ヴァイキングのイングランド定住について

イングランドに北欧人がやってきた時期は大きく分けて、四つの時期にまとめることができます。

第一期:略奪行為と逃走の時期(ヒット&アウェイ方式?)787年〜850年
第二期:大規模植民の時期(イングランドの半分が・・・)850年〜878/879年
第三期:融合の時期(勝ったり、負けたり、買ったり、あげたり)879年〜1013年
第四期:完全征服の時期(デーン王朝)1013年〜1042年

第一期

最初にヴァイキングがイングランド人を襲ったのは、『アングロ・サクソン年代記』によれば787年と言われます(写本によって789年と記されているものもある)。年代記によると、やってきたのは三隻の船に乗った北欧人で、彼らはノルウェーのホルザランドからやって来たと思われます。彼らはポートランド上陸します。彼らのことを聞いた代官ベアドゥヘアルドは、当時ドーチェスターの町に滞在していたのですが、貿易をしにやって来た商人だと思って、数人の部下とともに海辺に迎えに行ったようです。もしかしたら、税を取ろうとしたのかもしれません。しかし、やって来た北欧人は、ベアドゥヘアルドとともに彼の部下たちも殺してしまいます。これがヴァイキング来襲の始まりだと、年代記は記します。

次にヴァイキングが起こした有名な事件は リンディスファーン修道院襲撃 でした。793年のことです。リンディスファーン修道院はノーサンブリアの小島にあって、多くの写本制作を行ったとされる、当時の修道院の中でも特に優れた技術や知識、また恐らく富も、集められていた修道院です。その豊かさは、現在でも『リンディスファーン福音書』(大英図書館所蔵)の美しい装飾やデザインからも察せられます。この年、ノーサンブリアでは、竜巻が起きたり、不思議な雷が多く見られ、火を吹く龍が空を飛ぶのさえ見られた、と年代記は語ります。この不吉な兆しの後、飢饉が襲い、その後、六月八日にヴァイキングたちがやってきた、とされます。

この時期は、たとえば大陸ではフランク王国のシャルルマーニュ(742-814)が覇権を握る時でもあり、ノーサンブリア出身のアルクウィン(735年頃〜804年)がシャルルマーニュの宮廷学校の長になったことからも、北イングランドの文化、教育の水準の高さが分かろうというものです。しかしまた一方では、七つの王国の中で、戦いや政治的策謀もあり、そのような時代のこのヴァイキング来襲は、神からの罰という解釈もなされたようです。リンディスファーン修道院への襲撃は、そういう文脈からも特に重要視されます。今も残る、リンディスファーンで彫られた石碑の名残には、当時のヴァイキングたちの襲来の様子らしきものが描かれております。

 

第二期

西暦851年、デヴォンの国境近くに来た北欧人たちと戦ったイングランド軍は敵を殺して勝利を得ますが、その年、サネット島になんと350隻のヴァイキング船が現れ、カンタベリー、ロンドンを荒らし、南イングランドを蹂躙します。マーシアの王ブリヒトウルフ Brihtwulf は、その地位を追われ、北欧人はマーシアに入ります。一方、ウェスト・サクソン王エセルウルフは雄々しく戦い、敵を倒します。ケントの王エセルスタンも船上の戦いにおいてヴァイキングを破るという大殊勲をあげます。これ以降、ヴァイキングたちは大船団でやって来て、侵略定住を試みるようになります。それに対してはイングランドは、王を中心に、各王国をあげて抗戦します。

この時代にイングランドを護ったことで、最も功名を揚げたのは、歴史に名高いアルフレッド大王(ウェセックス王在871-899年)でした。先にも書いたように、彼はイースト・アングリアに侵略したグトルム(Guthrum 890年没)に、878年に戦って一度破れはしますが、再び盛り返し、遂にエディントンの戦いで破ります。グトルムは、アルフレッドを代父として洗礼を受け、キリスト教徒に改宗し、自分はイースト・アングリアの王となります。ここに、イングランド人の地域とデーン人の地域の国境が定められ、デーン人の地域を、以降はデーンローと呼ぶことになります。

第三期

アルフレッドの長男エドワード長兄王は、アルフレッドの死後アングロ・サクソン人の王となり(在位899-924年)、妹のエセルフレード(Æthelflæ;918年没)と彼女と結婚した義弟のエセルレッド(Æthelred;911年没)とともに、ヴァイキング対抗政策を進めます。ある時は戦いによって、またある時は懐柔策によって、徐々に文字どおり失地を回復します。

エドワードの息子で次男のエセルスタンが王位に着くと、自分の妹エディスを神聖ローマ帝国初代皇帝オットー一世(912-973;在位962-973)に嫁がせたり、ノーサンブリアの王シヒトリックに別の妹を嫁がせるなど、外交に力を注ぎました。927年にはブリテン島の諸王がエセルスタンの勢力の下に入ったのですが、その十年後にはエセルスタンと戦うためにブリテン島の北部に住む人々が力を合わせて挙兵します。937年の戦いは、年代記に『ブルナンブルフの戦い』として歌われています。

この戦いにどのような背景があったか、歴史的に再現することはできません。けれど、アイスランドのサガの一つである『エギルのサガ』には、恐らくサガが書かれた13世紀初頭の人々が想像力で描いたこの当時の戦いが再現されています。もちろん、サガは一種の歴史小説でありますから、歴史的な事実をそのまま描いているわけではないでしょうが、一つの可能性として考えるだけでも楽しいものです。

この時期には、ダブリンの王であったヴァイキングの王が、たびたび北イングランド、特にノーサンブリアにやって来てはその地域の王権を主張しています。ブルナンブルフの戦いでエセルスタンは一時期、北イングランドを含めた全イングランドの王となります。

エセルスタンの後を継いだのはエセルスタンの弟のエドマンド(エドムンド; Edmund 在939-946)王でしたが、939年にエセルスタンが死ぬとすぐにダブリン王であったグズフリズの息子オーラフがヨークで王となり、五つのバラ(リンカーン、レスター、ノッティンガム、スタムフォード、ダービー)を支配します。エドマンド王はすぐ取り返しはしますが、もう一人のオーラフ、「シゲトリックルの息子オーラヴル・クヴァラン」が一時支配権を握ります。エドマンドは、彼をキリスト教に改宗させ、オーラヴル・クヴァランはダブリンに帰ります。947年と952年にはエーリク血斧王(ノルウェー王ハラルド美髪王の息子)が一時ノーサンブリアを支配します。この時の模様も、上記『エギルのサガ』に書かれております。

エドマンド王の死後(946年)、彼の弟のエアドレッドが王となります(955年没)。

エアドレッドの死後(955年)、エドマンドの息子エアドウィーが王となります(959年没)。

エアドウィーの死後(959年)、彼の弟のエドガーが王となります(975年没)。エドガー王の即位と死は、『アングロ・サクソン年代記』の中では詩の形で記録されています。

エドガーの死後、彼の息子エドワードが即位しますが、まだ年若く、国内は弟のエセルレッド(後の無策王)を擁立する派と二派に分かれたようです。結局エドワードは暗殺され、死体は隠されてしまいます(年代記者は、ブリテン島にイングランド人が渡ってきてからこれほどの悪は見たことがない、とまで言っています)。ところが、葬式をあげるためにか、奇跡的にエドワードの遺体が見つかるのです。これによって、エドワードは「殉教王」という渾名が付けられています。この年、978年、エドワードの弟エセルレッドが王位に着きます。

エセルレッド(Æthelred)とは「高貴なる忠言」という意味です。すなわち「賢い忠言を与えることのできる高貴なる王」という、まことに良い名前でした。

名前の通り、即位後の十年近く、980年代は、ヴァイキングの侵攻も少なく、比較的平和な時代となったようです。ちょうどこの頃、デンマークではハーラル青歯王が、その力を蓄えていました。デンマークは、ハーラル青歯王の時代にキリスト教化します。974年頃、神聖ローマ帝国皇帝オットー二世と戦い、キリスト教化をすることで、一応の和平協定を結んだようです。ハーラル青歯王がデンマークをキリスト教化したことは、イェリングにあるルーン石碑によって今日までも記念されています。ちなみに、ワイヤレスの無線接続ブルートゥース(Bluetooth)技術の名前は、このハーラル青歯王の渾名から採られています。

さて、980年代はヴァイキングの侵攻が少なかったと言いましたが、まったくなかったわけではなく、小規模の、特に西側の町々への攻撃が見られました。恐らくはアイルランド系のヴァイキングだったと見られますが、もしかしたら、ハーラル青歯王のデンマーク統一によって、ハーラル王に組みしないデンマークの豪族が、ヴァイキングとなってイングランドに流れてきたという可能性も捨て切れません。

ハーラル王は、息子のスヴェイン双鬚王(デンマーク王在985年頃〜1014年)によって王位を追われます。スヴェインは勢力を拡げ、ドイツに対して、ノルウェーに対して、またイングランドに対しても、積極的な攻勢をかけていきます。983年頃には、父ハーラルに逆らって神聖ローマ帝国と戦い、勝利をおさめます。990年代にはノルウェー王オーラヴル・トリュグヴァソンとともにイングランドにヴァイキング攻撃をしかけます。

991年にモールドンの戦いが行われたとき、指揮をしていたのは、このオーラヴル王ではなかったかという説があります。

モールドンの戦いは、エセックスの代官であったブリュフトノスが戦死したことで、『アングロ・サクソン年代記』にも大きく記されている事件です。代官「エアドルマン」は王に代わってその地方をおさめる太守で、太守が指揮をしてヴァイキングと戦い、殺された記録として初めての事件でした。

このモールドンの戦いは、現在『モールドンの戦い』と呼ばれる一編の古英詩の断片の中で、歌われています。

この断片に歌われる詩から、トールキンが小さな戯曲的作品「ベオルフトヘルムの息子ベオルフトノスの帰還」を書いています。

セオドア・アンダーソン博士によれば、エセルレッドはこのオーラヴルと和睦し、994年にはオーラヴルの代父となったエセルレッドは、オーラヴルがノルウェーをキリスト教化する援助を与えたとされています。オーラヴルは結局ノルウェーのキリスト教化には成功しませんでしたが、1000年頃アイスランドのキリスト教化を促し、今日まで残っている多くの古アイスランド語文献を生み出すきっかけを作った人物です。現在私たちがゲルマン神話を知ることができるのも、遡れば、このオーラーヴル王の御陰と言え、さらに遡るならば、「無策王」あるいは「忠言のない王」と渾名されたイングランドのエセルレッド王の御陰と言えるかも知れません。オーラーヴルはスヴェイン双鬚王によって1000年頃殺されることになります。