ハンナ・アレントの「人間の条件」であるが、第5章「活動」に入ると突然難しくなる。いよいよ本論という感じ。返却期限が来たので返しに行くと、この英語版の2年後に改訂増補して出版したドイツ語版「活動的生」の翻訳本:森一郎訳(みすず書房)がちょうど入荷していたので、そちらに借り換えることにした。なおドイツ語版では第5章のタイトルは「行為」になっている。(英語版の「仕事」=ドイツ語版の「制作」、英語版の「活動」=ドイツ語版の「行為」、英語版の「活動力=労働+仕事+活動+観想」=ドイツ語版の「活動」となっている。)

24節:行為と言論における人格の開示

・・・全ての存在者は個別性を持つ。つまり、他の存在者とは異なる、という差異化によって存在する。しかし、生命体はそれだけでなく、純然たる個別性に留まらない変異と相違を示す。これが相違性である。つまり、相違性というのは、同類でありながらも個別である、ということである。更に、人間にのみ固有なことであるが、人間はこの相違性を能動的に表現して、その<唯一無比性>を顕にしようとする。行為と言論(=英語版の活動)はこの表現そのものであり、人間にとって不可欠の条件である。労働や仕事(以下ドイツ語版では製作)は必ずしも全ての人間にとって不可欠なものではない(これらを他人に依存する人も居るから)。アレントの立場では、人間にとって存在よりもその顕れ(見かけ)の方が重要である。(吉田民人用語では、物質・エネルギーよりも情報の方が重要である。)但し、顕れは本人には判らない。

・・・人間の行為の本質は、それが世界に対する第2の誕生、つまり、相互共存の中で公的に生きていくことの決意表明、という点にある。これに対して言論の本質はその行為の主体が誰であるかを示すという点にある。言論無き行為は主体を欠いているからロボットと同じである。(何とも西欧的!。)もしも行為が単なる目的のための手段であるならば、暴力の方が効果的であり、もしも言論が単なる情報伝達の手段であるならば、自然言語よりも記号言語の方が効率的である。(理系人間の僕にはやや辛口に聞こえるけれども。)

・・・行為が公的な意味を持つということは、それが何らかの「栄光」(人格の唯一無比性の確認)を求めているということである。そうでない場合は隠れた「善行」(相互依存)であるか、隠れた「犯罪」(相互敵対)となる。これらは両極端であるが、いずれも、相互共存の中で「誰か」として自分を公的に明示することの放棄に他ならない。人間の誕生によってこの世にやってきたという根源的異他性が行為と言論による第2の誕生によって克服されない限り、それは「自己犠牲」あるいは「絶対的我欲」という形で現実化されざるをえないのである。それは人間事象の周縁にしか現れない。歴史的にこの周縁現象が顕になるのは、没落、頽廃、政治的腐敗の時代であり、そういう時代には聖人と犯罪者が好機を掴む。そして戦争である。その時、行為は敵を殺すための手段となり、言論は敵を欺くための手段となる。そうして失われたものこそ「栄光」である。戦死した人々が「誰でも良かった」(手段にすぎなかった)という事実には耐え難い想いがある。だからこそ、戦後、戦没者顕彰碑が建てられたのである。彼等の業績が無名であることによって損なわれる訳ではない。しかし、行為主体としての彼等の人間的尊厳なら、確かに奪われたのである。(ところで、「一億総活躍社会」という掛け声には、人間を単なる経済成長の手段に化す、という意思を感じないだろうか?)
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