街道跡の切り通しの東側に上ったところには、塚があり古墳のようでありますが、一辺約22メートルあり方形をしていて、国分寺に関係した土塔とも考えられていたようです。しかし、二度に及ぶ調査の結果、中世のもので祈祷のための修法壇跡で、伝祥応寺との関係を有するものと推考されています。
さて、ここの鎌倉街道跡は国分寺市の市指定史跡になっていますが、実はこれは珍しいケースでして、埼玉県や多摩丘陵などには鎌倉街道跡と考えられる遺構が多く残っていますが、史跡指定を受けているものは残念ながらありません。そればかりか地元の人でも街道跡があることを知らない人がいることも珍しくないのです。
史跡指定を受けたからといって、街道跡が残され続けると安心できるものではありませんが、少なくとも知名度や保存意識は上がると思いますが、鎌倉街道に興味を持たれる皆さんはどう思われるでしょうか。
ところで最後にこのようなことを申すのも何なのですが、ここの街道跡は私は実は鎌倉時代まで遡れるかどうか疑問に思っているところなのです。理由としては、このすぐ南の国分尼寺の伽藍の中心部を貫いていることは、私には不自然に思えてなりませんし、国分尼寺がいつ頃廃寺となったかは定かではありませんが、国分僧寺は新田義貞の時代まで存在したことを考えるとどのようなものかと思われます。
また街道跡の切り通しが他の街道遺構と較べると、やはり私には本道にしては狭すぎるように思えます。路面の幅も狭いし、ただ路面は人・馬の走行で堀削られたかもしれませんが。しかし、室町・戦国時代の主要道であったことは大いに考えられると私も思います。いずれにしても素人発想ですので、あてにはなりませんのであしからず。
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