の分離不可能性についての生きた証言である。

      回析は物質的−言説的現象であって、主体−対象、人間−非人間、有機−無機、認識−存在、物質的−言説的との間の本来的な分離性に挑戦する。Agential cut はものを一緒にしたまま離れさせる。回析は関係する差異のもつれの性質である。クモヒトデは鏡映や真似や反射という概念では理解できない。生物模倣技術としても、クモヒトデの光学系を真似することにはならない。クモヒトデと我々はもつれ合っており、intra-action しており、そこから新しい生物情報ナノテクノロジーが生まれるであろう。

      現象は空間と時間の中に位置づけることができない。現象は異なる時間と空間を超えて拡がっている物質的もつれ合いである。新しいものの生成は位置づけられないし、所有されない。過去も未来も閉じられない。倫理は結末の問題ではない。我々を含むもつれ合った物質化、新しい編成、主体性、可能性の問題である。

##  Entangled Geneologies  ##
p.384-391

      量子力学の定式化についての Einstein と Bohr の論争から生まれた『量子もつれ』という現象は、現実性を持たない単なる哲学的問題と思われていたのだが、その不思議な現象が実験的に確定し、その応用としての量子情報分野が急激に注目されるようになった。その原理の説明と将来の国家や社会への想定しうる重大な影響が米国の国会で議論され、国家規模での研究開発投資が始まっている。量子計算機はその本質的な並列性によって現在のシリコン技術に基づく計算機をはるかに超える可能性を持つ。それは量子もつれの応用というだけでなく、同時に、国家安全性と世界の情報システム制御ともつれ合っている。量子暗号は遠隔地同士の原理的に安全な情報伝達として既に商業的に使える段階である。量子テレポーテーションは直ぐに実用化されることはないが、遠隔地間の二つの対象の片方の性質を他方に伝達する手段であり、実験室では実証されている。

      量子物理学が関係している分野は複雑にもつれ合っていて、それを表現しようとした Barad の図34はよく判らない。彼女が強調するのは、関係するものに対する関係性の原初性である。つまり関係性がまず先に存在していて、その実現として関係しあうものがある(関係性存在論)。(存在の)実現は agential な切断によって、本来的に一体でありながら切断される(言語化されるとも言える)という intra-active な実践による。そして、このような agential な切断は次々と新しい現象を生成する。その切断の仕方(装置)によって、世界の異なる編成が実現する。つまり、我々は我々自身を部分として含むその世界に対して応答責任を持つ。それは我々の選択(切断)が任意性を持つからではなくて、我々がその形成に対する役割を持ち、それを介して我々自身が作られていくような特定の実践からの沈殿として、リアリティがあるからである。科学の応答責任的な実践は、単なる科学実践の規範に従うことではなく、もつれ合った装置や実践の完全な系譜学的説明を必要とする。(注:Bohr は客観性の概念をそのように説明したことを思い出そう。)それは単に『結果』を問題にするわけではない。Intra-action は、何になるかだけでなく、何が可能かをも再編成するからである。つまり、『我々』は唯一の活動的(能動的)な存在ではないという事を理解すべきである。

##  Toward an Ethics of Mattering  ##
p.391-396

      Emmanuel Levinas の倫理的存在論とそれを参照した Eva Plonowska Ziarek の説明が引用される。個別主体が存在して、その間の関係として倫理が問題になるのではなくて、そもそも主体の在り方そのものが他者性であり、その他者性こそが応答責任としての倫理であるから、経験が倫理を基礎づけるのはなくて、倫理が人間の経験を基礎づける。他者に触れ他者を感じるという単純な試みにおける接触と感受性の人の姿こそが、身体の倫理的意味である。人は自らの皮膚の中に他者を持ち、この自我と自己の非符合性を身体の内部に銘記して、それを他者に対する倫理的な関係の基礎にする。応答責任は主体の選択事項ではなく意識の意図に先行する肉化された関係である。

      Barad はこれを更に敷衍して、そのような在り方は人間に限られず、また他者も人間に限られない、と考える。応答責任は、主体性だけでなく、客観性の本質的な在り方でもある。

      Intra-action は何がリアルで何が可能かをもたらし、何かが実現し、他のものが排除される、可能性が開き、他のものが禁止される。(注:これは量子力学において、例えば、粒子の位置測定が運動量測定を排除することに相当する。)Intra-action は繰り返し遂行され再編成されることで因果関係の豊かなトポロジーをもたらす。事象と物とは特定の場所と時間を占めるのではなく、むしろ、空間時間物質は繰り返し生成され遂行される。(注:量子力学において、現象は時間、空間を超えている。時間、空間も物理量であり測定によって確定する。)

      我々に説明責任があるのは、本体への特定の刻印のパターン−−つまり、我々が参加している世界が実現すること(mattering)の差異的なパターン−−だけではなく、執行において我々が参加する排除でもある。従って、説明責任と応答責任は構い実現すること(mattering)と構い実現から排除される事という観点から考えられなければならない。

      最後に、T. S. Eliot の詩 "The Love Song of J. Alfred Prufrock" の有名な句 "Do I dare Disturb the Universe?" と、それを自叙伝のタイトル"Disturbing the Universe" とした Freeman Dyson を採りあげている。Eliot の詩の主人公 Alfred Prufrock は自己反省の鏡の繰り返しの中に閉じこもって愛の告白への一歩を踏み出せないでいるのだが、Dyson の現実的な問い『私は敢えて水爆を開発すべきか?』は深刻であり、彼は自伝の中で、自らの道徳基準の全てをテーブルの上に晒して検討している。しかし、結局の処 Dyson も鏡の繰り返しの中に閉じこもってしまったのである。(注: Freeman Dyson は、Oppenheimer の弟子ではあるが、水爆を開発したわけでもないし、自伝については良く知らないので、この記述が具体的に何を意味しているのかは不明である。)

      この問自身に意味があるのか?つまり、宇宙は私の存在から離れて眺めたり働きかけたりできる存在なのか?そうではない。我々は宇宙の内部であり、その一部に過ぎない。世界の一部としての intra-acting な説明責任とは、世界の活動に内在したもつれあった現象を考慮にいれ、我々を助け世界を花開かせるような『可能性』に対して応答責任を持つことである。それぞれの瞬間に出会い、生成可能性に対して敏感であることは、倫理的な使命であり、全ての存在と成りつつあるものの matter そのものに書き込まれた招待状である。我々は宇宙に対して中途まで進んで出会わなくてはならない。世界の差異的な生成における我々の役割に対して応答責任を果たす為に。

((私的所感))

      第8章の概略は上記の通りである。なかなか掴み処の無い議論に見えるのは、我々が倫理基準というものを期待しているからだろう。しかし、Barad の考える倫理というのはそういうものではないようである。因果関係とか責任というものは単純な矢印ではなくて、複雑に絡み合っているし、そもそも絶えず変化し生成しているから、規範というものがあまり役に立たない。我々の為すべきことはその絡み合いの中において自分の役割を認識し、その関わりによってもたらされる物事とそこから可能性が排除される物事を注意深く掬い取ることである。行為は何事かをもたらすだけでなく、何事かの可能性を閉じている、という指摘は重要かもしれない。Levinas の倫理観は興味深い。我々の内部に本質的に組み込まれている他者性こそが倫理である、という指摘は正しいように思われるし、倫理的問題を考えるときには示唆を与えるような気がする。

      Barad がこの章で量子・生物・ナノテクノロジーを採りあげたのは、それが21世紀に科学者の倫理にとって重要となっているからである。日本の製造業においても殆どの研究組織でこれらの話題に触れている筈である。それらの技術に対する彼女の視点は一貫している。技術の中身における主客分離の可動性(agential cut)と技術を取り巻く環境との複雑な因果関係を指摘し、応答責任と説明責任の問題を考える上での材料としている。

      量子力学の構造、つまりヒルベルト空間内のベクトルとして量子状態を表現し、運動法則を与え、物理量はベクトルへの演算子として、具体的には測定装置として定義され、測定されるまでは値として存在しない、という構造そのものが、世界の構造として想定されている。世界の量子状態を知る方法もその運動法則も判らない。我々はその世界の中の一部として、我々自身で『測定』を行い、身の回りの現実世界を具現化(言語化)している。近代文明に纏わりついてきた諸々の思想を全て振り出しに戻して無知の自分に戻るような考え方である。というよりも、Barad は言語化され分節された思想そのものに依拠するのではなく、目の前の選択事項についてのあらゆる可能性を考慮して、自ら責任感を以って参画すべきである、と言いたいのであろう。倫理という意味では実存主義的である。
 
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