国分寺市の鎌倉街道上道  その3

恋ヶ窪谷から鎌倉街道上道はJR西国分寺駅付近の台地に上った後、府中街道とJR武蔵野線の間を南に向かい、泉町陸橋を越えた後、JR武蔵野線を跨ぐように線路の西側にでます。ここからいよいよ国分寺市内でも最も街道跡の風景を残す、黒鐘公園へと向かいます。
左の写真はJR武蔵野線のすぐ西側を通る伝鎌倉街道の道で、黒鐘公園の森の中へ向かう途中を撮影したものです。写真の辺りから切り通しが深くなって行きます。また、付近には写真のところから北西に少し行ったところに武蔵台遺跡公園があり敷石住宅跡を見ることができます。
国分寺市の鎌倉街道跡の道
左の写真が国分寺市の黒鐘公園内にある有名な鎌倉街道跡の道です。最近路面を整備したとみえて、歩きやすくなったようです。
東京都の多摩川以北で昔ながらの古道の姿を残した道があるところは、上道ではここだけではないかと思います。ここを歩いていると都会の近くとは思えない、静かな森の中といった感じで実に良い雰囲気の道です。総延長150メートルほどしかありませんが、このまま後世に残していきたいところです。
黒鐘公園内の伝鎌倉街道
この街道跡の切り通しの東西には古い遺跡が残っています。左の写真は切り通しの西側にある伝祥応寺跡と伝えられるところです。ここの寺院跡はすぐ南にある国分尼寺の一部とも考えられていたようですが、近年の調査によって、鎌倉時代の末期に建てられた寺院跡と判明し、市内の本多4丁目の祥応寺の前身であると考えられているようです。土塁と溝で区画され、現存する礎石の分布から東西9メートル、南北18メートルほどの規模の建物が、そこにあったと考えられ、出土品に鉄製風鐸、板碑、銭貨などがあったそうです。また府中市の善明寺にある鉄仏はここの寺にあったものとも伝えられているようです。(善明寺の鉄仏は恋ヶ窪の阿弥陀堂にあったともいわれているようです。)
鎌倉街道沿いの切り通し上にある伝祥応寺跡
街道跡の切り通しの東側に上ったところには、塚があり古墳のようでありますが、一辺約22メートルあり方形をしていて、国分寺に関係した土塔とも考えられていたようです。しかし、二度に及ぶ調査の結果、中世のもので祈祷のための修法壇跡で、伝祥応寺との関係を有するものと推考されています。

さて、ここの鎌倉街道跡は国分寺市の市指定史跡になっていますが、実はこれは珍しいケースでして、埼玉県や多摩丘陵などには鎌倉街道跡と考えられる遺構が多く残っていますが、史跡指定を受けているものは残念ながらありません。そればかりか地元の人でも街道跡があることを知らない人がいることも珍しくないのです。
史跡指定を受けたからといって、街道跡が残され続けると安心できるものではありませんが、少なくとも知名度や保存意識は上がると思いますが、鎌倉街道に興味を持たれる皆さんはどう思われるでしょうか。

ところで最後にこのようなことを申すのも何なのですが、ここの街道跡は私は実は鎌倉時代まで遡れるかどうか疑問に思っているところなのです。理由としては、このすぐ南の国分尼寺の伽藍の中心部を貫いていることは、私には不自然に思えてなりませんし、国分尼寺がいつ頃廃寺となったかは定かではありませんが、国分僧寺は新田義貞の時代まで存在したことを考えるとどのようなものかと思われます。
また街道跡の切り通しが他の街道遺構と較べると、やはり私には本道にしては狭すぎるように思えます。路面の幅も狭いし、ただ路面は人・馬の走行で堀削られたかもしれませんが。しかし、室町・戦国時代の主要道であったことは大いに考えられると私も思います。いずれにしても素人発想ですので、あてにはなりませんのであしからず。

黒鐘公園内の伝鎌倉街道
黒鐘公園内の伝鎌倉街道

国分寺市の鎌倉街道上道 その1 その2 その3