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-1066 - 1100-
ノルマン征服後 フランス語優勢の時期 フランス語の隆盛 英語の復権

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フランス語と英語の混交  やっぱりイングリッシュ 中英語の隆盛?
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中英語の終わりから初期現代英語
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ノルマン征服

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ノルマン征服の意味

ノルマン征服は、それ以前からエドワード懺悔王によって宮廷に導かれていたフランスからの流れをそのまま継承したわけではありません。これはあくまでも「征服」だったのです。

ヘイスティングズの戦いでは多くの貴族たちが戦死しました。また生き残って逃亡した貴族たちは、現国王への反逆罪として追われました。つまり、その空白部分をノルマン人が占めることになったわけです。

この流れはそれから4年後の完全征服が完了するときまで続きました。実際1067年にいったんノルマンディーに帰ってのち、再びイングランドにやってきたウィリアム王は、激しいイングランド人の抵抗に会うのでした。そのような次第で、それからしばらくは、ウィリアム王は国内遠征を重ねて行い、イングランド内で、彼の王位を国民に確認させるまでには時間がいりました。そしてその過程で、多くのイングランド人貴族はその地位を追われることになったのです。1072年、イングランドには12人の伯爵がおり、そのうちイングランド人はたった1人だけだったのですが、その四年後、彼も処刑されてしまうのです。聖職者階級も、イングランド人はどんどん少数派に追いやられました。英語は、その状況に比例して、その地位も失っていったのです。

多くの城主はフランスから兵士を呼び寄せ、自分たちの周りを固めていきます。ニューバラのウィリアムという年代記作者(William of Newburgh (1136-c.98))は、リチャード一世の時代にイーリー修道院の司教は、友軍をいつも自分の周りに置き、それどころか、大陸から自分の親戚一同をどんどん呼んできて、イングランド人と縁組みをさせるのに懸命だ、と書いています。(Baugh & Cable, 、84)

その後の状況 地図へ>>

Q1066年のノルマン征服以来、英国の主流の言語はフランス語にとって替わられた。そんなことが一夜にして起こるものでしょうか?

A もちろん、そんなことはありません。徐々に、しかし急速に、イングランドの言葉はフランス語として確立していきました。

そもそも、僅かながら残った英語の書き物としては、どんなものがあるのでしょう?

「ピータバラ年代記」をまず忘れてはいけません。この作品、というか文献は、ノルマン征服以前からの書物の伝統をもっとも継承したものと言えます。アルフレッド王の時代から、『アングロサクソン年代記』というものが記録され続けていましたが、これはその最後の部分にあたり、1154年まで続いているのです。ちょうど、記録されなくなるまでの約百年にわたる英語の変遷がはっきりとみてとれる、英語史の資料としてまことに貴重なものなのです

アルフレッド王といえば、1150年頃の作と思われるものに、『アルフレッドの格言集』(The Proverbs of ALfred) と呼ばれるものもあります。もちろん、アルフレッド大王 (在位 871-900) 本人が書いたとは思われません。実際、もっと後の時代に書かれた『梟とナイチンゲール』という作品の中にも、アルフレッドが言ったとされる格言がでてきますが、これは、アルフレッド王が、時代を下った後にもどれほどイングランド人に人気があったかを教えてくれるものと言えます。 民間では名君の知恵ある言葉として伝わった金言格言をまとめたものだと言えましょう。最も有名なものは人間の生きる姿を描いた「人は神を愛し、恐れるべきもの。王者は学を求め、貴族、聖職者、騎士は正しく法を行うべきもの。騎士はまた外敵に対して国を護り、教会を安泰にし、農民が安心して種をまき耕作し、借り入れすることができるようにすべきもの(ll.87-89)。また、面白いものもある。どんなに怒って酔っぱらっても妻に本心をあかすな、「女は言葉狂いにして、舌あまりに速く、止めんと思えども、舌意の如くならざるものなり。」(厨川文夫著「中世英文学史」『厨川文夫著作集』上:91)。

しかし、全体としては、社会的階級の高い人々はフランス語を読み書き話し、比較的低い人たちは英語を話していた、とまとめてみることはできます

では、どの程度フランスが話され、あるいは英語が話されていたのでしょう?

A イングランド人とノルマン人の混血によって生まれた子供は、その英語、フランス語両方を話せたかもしれません。

ノルマン人とアングロ・サクソン人は1100年以前からすでに早くも融合を始めていたということは驚くには値しませんね。結局、二つの民族が一つの土地にいて、まったく混交がないなどということのほうが想像できないからです。ラテン語で『教会史』(Historia Ecclesiastica) を書いたオルデリクス・ヴィタリス(オルデリック・ヴィタリス Ordelicus Vitalis1075--1143?) は、父親はノルマン人、母親はイングランド人でしたが、自分がイングランドに生まれたことを誇りにし、10歳以降はノルマンディで暮らしたにもかかわらず、自らのことをイングランド人として名乗っていたと言います。(Baugh & Cable, 、87) また、有名な『イギリス列王史』(Historia Regum Anglorum) を書いたウィリアム・オブ・マームズベリ William of Malmesbury (1190?-11431) という人物も、自分には二つの民族の血が流れている、と第三巻の序文で言っています。(厨川 101)

けれども、一方で、フランス語が約200年もの間上流階級の言葉としてあったことも確かです。

ウスターシャー司教ウルフスタン(1012?-95;有名な説教集を残したWulfstan (1002-1023)とは違います)は後に聖人になった高徳の司教でしたが、彼でさえも、フランス語もできず、王の側近の相談役として役に立たない「無知で無学な男」と誹られてしまうほどでした。もっともこのような罵り言葉を口にしたカンタベリー大司教ランフランク (Lanfranc 1005?-89; ウィリアム征服王の顧問。イタリア生まれ)は、一方でウルフスタンと協力して人身売買を禁止させていますから、この誹謗はそれほど当てにはならないかもしれませんが。ともかくも、このように言われたことに、当時の感覚を知ることができます。 この二人は11世紀を生き抜いた人で、彼らの世代の代表と言えるでしょう。

しかしこの時代、ノルマン人たちが英語という言葉に敵意や憎悪を抱いていたとは言えません。国民全員がフランス語をしゃべればそれでいい、などとウィリアム征服王が考えていたとは思えないのです。つまり、貴族や王が英語を弾圧したとか英語を話すことを禁じたということではないのです

ウィリアム征服王は、上のオルデリクス・ヴィタリスによれば、43歳にして英語を学ぼうと努力をしたそうです。実務に追われ、必ずしもこれに成功したとは言えませんが、彼自身、自分のことをイングランドの正当な王位継承者だとみなしていたし、また周りからもそう見られるように願っていたのです。事実、王の特許状にラテン語と並んで使われた言語は、彼の本来のフランス語ではなく、英語だったのです。そして、彼の息子であるヘンリー一世は、特許状に書いてあるラテン語を英語に訳した、などという伝説すらあるのです。とはいえ、その孫ヘンリー二世は英語はしゃべれなかったのは当然で、当時最も大きな領土を持つ王として、フランスに広大な土地を持っていたからなのです。一年の半分は大陸にいて、時に3、4ヶ月もイングランドには帰らないということもあったのです。しかしこのヘンリー二世についてはまた後に触れます。(インデックスへ戻る)

1066年から1100年にかけて

ウルフスタンは、生まれもノルマン征服以前だということからわかるとおり、古英語の時代を受け継いだ最後の世代でしょう。彼が大修道院長だったということから如何に彼が勝れた人物とみなされていたかがわかりますね。その彼は、1072年から1079年にかけてイングランド人とノルマン人との信仰的な連携を呼びかけています。すなわち、自身のウースター修道院に加えて、イーヴシャム、チャーツィー、バース、パーショー、ウィンチクーム、グロースターの各修道院に「この大修道院の長は、ある者はノルマン人、またある者はイングランド人ではあるけれど、生まれや出身に拘わらず最も近しい霊的な同胞としてともに繋がっているのです」と強調しています。

それからさほど遅くない1100年にはヘンリー一世は、書状の中で、「ハートフォードシャーに住むフランス人イングランド人の、全ての忠実なる我が民へ」と綴っています。

これによりこの時代はまだノルマン人とイングランド人の間では区別があり、その二つの国民が、精神的に徐々にうち解けていった時代とみることができるでしょう。インデックスへ戻る)

新しい時代へ:英語とフランス語の混交

再び、オルデリックについて言及しなければなりません。というのも、彼をこの時代の一人の代表者と見ると、この時代が移行期にあることがちょっとわかりやすくなるからです。彼の生まれは1075年でしたから先ほどの二人、ウルフスタンランフランクの晩年にあたります。二人のおじいさんがもしもオルデリックの誕生を知っていたとしたら、彼らにとっては、このノルマン人を父としフランス人を母とした男の子は新しい時代の象徴のように思えたかもしれません。先にも述べたとおり、オルデリックは10歳でノルマンディーのSt Evroultに渡るのですが、その時のことを彼自身回想して、「まるでエジプトに奴隷として売られたヨセフのように心細かった。わたしに聞こえたのはまるでわからない言葉ばかりだったから」と云っています(Cable&Baugh, 91)。しかし、父親がノルマン人だったのに、そんなことがあるでしょうか? 彼はラテン語はそれまでに教わっていたのに。このことから類推されるのは、誰が彼を育てていたか、ということです。つまり貴族の息子である彼はいわゆる乳母によって育てられたはずです。そしてその乳母はイングランド人だったとすれば納得はいきます。つまり、この時代に生まれた者たちは、小さい頃から英語を聞き育つことになりますね。このようにして、1100年より後から活躍する人たちは、父親がノルマン人であろうとイングランドに生まれたこと、イングランドに住んでいることから自分たちのことをイングランド人だと考えるようになるでしょう。そして大陸のフランスの中に居を構える人たちのことをフランス人と考えるようになっていったはずです

その過程を辿ることは容易ではありません。文献によれば、ある人についてある資料は英語をよくわかったと言い、また別の資料は英語がしゃべれなかったなどというからです。それでももし一言でまとめるならば、12世紀ルネサンスを通じてフランス語の文化が華開き、13世紀から徐々に英語が復権し、フランス語文化を吸収した新しい英語が確立して行った、と言えます。

1100年から1200年へ:12世紀ルネサンスの時代

一方、ヘンリー一世の時代(在位1100-35)になりますと、イングランドにおいてはフランス語の文学が華開きます。ヘンリー一世は二度結婚しますが、最初の妃マティルダも、二番目の妃アデレードも、フランス語の詩人を保護します。

しかしヘンリー二世>>地図1;>>地図2(治1154-89)については、ジラルドゥス・カンブレンシスGiraldus Cambrensis (1146頃-1223頃)が逸話を書き残しています。このジラルドゥス・カンブレンシスはウェールズの歴史家及び聖職者で(Cambriaとはウェールズのこと)後にジョン王となるJohn王子の教師を務めたこともあります。彼はウェールズやアイルランドに旅に出ては旅行記を書いています。

それによれば、ヘンリー二世は、英語を理解できた、とあります。ただしゃべれなかったようです。それについて一つの逸話が伝わっています。ある一人のウェールズ人が王様を呼び止めたそうです。王様は彼の言葉を理解はしたのですが、通訳ともいうべき側近の騎士フィリップ・ド・メアクロスにつぎのように言ったと記録しています。

「王様は、フランス語で、王の馬の手綱を預かっている騎士フィリップに、その田舎者がいままでこのようなことを夢見たことがあるかどうかを尋ねて訊けとおっしゃった」

またウォルター・マップ (Walter Map 1140-1209) も、De Nugis Curialiumの中で「王様はビスケー湾からヨルダンまでで話されている全ての言語の知識をもっていらっしゃるけれども、実際にお使いになるのはラテン語とフランス語だけである」と書いています。

このことから推察されるのは、貴族の中に英語・フランス語両方に堪能な者の数が増えていたということです。イングランドにおける英語は、確かに貴族の用いる高雅なフランス語とは立場が違いましたが、その存在を否定されていたわけではなかったのです。しかしまた、一方ではフランスの文化の隆盛により、下に述べるようなフランス文化がイングランドに浸透していったとも言えます。

12世紀後半:ヘンリー二世当時のヨーロッパ。アングロ・ノルマン帝国を含め・・・

ヘンリー二世の時代の文献と文学の興隆(12世紀フランス語文学の英文学への影響)

ヘンリー二世の時代には、ヘンリー一世の時代に輪をかけて、イングランドの貴族の間にフランス語の文学が流行します。この時代の最も有名な詩人はワース(Wace)でしょう。彼はヘンリー二世のお后であるエレノア・ダキテーヌに捧げた『ブリュ物語(Roman de Brut)』という歴史物語詩を書いたことで有名です(この作品から、フランス宮廷では12世紀後半に活躍したクレティアン・ド・トロワのアーサー王の円卓の騎士を扱った一連のロマンスに発展しました。一方、イングランドでは、13世紀初頭にラヤモンが『ブルート』という詩物語を中英語で書きました)ワースはまた、ノルマンディー公爵の列伝でもある『ロロ物語(Roman de Rou)』、つまりノルマンディー第一代公爵ロロから始まる歴史物語詩を書いたことでも有名です。この時代には、イングランドの伝説の王ホーンや、デーン人でイングランド王になったとされる伝説の王ハヴェロック、またブリテンの英雄トリスタンなど、多くの英雄物語(フランス語ロマンス)が書き始められました。伝説を集めてそれを詩にする文学が、貴族の間で流行し、そのような詩を書く詩人たちが活躍した時代なのです。フランス語のこのようなロマンスについて、12世紀のフランスの詩人ジャン・ボデル(Jean Bodel)は、ロマンスの題材を三つに分けて、(1)フランスもの(2)ブリテンもの(3)大ローマものという分類分けを行っています。フランスものの代表は12世紀の『ローランの歌』や「シャルルマーニュ(カール大帝)」を題材にしたロマンスです。(2)のブリテンものの代表は、アーサー王円卓の騎士を扱ったロマンスです。ただ、ブリテン島に起きた事件を扱うものすべてがこの範疇に入りますので、上記ホーン王ハヴェロックのロマンスなども含まれます。一方、(3)の大ローマもののロマンスの扱う範囲は、いわゆる古典世界のギリシャ、ローマ、トロイ、アレクサンダー大王の話などです。1165年頃北フランスの詩人(トルヴェーレ)であったブノワ・ド・サント・モール(Benoît de Sainte-Maure)がフランス語で大叙事詩『トロイ物語』を作ったとされますが、中世の人々にとってのトロイ物語の典拠は2世紀のクレテのディクテュス作とされる『戦争日誌』や6世紀の小アジアのフリギアのダレス作とされる『トロイ没落史』であって、ホメロスの叙事詩ではなかったようです。

いずれにせよ、この時代のフランス語文学が、後の中英語文学に与えた影響は大きく、特にブリテンもののロマンスは、次世紀の中英語文学で、翻訳された形で生み出されるのですが、イングランドにおいてこの時代のフランスの文化や言語は特に重要でした。王家も含めた貴族の保護のもとにイングランドの国土の上でフランス語で書かれた文学が書かれたり、イングランドの貴族の為にフランス語で書かれた文学があるという事実が、その重要性を証明していると言えるでしょう。ただし、この当時、イングランドにおけるフランス語は、ノルマンディーのフランス語、ノルマン・フレンチがさらに変化したアングロ・ノルマン語と呼ばれる方言だったことも忘れてはなりません。

Qイングランドにおいて、フランス人とイングランド人はどの程度完全に融合したのでしょうか?

A 確かにノルマン人とイングランド人との融合は速かったけれども、毎日の生活やお互いの利益の許す以上の速さではありませんでした。

1100年においては、ヘンリー一世は、「ハートフォードシャーにいるフランス人とイングランド人の臣民」に呼びかけねばなりませんでしたが、12世紀の終わりには、ある法律家は「今では自由人のうちで、誰がイングランド人で、誰がノルマン人か言うことは難しくなった」と言うほどまで二つの民は融合していた、と言えます。つまり、1100年頃から1200年頃までの100年間かかって、二つの民は、貴族に関する限り、ほとんど区別がなくなった、と考えてもよいでしょう。

これ以降、このページでも、イングランド人、ノルマン人という区別をつけるのは止めにしましょう!

Qとなれば、次の疑問が起こります。貴族の間で英語はどのように知られていたのでしょうか?

A ノルマンディー出身者は、確かに始めは英語はしゃべれなかったでしょう。けれど、徐々に英語への知識が浸透していったことは確実と思われます。

イングランドにいれば、ある程度は英語への知識は獲得できたと思われます。一つの証拠には、1175年頃書かれた、カンタベリー司教のトマス・ア・ベケット暗殺に関する記録の中で、ベケットを暗殺した人物の一人が、その妻から英語で「気を付けろ」と警告を与えられる場面が登場します。その暗殺者ヒュー・ド・モーヴィルの母語が英語であったにせよ、なかったにせよ、英語に対して何らかの知識を持っていた証拠と考えられています。

Qでは、もっと下の階級の間では、フランス語の知識はどの程度浸透していたのでしょうか?

A たとえば、貴族の中で最も位の低い騎士階級では、というと、英語を母語としていた場合でも、フランスから家庭教師を招いて、子供の頃から教えられたのだと思われます。

一方、中流階級の商人の間では、英語もフランス語もできなければ商売にはならなかったでしょう。

その一方で、多くの下層階級の人々は、フランス語は理解できなかったものと考えられます。

まとめますと、一部のフランス語しか話せない人々がいた一方で、英語しか話せないより多くの人々がおり、さらに生まれつき、あるいは後天的にフランス語も英語もしゃべれる人々もかなり多く住んでいた、というのが、12世紀のイングランドであったと思われます。

この状態は、1204年に、ジョン王がノルマンディー領を失うまで続いたと見られています。

13世紀フランス語との別れのきっかけの時代

まず、>ヘンリー二世以後の状況はこちらをクリック

つまり、ジョン王(在位1199-1216)が、イザベル・ダングレームと結婚したことを契機として、フランスにおけるイングランド王の領地が没収されると同時に、他のイングランド人貴族もフランス国内の領地を手放します。しかし、同時にその王妃の出身地たるポアトゥーを中心とした地域との関わりが増し、そちらの貴族がイングランドに流入していくことになります。第一回目の流入は、ポアトゥー出身でジョン王によってウィンチェスター司教に任命されたピーターが、1233年突然多くの貴族をその任から解き、ポアトゥーから来た貴族たちにすり替えたということが起きます。

このジョンとイザベルの結婚によって生まれたヘンリーはヘンリー三世(在1216-1272)となります。彼はイングランド王としてフランス王に対抗しながらも、フランス貴族との関わりを強めた王でした。1236年、ヘンリーはプロヴァンスのエレノアと結婚します。これによって第二回目のフランス人流入が始まります。王は妃の親戚たちをイングランド貴族として優遇します。実際、ヘンリーの妃は、フランス王ルイ9世の妃の姉妹です。この結婚で一番の得をしたのは、ですから、なんといってもプロヴァンス伯レーモン・ベランジャーだったでしょう。自分の娘四人をイングランドの王ヘンリー、その弟コンウォール伯リチャード、フランス王ルイ9世、ルイの弟アンジュウー伯シャルルに嫁がせたのですから!英仏の王と王弟が義理の息子となったのです! 

その十年後、1246年、ジョン王の妃でヘンリー3世の母であったイザベル・ダングレームが死去(ちなみに彼女はジョン王の死後、昔の恋人のところに嫁いでいました)。 そこに生まれた同腹の貴族をイングランドに招き、イングランド貴族の娘たちと結婚させ、勢力を拡げました。

このような王の「外国人優遇政策」は、当然のことながら、多くのイングランド貴族の反感を買いました。

この最も決定的な事件は、シモン・ド・モンフォールの乱でしょう。レスター伯だったシモンは王の妹エレノアと結婚した義弟ではありましたが、王の政策に不満を持つ貴族たちの先頭に立って、1258年にオクスフォード条例(Provision of Oxford)を王に承認させます。これは国政の最高機関を15人の国王評議会(King's Council)とすることにありました。けれど、翌年にはこれが廃止され、内戦になります。一時は王と皇太子エドワードを捕らえたシモン・ド・モンフォールを擁する貴族軍でしたが、1265年にイヴシャムの戦いで敗れ、シモンは死刑となります。しかし、この間に多くのフランス人貴族はイングランドから追い払われ、エドワードが即位した1272年から英語の復権がさらに加速されます。

13世紀の終わりから14世紀にかけて:フランス語の地位の失墜 (136ff; #100)

13世紀前半のフランス人貴族の流入は、それまでに貴族の間に既に広がりつつあった英語の使用を阻害することになりはしましたが、同時に外国人への反感から英語に対する愛着、自分たちの言語だというアイデンティティーに関わる意識を高めることになりました。エドワードの即位により、国内の平和が回復に連れ、英語の地位は徐々に高まっていきます。

英語を話す人口の割合は、最も保守的であった教会や大学の中でさえ増加しました。

その証拠は、以下のような規則に現れます。フランス語で話すことを規則として押しつけなければならなかったのでした。

例1. 13世紀の最後の十年間、カンタベリーのベネディクト会派の修道院たちは初心者が学校及び回廊で英語をしゃべるのを禁じねばなりませんでした。そして全ての会話はフランス語でするようにという規則を定めています。

Customary of the Benedictine Monasteries of Saint Augustine, Canterbury. and Saint Peter, Westminster, ed. E. H. Thompson, Henry Bradshaw Soc., xxiii, 210; xxviii, 164.

 

このような言語制限は大学の中にも認められます。

例2. 14世紀のオックスフォードでは、学生が文法の解釈や翻訳を行う際、英語、仏語の両方で行うような規則を定めました。その理由は「仏語が完全に使用されなくなるのを防ぐため」であったといいます。

[Munimenta Academica, II, 438. (Roll. Ser.)]

例3. エクセター・コリッジExeter Collegeのための補則規定は司祭ステイプルトンによって、1322, 1325年に定められているが、それ以外にもオリエル学寮 (Oriel (1326))、クィーンズ学寮 (Queen's (1340))の設立規定にも、学生の会話はラテン語もしくはフランス語で行われるべきことがうたわれている。

例4. 同様のことは、例えば1284年にまで遡っても、マートンMertonではペカム大司教Archbishop Peckhamが、規則通りにラテン語が話されていないことを目撃している。時代が更に降っても、このような伝統ある古い学寮での状況は更に悪化したであろう。フェロー(評議員クラスの教員)が食卓で英語でしゃべり、「不名誉な靴を」履いていたという記述もある。[C. E. Mallet, A History of the University of Oxford (3 vols., London, 1924-27), I, 118.]

 中英語の終わり

中英語の時期はだいたい1400年ごろまでと考える人もいるけれど、

多数の意見としては1500年ごろまでにしています。

何故かというと、1400-1500年の間に大きなことが二つ起きているからです。

a. 一つは  活版印刷術の発明

b. もう一つは新しい教育、新しい知識が広まっていったことです。

そしてこの二つによって、私たちは中英語から初期近代英語へと移っていくのです。

 

初期近代英語の始まり

 

この二つによって生じた問題は、まずスペリングに現れます。

Q活版印刷術によるスペリングの問題とは何ですか?

A 綴りの標準化への方向性ができたということです。

 15世紀半ばにドイツで発明された活版印刷術は、1476年、ウィリアム・キャクストン (William Caxtonによってイギリスにもたらされました。初期印刷本の多くはラテン語の書物でしたが、この新しい技術の恩恵を最も受けたのは、いわゆるvernacularと呼ばれる、各国語でした。1640年までに20,000タイトルを越す英語の書物が出版されました。その種類は様々で、一枚のパンフレットから重厚な四つ折り本(クォート本)などありました。印刷術のもたらした新しさは、まず、本の製造が速いことでした。けれども、もっと重要なことは、同じ書物を何部でも刷れることです。つまり、これにより推進されたのは画一のとれた綴り、文法等を持つ英語でした。つまり「標準化」が進められたのです。

Q新しい教育、知識から生まれた問題とは何ですか?

A 本を読める人が増えたということから、標準化への方向性ができたということです。

 どんなに印刷本が普及しようとも、それを読み、理解する能力が伴わなくては無用の長物です。『パストン家の書簡集』に見られるように、中世末期には驚くほど多数の中流階級の人々が読み書きできるようになっていました。シェイクスピア時代のロンドンでは、1/3あるいは半数の人が、少なくとも読むことはできたのではないかと言われています。この教育に平行して起こった変化は、人間の交流の質と量の変化でした。交通、通信手段が発達したおかげで、世界各地が互いに密接になったという事です。交通の発達の結果、言語の多様化が進む一方で、言語が統一化へとも進みました。この動きは中世末から今日まで続き、今日の標準英語なるものへと受け継がれていくのです。

 

Qでは、英語はずっと標準化いっぺんとうだったのですか?

A そうではなく、標準化の方向性と、多様化の方向性がいつもせめぎあっているのです。

 今、大きく英語を分けるとき、便宜上、ブリティッシュ・イングリッシュとアメリカン・イングリッシュとに大別することがありますが、まさに、これこそ、英語の多様化と統一化の結果と言うことができます。英国の一植民地に過ぎなかったアメリカが、多様化の結果分かれた英語の保持者となり、また一方では、様々な方言を持つブリティッシュ・イングリッシュが、BBCという放送通信技術の結果により、一つの規範となる英語の確立を導いたということになるのです。

 この教育、そして知識交流の発達によって、さらに促されたのは、自国語に対する意識です。他者を知ることで、なお一層自分たちのしゃべる言語に対する意識が高まったのでした。階級、社会等の異なる人々と自分たちの差別化、ひいては、なにをどのようにしゃべるべきか、という言語意識が生まれたのです。

 

Qこの動きをまとめるとどうなりますか?

A 以下のようにまとめられます。

結局、上に現れた動きは、急進的な側面と保守的な側面の両方を合わせ持つものといえます。

 1. 急進的な影響力とは:言語の変化を促す力のことです。

 2. 保守的な力とは:  言語の現状を保持しようとする傾向のことです。

これは

1. 語彙に関しては急進的に作用した

2. 文法に関しては保守的に作用した

ということが言えます。

 

1. 印刷術の普及 + 読み書きの習慣が広まる + 通信手段が発達

----> 語彙の増加へ(様々な英語表現が可能となる=多様化へ)

2. 上の三つ + 社会意識の高揚

----> 文法と正用法の確立へ(英語表現の一本化へ)

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