最近、ハンナ・アレントという哲学者の名前をよく聞くので、ちょっと調べてみると、ユダヤ系ドイツ人で、知的環境に育ち、ハイデッガーの弟子らしい。アウグスチヌスとかアリストテレスの研究をしている。ナチスから逃れてフランスに移ったが、一時収容されたらしい。そこでの体験は一切語っていない。その後、アメリカに亡命して、「全体主義の起源」を書いた。この間の片山杜秀の本にも「ナチスは国家組織の計画的な無秩序化によって権力を維持した。」という処が引用されていた。彼女のもう一つの代表作が「人間の条件」である。結構大部な本である。なかなか読む気になれないので、この間図書館でいろいろと探して、もっとも最近の解説書を見つけた。「ハンナ・アーレント「人間の条件」入門講座」(2014年;作品社)である。仲正昌樹という人の講義録である。どういう人かは知らない。

・・・最初の章は、原書のプロローグと第一章の処で、彼女の問題へのアプローチの特異性をうまく解説しているように思える。彼女はナチスの迫害を経験したし、その後のスターリンソビエトの行った事も知っている。だから、全体主義というものにどう立ち向かえばよいのか、という問題に対して、自らの哲学者としての経験から精一杯の考察をしたと考えられる。彼女の学んだ哲学は西洋の伝統的なものであり、その原点にギリシャ哲学があった。そういうことが判らないと、彼女の使う言葉の中身が掴めないのである。詳しくは、英語とドイツ語とラテン語を駆使して語源的な講義がなされているが、日本語訳では、「労働」、「仕事」、「活動」、「観照」、と並んでいて、それぞれが独特の意味で使われている。「労働」というのは、人間の生物体としての必要を満たすための行為であり、単純に生きて子孫を残すための必要な行為を指す。「仕事」というのは人間特有の「人工物」を作る行為である。人間はこれによって、自然を「世界」に作り変えて、その中で生きる。「活動」というのは、そういった物を介さない人間同士の交流、具体的には対話や討論である。特に、それらの公的な側面であり、単刀直入にいえば(本来あるべき)政治行為である。「観照」というのは活動から切り離された個人の内面活動である。

・・・今日的には果たして本当であったかどうかが疑われているとは思うが、アテネにおける市民の直接民主主義というのは、各家庭内における「労働」(これは主に奴隷が担当した)と「仕事」に支えられて、市民(つまり各家庭の主人)のポリスにおける「活動」があり、それとはやや独立した哲学者達による「観照」があった。ソクラテスは「観照」の枠を超えて「活動」に口を挟んだが故に毒杯を飲んだ。ローマ帝政においては既に「活動」の意義は失われていた。キリスト教の布教により、「観照」と「労働」+「仕事」の世界がそれぞれ「聖」と「俗」に区分された。ルネッサンス期からまず「仕事」が技術に体系化され、体系化された「仕事」とスコラ哲学となっていた「観照」とが結びついて、自然科学の原則「実験」+「理論」に体系化された。その成果は「仕事」の飛躍的発展、つまり産業革命を生み、科学知識と生産財が一部の社会階層に集中して社会に格差を齎した。マルクスは、その中で労働者が「仕事」ではなく「労働」を強いられる(つまり生存の為のみに働く)状況を分析し、レーニンは「労働」を「仕事」に格上げするために、階層の逆転(労働者革命)を想定した。こういう歴史を踏まえた上で、ハンナ・アレントは、歴史の中に埋もれていた「活動」こそが本来人間が人間足りうる必要条件ではないか、という主張をするのであろう。現代を「仕事」至上主義の行き詰まりと捉えれば、確かに彼女の政治哲学が注目されるのも当然という感じがする。
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