古英語

1 古英語以前

2 古英語とは?

3 古英語の例

4 古英語の終わり

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1:古英語以前

1-1 「イングランド」は「イギリス」か?

 

 英語は、今、多くの日本人にとって「アメリカの言葉」と思われているようです。ですが、英語は本当は、「English」というのですから、「Englandの言葉」のことです。「England」は「イングランド」だということは、アルファベットをただカタカナに直しただけですから、すぐわかると思います。じゃあ、「イングランド」って何でしょう? 「イギリス」のことだね、と中学校で習うかも知れませんが、厳密に言うと、そうではありません。

 イングランドは「大ブリテン島」と呼ばれる島の一地域です。じゃあ、「イギリス」って言うのは、その「なんとかブリテン島」のことなのか、というとそれも違います。「ブリテン」という名前は、そこに以前から住んでいた人々にちなんで呼ばれました。「ブリテン人」と呼ばれる人々は、ヨーロッパ大陸に住んでいた人々の一部が海を渡って大きな島に移り住んで、その島に住んだ人々のことです。彼らはケルト人と呼ばれる人々の一部でした。ブリテン人はケルト語1を話していたのです。 つまり、ブリテン島で話されていたのは「英語」ではなかったということになります。それでは、「英語」はいつ頃から話されるようになったのでしょうか? 実は、「英語」を話す人々は、別の土地から移ってきたのです。「英語を話す人々」は、「ブリテン島」以外の土地からやって来たのです。と、いうことは、「英語」は「ブリテン島」の言葉ではなかったということになります。さっき、「イングランド」は「ブリテン島」の一部だ、と聞いたばかりですから、いよいよ、頭が混乱してきました。

 最初から順を追って説明しましょう。

 ブリテン島に住んでいたのは、「ケルト語」を話す「ブリトン人」だった、というのが出発点です。

 やがて、西暦紀元前一世紀のBC55-54年、ローマ帝国の基礎を築いたユリウス・カエサルという将軍(後にシェイクスピアによって『ジュリアス・シーザー』というお芝居で描かれた人物です。シェイクスピアの作品の方は英文学史の中でも重要な作品になります)が、ブリテン島を部分的に征服します。こうしてケルト人はローマ人の文明を取り入れ、やがてローマ帝国がキリスト教を国教として認めると、自分たちもキリスト教の教会を建てるようになります。

 英語の歴史を学ぶときには、西欧の文化と切り放して考えることは不可能です。つまり、西欧の政治、宗教、経済、といったものは英語の歴史に深く影響を与えることになるのです。ブリテン人がキリスト教を受け入れたということは、キリスト教を布教するために用いられた聖書を読み、書く能力も受け入れたということです。それによって、私たちは、英語がまだ話される前のブリテン島の様子を窺い知ることができるのです。

ブリテン島はローマ人達によって、ブリタンニア(Britannia)と呼ばれました。意味は「ブリテン人の土地」ということです。今、多くの日本人が「イギリス」と呼んでいるところは、実はブリテン島のことを言うことが多いのですが、「イギリス」という名前の元になった「イングリッシュ」という言葉はありません。先程も言ったとおり、それは外国人の言葉なのです。

 

1-2 ゲルマン民族の大移動とイングランドの誕生との、「風が吹くと桶屋が儲かる」方式の関係(長いぞ!#`o´;

 後の歴史家は、449年にある事件が起きたと記されています。それはヨーロッパ大陸から渡ってきたある武装集団の移住でした。現在ではその記述は、もっと長く、もっと大規模な移住の経過を象徴的に表したものに過ぎないと言われていますが、わかりやすいので、いまその要約をしてみましょう。

 西暦4世紀はヨーロッパ大陸に住む人たちにとって大きな変革の始まった時期です。それは、アルプス山脈以北に住んでいた人たちが大挙して南や西の暖かい地方へと移動をした時期です。普通それは「ゲルマン大移動」と呼ばれ、6世紀まで続きます。アングル人たちのブリテン島への移住もその一環と見られています。

 ブリテン島に留まっていたローマ軍の兵士たちは、ブリテン島の治安維持につとめ、かつ、もっと北の荒々しい民族(ピクト人などと呼ばれています)の南下をくい止めていました。けれど、ヨーロッパ大陸にあるローマ帝国そのものでは、大変なことが起こり始めていたのです。ローマの北にはアルプス山脈という大きな山脈があって、そこから北の地域に住む人たちとそこから南に住む人たちを分けていました。ローマ軍は、アルプスの北まで進み、ライン川という大きな川まで自分たちの勢力圏内に収めます。ライン川の流域にはゲルマン民族の一派が住んでいました。ローマの勢力圏内に入ったゲルマン人達は、ローマの文化を徐々に受け入れたりします。一方、ライン川の北側に住んでいたゲルマン人たちは、ローマ帝国の中には入りたいとは思いませんでした。が、そうこうしているうちに、いろいろな理由から、ゲルマン人の一派が、北から南下してくるようになったのです。

 西ローマ帝国が滅びるかもしれないような危険な状態になり、そんな遠くに「のほほん」としてはいられなくなりました。こうしてローマ軍団はブリテン島からローマへと帰り始めました。最後のローマ軍団がブリテン島から立ち去ったのが西暦410年頃と言われています。ゴート人と呼ばれるゲルマン民族がローマを陥落し、西ローマ帝国は滅びてしまいます。

 すると、今のスコットランドあたりに住んでいたピクト人など、それまで北の地方にいた民族たちがブリテン島の南へと攻めて参ります。ブリテン人たちはなんとか戦ってくいとめようと思うのです。もともとケルト人は好戦的な民族でしたから。けれども、長年ローマ軍によって守られてきた彼らに、先祖たちが持っていた戦闘能力はありませんでした。そこでブリテン人の族長ヴォルティゲルン (Vortigern) は、ヨーロッパ大陸にいて、戦いに長けていたゲルマン人の一派に応援を頼みます。そこでやってきたのが、現在のユトランド (Jutland) 半島にいたジュート (the Jutes) 人だったと言われます。

 カタカナを見てもわかりませんが、英語の文字を見てください。「ユトランド」は、現在のデンマーク領で、デンマーク語風に書くと「ユラン」といった感じになります。北欧の言葉では「j」の文字は「ヤユヨ」のように読むのですね。英語とは違った読み方をするんです。小学校の時から「j」は「ジャジュジョ」と読むと思ってきた方にとっては意外に思うかも知れませんが、そういうものなんです。で、ジュート人というのも、ですから、「ユート人」と書くのが本当はいいんでしょうが、英語の歴史の中では習慣的に「ジュート人」と呼ぶことになっているので、ここでもそうすることにします。教科書に書かれているのと違って、混乱するといけませんから。

 彼らの首領はヘンゲスト (Hengest)ホルサ (Horsa)という兄弟でした(ともに「馬」を意味する名前だったのです。そんなところから、彼らは騎馬で戦う戦士だったと考えられます)。そして現在のケント州に住み着いたようです。彼らは確かに北からの蛮族は追い払ったようですが、軒を貸して母屋をとられる、ということわざ同様、北の大地からやってきた彼らは、ブリテン人たちが戦いに弱いこと、またその土地が肥沃で豊かであることから、大陸の自分たちの故郷よりも住み易く、また簡単に移住できることをみてとったのです。

 同じ時期に大挙してやってきたのはザクセン(北ドイツ)に住んでいた人々と言われています。ドイツには今でも「ザクセン州」という地域があるのです。でも、英語の歴史の中では、彼らは「ザクセン人」とは呼ばず、サクソン人と呼ぶことが普通ですから、ここでもそう呼ぶことにしましょう。また、さらにその北側、現在のデンマークのユトランド半島の根元にいたアングル人たちもやってきたようです。彼らを総称してアングロ・サクソン人と呼ぶことにします。ほかには、現在のオランダと北ドイツに沿った沿岸地帯のフリースランドに住んでいたフリジア人なども含まれます。 「じゃあ、本当はジュート人とサクソン人とアングル人とフリジア人のどれが一番最初に来たんだ?」と尋ねたいところですね。残念ながら、歴史書や年代記は、そこのところをぼかしているので、判らないのです。ただ、まだローマ軍がブリタンニアに駐留していた頃、ブリテン島の東海岸の沿岸警備に当たっていた人たちは「サクソン人」の来襲に対する防衛にあたっていた、と言われています(註2参照)。ですから、もしかしたら、サクソン人が最初にやって来たのかもしれません。

 こうして、ケルト人の住んでいたブリテン島の大部分は、ゲルマン民族であるアングル人、サクソン人などによって占拠されてしまうのでした。追い払われたケルト人たちは、北へ、また西、あるいは南へと逃げのびて、現在のスコットランド、ウェールズ、アイルランド、さらにはフランスのブルターニュ(すなわちブリトン人の土地)地方へと自分たちの土地を求めたのでした。現在も、英国であるにも拘わらず、ウェールズやスコットランドで、自分たちはイングランド人ではない、と人々が主張する素地はここにあるのです。


2 古英語とは?

 アングロ・サクソン人たちは自分たちの話す言葉を englisc (エングリシュ)と呼んでいました。アングル人の言葉、という意味のこの単語を、サクソン人たちも使っていたということで、初めの頃の力関係は、サクソン人よりもアングル人の方が強かったのではないかと思われます。いずれにせよ、現イングランドの北の方には ノーサンブリア、マーシア、イースト・アングリア(Northumbria, Mercia, East Anglia)と言うアングル人の国が立ち、南にはエセックス、サセックス、ウェセックス(Essex, Sussex, Wessex)というサクソン人の国々が、また南東にはケント(Kent)というジュート人の国がたち、俗に「七王国時代(ヘプターキー)」と呼ばれる時代が訪れます。(地図参照12)この時代に書かれた書物はほとんど残っていないので、暗黒時代などとも称されますが、実は、大変に文化的な時代だったのです。群雄割拠の時代でもあり、七王国以外のいくつかの小国もありました。彼らはイングランドに住んで以来、当時の教皇グレゴリウス一世の派遣した宣教師アウグスティヌス(オーガスティン)たちによって、徐々にキリスト教に改宗し(640年頃以降)、自分たちの言語をローマのアルファベットで記述する方法を学ぶようになるのです。私たちが英語の最も古い形、と呼ぶのは、このようにして文字に書き残されるようになった彼らの言葉のことなのです

 

 七王国時代が崩れ始めるのは、さらに北からのゲルマン人たちがやって来始めてからのことです。その北からの侵入者たちはヴァイキングと呼ばれ、当時から恐れられました。彼らは現在のデンマーク、スウェーデン、ノルウェーなどの北欧からやってきた人々でした。彼らは、いまだキリスト教に改宗をしていないため、言葉を文字で記録する、という習慣を持たない人々でした。しかし、彼らの言葉は当時のアングロ・サクソン人の言葉と大変似ていたようです。ヴァイキングたちの言葉を古北欧語、あるいは古ノルド語(Old Norse) と言います。そして、アングロ・サクソン人たちの言葉は古英語 (Old English) と言います。このようにして、イングランドに二種類のゲルマン人が入ってきたことになりますね。ゲルマン人はもともとはアルプスより北に住んだ人々の総称でした。彼らの言語は他のインド・ヨーロッパ語族と明らかな差異を見せています。さて、それでは古北欧語と古英語との差異はどれほどあったのでしょうか? それは今ではわかりません。ただ、いろいろな文献から、イングランド人と北欧人との意思疎通はそれほど不自由なものではなかったのではないかと考えられています。彼らの言語は今では註にあげたような分類がなされています。ゲルマン語へ

 古英語を話す人々は、ヴァイキングたちを総称してデーン人(デネ「Dene」)と呼び、彼らが占領して住み着いた土地をデーン・ロー (Dane Law、すなわちデーン人の法が効力を持つ土地) と呼びました。(地図参照

 ヴァイキングたちの侵略が落ち着くようになったきっかけは、ウェスト・サクソン王国の王アルフレッド(大王と呼ばれます; Alfred the Great)がなんとか勝利し、ヴァイキング側の首領であったグトルム(Guthorm)とウェストモア条約(878年)というものを結び、アングロ・サクソン人とデーン人とが互いに国境(くにざかい)を定めたときでした。グトルムは、アルフレッド大王の薦めによって洗礼を受け、キリスト教徒に改宗します。この時の洗礼名はエセルスタン(Æþelstan)といいます。アルフレッドの孫にあたるエセルスタン(在位924/925〜939年)と紛らわしいので注意してください。アルフレッド大王は、その他、ヴァイキングによって荒廃してしまった教育を復活させようとつとめ、多くのラテン語の書物を古英語に訳すことを奨励しました。現在残っている古英語の文献のほとんどは、このアルフレッドの時代以降に書かれたものばかりです。それ以前の多くの書物は、ヴァイキングたちによって焼かれたり、あるいは時代を経るうちに散逸してしまったのでした。

さて、それでは古英語とはどのようなものだったのでしょうか?

古英語の特徴古英語の発音古英語の語彙古英語の語順古英語の格変化

先ほども述べたように、書き言葉は、話し言葉を記録するための手段として取り入れられたものですので、彼らの綴った文字を読めば、彼らの言語の大体はつかめることになります。

ということなので、私たちは、これまで英語を習った中で革命的に頭の中を切り替える必要があります。英語のアルファベットをその綴り字の通りに読む!ということです。

次の例は、古英語の詩の一節です。叙事詩『ベーオウルフ』から冒頭の3行を聴いて見ましょう。

Hwæt we Gar-Dena in geardagum
theod-cyninga thrym gefrunon
hu tha aethelingas ellen fremedon (Beowulf, ll. 1-3)
(聴け 我らは 槍のデーンたちの 古の日々における
国民の王たちの 誉れを 聞いた
如何に その時 高貴な者達が 勲を たてたかを)

しかしながらここに現れている単語で皆さんに馴染みのあるものと言えば、唯 we, in という二つの単語だけ。あとは何がなんだか、さっぱりわからないと思います。一体これのどこが英語なのでしょうか?現代英語との特徴的な違いを見てみることにしましょう。

1)この単語群の中で、現在でも使われる語は実は他にもあるのです: hwaet = what; cyningas = kings; geardagum = of year-days; hu = how; tha = then などです。しかしスペリング(綴り)が異なっていますね。また、その他の語は現在ではほとんど廃れて使われることがありません。これは何故なのでしょう。

そして hwaet, aethelingas などに見られる ae という母音の組み合わせは、古英語の時代にはもともと一文字aeshで表されていました。つまり、古英語には、ラテン語にはない幾つかの音が存在したのです。ところが、現在の英語にはこのような文字は使われていません。

2)語順も in という前置詞とその目的語の geardagum の位置関係だけを除けば、単語の語順は上に挙げた日本語訳の語順と全く同じなのです。つまり、 we . . . gefrunon というのが主語+動詞の部分で、その間に挟まれたものが目的語(句)ということになります。現代英語ではこのような語順は許されません

3)dagum は、現代英語の day にあたると申しましたが、語尾についている-umという接尾辞はいったいなんなのでしょうか? これは実は前置詞 in の目的語になるときに dag の複数形 dagas が、格変化が施されたためなのです。同様なことは Dena, cyninga の接尾辞 -a も実は複数形の「〜の」という意味を表す「属格形」なのです。けれども、現代の英語にはこのような格変化は普通名詞では所有格に 's というものをつけるだけですし、代名詞でも所有格、目的格があるだけです。また、gefrunon, fremedon の接尾辞 -on も主語が複数の時の過去時制を表すための語尾なのです。現代英語では、主語が単数であろうと複数であろうと過去時制を表す語尾に違いはありません

 一体全体この違いはなんということでしょう!

 古英語と現代英語とのこの違いこそ、現代にいたる歴史の流れの中で、英語という言語がどのように変化してきたかを表すものと思われます。ここでは、まず古英語の特徴について考えてみましょう。

(1)古英語の発音と語彙

(A) 発音に関しては、基本的には文字どおり、ローマ字読みにすればよいのですが、幾つかの点で注意も必要です。

 古英語を話す人々がキリスト教を受け入れたとき、ローマ字も取り入れます。書物を読むためには文字が必要だからです。ゲルマン人はそれまでも、ローマ帝国との交わりから発明された文字ルーン文字を持っていましたが、これは呪術的な意味あいが強く、記念碑や護符として以外にはほとんど用いられませんでした。やがてローマ帝国が滅び、ラテン文字を教育のための文字としてキリスト教とともにイングランドに入ってきたとき、彼らはラテン語にはない自分たちの言語の音を表すために四つの文字を取り入れます。今日では発音記号として使われているaeshetheは、アングロ・サクソン人たちが考案した文字なのです。

 ところで、私たち日本人も、「一本、二本、三本」と数えるときに同じ単語「本」の音を変えて発音しますね。これは「ほん [hon] 」という音の前に「っ」という音や「あん」という音があると、その後ろの [hon] という語の発音に変化が生じ「ぽん [pon]」「ぼん [bon]」になる現象に寄るのです。人間のことばの発音というものはこうして無意識的に生じるものなのですね。実は古英語(そしてもちろん現代英語も)にも似たような現象が頻繁に起こりました。f, s, th は、その前後に母音がくると、濁った音 v, z, thになりました。現代英語で wolf の複数形は wolves と書き、発音も [wulf] > [wulvz] となりますね。 また house の複数形も houses とは書きますが、発音は [hauziz] となります。この発音の変化 = f > v; s > z という変化は、このような古英語の特徴がそのまま残ったものなのです。

このように、発音というものは、その前後の音がどういうものかによって、さまざまなヴァリエーションがうまれることになります。このように英語の歴史を学ぶというときに、発音の変化に注目することはとても大切なのです。

そこで大切なのは g, c, sc の音のヴァリエーションです。

gar-「槍」という単語の g は、現代英語の go の g と同じ音だと思って下さい。

一方、gear- 「古い」という単語は現代英語の year 「年」と同じ単語なのですが、「古い」という意味を含んでいました。いずれにせよ、この単語の g は、 y と同じ発音と考えて下さい。

ここで重要なことは、この単語は Gar-Dena と同じ音で始められているはずだ、ということです。これを「頭韻を踏む」といいます。古英語の多くの詩は頭韻を踏むように作られたのです。これは、多くのゲルマン語の詩に見られる作詩法なのです。

c という文字も、もともとはラテン語の読み方を踏襲し [k] という音を表しました。けれども、その前後に前舌母音が来るとき、舌の位置がつられて前になり cheese の ch と同じ音になります。

sc という文字の組合せは、古英語の文献時代にはほとんど [sh]という音で読まれていたようです。したがって、fisc と書けば、現代英語の fish のこと。scip と書けば、現代英語のshipのことだとわかります。

このようなスペリングは、現在ではフランス語から入ってきたsh というスペリングや、北欧語のskの組合せなどにとって替わられました。そして重要なことは、その後、発音は変化したのにスペリングは古いやりかたがそのまま残ったために、現代英語では発音とスペリングとの間にずれが生じてしまったのです。

(B) 一方、語彙については、多くの言葉は、元来ゲルマン語として存在した語ばかりです。つまり、一般に外来語を借用することが少なかったといえます。つまり、語彙を増やすには、既に自国語にある単語を使って、それを組み合わせることで新しい語を作るのです。この方法は、現在でもドイツ語やオランダ語、北欧語などに多く見られます。一方英語はラテン語やフランス語などからの借入語が非常に多いと言われています。しかし、そうは言ってもやはり、英語はその本来の特徴を今でも残していると言って良いでしょう。boyfriend, airplane などは、boy + friend, air + plane と云う具合に、二つの名詞を組み合わせてできあがっていますし、undermine, upbringing などは、under + mine, up + bringing のように、接辞+名詞/動詞 という組合せでできあがっています。前者を複合(compound)、後者を派生(derivation)と呼びます。この基本パターンは、古英語には非常に豊富に見られるのです。

複合語を含めて古英語の語彙を知るには、ゲルマン語の基本語彙を知る必要があります。

上の例文には theod-cyning, geardag という二つの複合語が出てきます。theodは、語源的には、ドイツ語の Deutsch と同じ語で、「国民、国」を表します。このように、古英語を知ると、それ以外のゲルマン語の語彙との関連が分かってきます。

古英語の基本語彙は、学生用のAnglo-Saxon Student Dictionary という本があります。また、ドイツ語、オランダ語、北欧語などの知識も、古英語を学ぶ際の助けとなります。

派生には接尾辞や接頭辞が用いられますが、その多くは現代英語にも残っています。接尾辞には -dom (ModEのfreedom, kingdom)、-lic(ModEのkindly, lovely)、-nes(ModEのkindness)、-scip(ModEのfriendship)など約40種類、接頭辞には in-(ModEのinability)、for-(ModEのforebear)など約30以上がありました。

2)古英語の語順の自由さ

古英語は語順が、現代英語ほど厳しく制限を受けてはいません。それは、単語それぞれが、

主語の形(主格と言います)、目的語の形(対格と与格があります)、属格(所有格とほとんど同じです)があったからです。その語の形によって、主語と目的語とを区別することが多くの場合可能だったのです。このように、名詞の変化のパターンがある他に、動詞の語形変化も現代英語よりもいろいろな種類がありました。

より具体的に言うと、日本語では「私は甘いものが好きです」と言おうが、「私は好きです 甘いものが

と言おうが、「甘いものが好きです 私は」と言おうが、意味は通じます。それは「私」の「」や、「甘いもの」の「」などが、文の中での主語や目的語などを表しているからです。英語を初めて学んだときに、日本人にとってもっとも大きな戸惑いは、このように「」「」などの助詞が、現代英語にはないため、主語や述語を語順によってしか判断できなかったことではないでしょうか? 

古英語では、主語と目的語で語形が変わることがあるので、その点、日本人にはむしろわかりやすいはずなのです。では、その語形変化のパターンについて見てみることにしましょう。

3)名詞の格変化の代表例

古英語の名詞は、格変化をすることで、文中の役割を表します。その変化のパターンをパラダイム(paradigm=語形変化表、変化系列)と呼びます。

例えば、OE stan (> ModE stone)

という単語の変化形を考えてみますと、

(単数の「石」が)    stan    主格

(単数の「石」を)    stan    対格

(単数の「石」に)    stan-e   与格

(単数の「石」の)    stan-es   属格

のように変化をします。

日本語には上の例であげたように、数の問題はありませんが、インド・ヨーロッパ語族の言語は複数、つまり「1個より多いもの」という概念は大切で、これも変化形の意味の中に含まれます。

(複数の「石」が、は) stan-as    主格

(複数の「石」を)   stan-as    対格

(複数の「石」に)   stan-um   与格

(複数の「石」の)   stan-a    属格

古英語の全ての名詞がこのように変化活用をするというのであれば、話は簡単なのですが、世の中そうそうおいしい話が転がっているわけではありませんし、それはこの場合でも同じなのです。とはいえ、基本パターンを飲み込めれば、だいたいは調子がつかめるものです。

しかしながら、困ったことに気がつきましたか? 

そうです。「〜が」(主格)と「〜を」(対格)の形が同じなのです。これではせっかく他の格の形を変えても、ダメですね。そこで、それを補うため、と言ったら言い過ぎですが、冠詞というもので、名詞の格を示すことができるようにしました。

主格は se 対格は thone 与格は tham 属格は thess という具合にです。

その一覧表を見てみましょう。古英語 冠詞+名詞 格変化一覧表

いかがですか? 

このとおり、格によって形が違うため、「その王はその犬を愛した」という場合、

Se cyning luvde thone hund.

Thone hund luvde se cyning.

Se cyning thone hund luvde.

この三つのどの語順でも意味が通じる、ということになるわけです。

ここでわかることは、古英語の名詞には男性名詞、中性名詞、女性名詞の区別があることです。

これは、その名詞の表すものが本当に男性であるか女性であるかなどは関係ありません。要するに、語形変化のパターンをその三種類に分けたための便宜的な名前だと考えても良いのです。第一パターン、第二パターン、第三パターンと言っても良いはずなのです。ただし、第一パターンの名詞は、代名詞に he、第二パターンの名詞は代名詞にheo (= she) という風に、あたかも代名詞だけを見ると、「彼」「彼女」と言っているので、それでは「男性」「女性」・・・などのように言ってみよう、と決めただけのことです。そして、重要なのは、インド・ヨーロッパ語の多くの言語で、このように男性名詞や女性名詞の区別がいまだに行われていることです。ただし、残念なことに、ある名詞、たとえば「太陽」や「月」といった名詞が女性名詞か男性名詞かの区別は一様ではなく、それぞれの言語によって 異なります。ですから、たとえフランス語でこうだったから、と言って、他の言語でもそうだとは必ずしも言えず、それぞれの言語を学ぶ際に、一つ一つ覚えて行くしかないのです。

このように、語順の自由さは、名詞や定冠詞、さらには形容詞にいたるまで、格の形が決まっていたことに基づいているのです。

以上のように、古英語の語順は現代英語などよりも自由でした。

それがなぜ、現代英語のような、語順に縛られるようになったのでしょう?

おそらく、皆さんは英語をある程度学んだ際に「文型」なるものを習ったはずです。

第一文型 主語+動詞

I woke up late in the morning.「今朝は早く起きられなかった」

第二文型 主語+動詞+補語

I was 17 years old in 1999.「1999年には十七才だったよ」

第三文型 主語+動詞+目的語

She has learned English for three years.「英語を習い始めて三年になります」

第四文型 主語+動詞+間接目的語+直接目的語

My mother gave my boyfriend a big Xmas present.「お母さんは私の彼氏に大きなクリスマスプレゼントを贈ってくれた」

第五文型 主語+動詞+目的語+補語

My father still calls my husband a thief.「父は夫を今でもドロボーと呼んでいます」

この大切さは、英語の歴史を考えると納得ができますね。現代英語には格というものがほとんどなくなってしまっているので、語順によって文の意味が決定されるからです。

古英語の終わり

古英語が終わった時代を厳密に定めることは不可能です。「何年何月何日以降、英語は古英語から中英語に移った」ということは誰にもできません。しかしながら、今まで見てきたように、古英語と現代英語とはかなり異なっていますね。それならば、その移行する中間期があるはずでしょう。その時期を英語史では「中英語の時代」と呼ぶのです。

古英語の時代は何百年も続きました。それでは何百年もの間、変化しなかったのでしょうか? そんなはずはありません。言語が変化するには、その理由が幾つか考えられますが、言語は人間が話すことばである以上、人間の歴史が影響していることは確かです。

古英語の時代に幾度かの大きな歴史的事件がありました。一つは、上に述べたデーン・ロー(the Dane Law)の確定です。すなわち、アルフレッド大王がイングランドとデーン人たち(その中にはノルウェー人も含まれます)との間の国境を敷き、イングランドは独自の発展をすることが可能になりました。デーン人達によって占領された土地は、古英語の時代の前半に繁栄した国々でした。一方、アルフレッド大王の時代にも、多くの書物が改めて写本に記録され、残されました。今日残っている古英語の文献のほとんどは、アルフレッド大王の時代以降に書き残されたものばかりなのです。それは、アルフレッドが、イングランドの中でこれまで繁栄してきた文字文化が、北方からの侵略者によって破壊されたことを憂い、フランク王国のシャルルマーニュ(カール大帝)の宮廷学校をモデルとした学問の復興を図ったからでした。そこで、アルフレッドの時代以降を古英語後期と呼びます。現代まで残った多くの散文の文献はほとんどが古英語後期の文献です。

さて、デーン人達はその後も勢力を伸ばし、ついに、1014年デンマーク国王スヴェインがイングランド国王をも兼ねる、ということまで起こります。この時代は、北欧とイングランドとの関係は非常に密接なものだったのです。やがて、デーンローも徐々にキリスト教化されていきます。1016年に即位したクヌート(「大王」とも言われます)は、デンマーク国王でもありましたが、熱心なキリスト教徒の国王としても有名でした。そして北欧人とイングランド人との融合が進んでいったと思われるのです。とはいえ、文献に現れた古英語の中には、あまり北欧語の影響は認められないのです。この当時に北欧語が英語に与えた影響は、口語に限られていたのでしょう。そのため、既に文章語として確立していた古英語の文献にはあまり明確には現れなかったのでした。北欧語の影響が明らかになるのは、文章語としての標準語がなくなった中英語初期に突然現れるのです。>中英語における「外国語の影響」を参照。

しかしながら、その間、イングランド国王であるべきエドワードは母親の故国フランスに亡命していました。デンマーク王クヌートの息子ハルディクヌートは病気がちで、エドワードをフランスから呼び寄せました。ハルディクヌートの没後、1042年にエドワードはイングランド人としての王位を取り戻すことになるのです。そのとき、彼はフランスから多くの廷臣を連れてきたため、イングランド国王の王宮がフランス語を話す人たちでいっぱいになるという事態が生まれます。エドワードは息子なく死んでしまったため、イングランド人は推薦による国王を擁立します。それがハロルド・ゴドウィンソン(ゴドウィンの息子という意味)でした。彼は人格的にもすぐれていたようですが、エドワードの甥に当たるノルマンディー公爵ウィリアムは、自分の王位継承権を主張します。

そのウィリアム率いるノルマンディー人がイングランドと戦い、ついにウィリアムは王位につき、イングランド国王ウィリアム一世となります。これが世に言う西暦1066年の「ノルマン征服(コンクウェスト)」です。

この事件以降、イングランド国内の要職者はほとんど全てがノルマンディーからやってきたフランス語を話す人々にとって替わられます。こうして、フランス語は社会的地位の高い者達の言語、英語は社会的地位の低い者達の言語とみなされるようになり、文学はもちろん、公文書などはフランス語で書かれることになるのです。中世においては、公文書はラテン語で書かれることが多かったのですが、イングランドでは英語で書かれることがこれまでは多く見られました。実際、年代記はアルフレッド王の時代からほとんど絶えることなく英語で書かれ続け、『アングロ・サクソン年代記』と呼ばれます。これはノルマン征服の後でさえもしばらく続きました。特にノルマン征服時代以降の年代記を、その書かれた地名から『ピーターバラ年代記』と呼びます。つまり、古英語がどのようにして、フランス語の影響を受けた後に変容していくかを見たいときには、この『ピーターバラ年代記』を読めばわかるのです。古英語後期、ノルマン征服以前に、すでに格の消失のような現象はときどきは見られるようになっていたのは事実です。しかしながら、ノルマン征服がなければ、今日のような英語には決してならなかったとは言えると思います。>中英語へ

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